吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
1998年12月号
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■NHK大河ドラマの近代イデオロギー■
皆さんは、NHKテレビの大河ドラマをご覧だろうか。いまは『徳川慶喜』が放映中である。タイトルの通り、これは徳川幕府最後の将軍の生涯を描いたドラマで、元シブガキ隊のモッくんが主演の慶喜に扮してなかなかの好演である。
さて、大河ドラマの十八番は、戦国時代と幕末維新期と相場が決まっている。どちらも日本の混乱期で、多彩な歴史上の人物が輩出し見せ場も多く、文字どおりドラマチックな時代だからだろう。しかしそれだけのことなのだろうか。なぜ、それらの時代のドラマは私たち日本人を引き付けるのだろうか。
ところで、大河ドラマを見ていて私なんかがやや鼻につくのは、登場人物たちが後世の日本の歴史的展開を見事に見通した予定調和的なセリフを吐くときだ。たとえば幕末維新ドラマで言えば、「日本人は藩同士の利害を越え、一つの国民国家を作らねばならない」とかいうようなものだ。戦国ドラマでも、「日本統一をめざさねばならない」という旨のセリフがよく出てくる。
これは言うまでもなく、現代の視点から言わしめているのだが、視聴者である日本国民に「私たちは正しい歴史的選択をしたのだ」「近代は善だ」「いまは正しい」と言っているに等しいのではないかと思う。近代国家ニッポンに住む日本人に、自己確認(アイデンティティー)を与えるのが、大河ドラマのもう一つの隠れたモチーフであり役目なのではないだろうか。
しかしよく考えてみると、これらのセリフの射程距離は案外短い。せいぜい明治期の近代日本にまでしか届かず、実際のところは現代日本には届いてはいないからだ。だから私なんかには、かえってこれらの「近代主義」のセリフが空しく響くのだ。しかし、そんな私の気持ちにはもちろんおかまいなしに、テレビからは「近代主義」イデオロギーが延々と垂れ流されている。すると、どうなるのであろうか。と言うのも、「近代主義」は諸刃の剣だからだ。
「近代主義」(実は欧米基準主義)は日本人にとっての強迫観念である。日本人はなにか自分が間違っているのではといつも思っている。自分に自信がどうしても持てないのだ。明治以降、欧米の文明文化を受容・摂取してきたが、それはしょせん模倣であり借り物にすぎず、「近代」の「正解」は常に欧米にあるという意識から抜け出せない(その裏返しとして、反近代・反欧米のゴーマンが爆発したこともあるが)。殊に、戦後はその傾向が著しいと思われる。
幕末維新ドラマで述べるが、そこに登場する「近代主義」イデオロギーは次のようなものである。諸藩連合の江戸時代を前近代の封建主義社会として否定する。植民地化を避けるため、緊急課題として国家統一を成し遂げる。身分秩序を廃し、国民が自由で平等な社会を作る。諸規制をなくし、産業振興をはかる。選挙投票で、世襲ではない有能な治世者を選ぶ。議会を開き法を整え、三権分立を確立する。等々。これらが善であり正解とする。つまり、当時の旧い日本を否定し、新しい近代欧米文明文化を肯定すること。それは植民地化を避け、日本の独立を守るためにだ。
ご承知の通り、近代日本は(ドラマでの予言どおり!)見事にこれらをすべて実現した。そして現代日本で問題になっているのは、その内実である。形ではなくその中身だ。いくら「近代主義」が善だ正解だとわめいても、現代においては何の意味もなさない。大河ドラマはすでに結果が出ていることを、その範囲内で繰り返し繰り返しアナウンスしているだけなのだ。そうするとどうなるのだろうか。隠れたモチーフが、ドラマの進行とともに視聴者の中で自然増殖し、しだいに成長してゆくのである。
大河ドラマでの「近代主義」イデオロギーは、日本人の強迫観念としての「近代主義」に訴えかけ始める。その神髄は「旧い日本を否定し、新しい欧米文明文化を肯定する」ことだ。これをこう読み替えるとよくわかる。「いまの日本を否定し、さらに一歩(?)進んだ欧米文明文化を肯定する」と。しかもそれは経済植民地化を避け、日本の独立を守るためにだ。
こうして、大河ドラマで繰り返される「近代主義」の連呼は、日本人にいつしか当時の近代化スローガンとは微妙に違うものとして聞こえ始めてくる。「近代日本の枠組みは正しい。しかしその内実としての、市場開放、規制緩和、内需拡大、自己責任、人権擁護、民主主義などがまだまだ不十分だ、つまり近代化がまだまだ足りないのだ」と。おお何ということだろう、これらは欧米が日本に要求する現代イデオロギーではないか。日本人は自身の中で自己否定を始めてしまうのだ。
最後に、強迫観念としての「近代主義」によって歪曲された日本人の心性を指摘しておきたい。目の前の現実を受け入れることを拒んで無いものねだりをしたり、伝統をやみくもに否定してわけもなく欧米に追随したりするのがそれだ。
これは、テレビドラマなどでも、歴史的事実以上に(あるいは結果の定まった歴史的事実であるから安心してか)強調されているように思える。たとえば、幕府という「現」権威はどうしようもなくダメなものであり、一方天皇という「新・未」権威はよくわからないがともかく幕府よりは良いという先入観。
現代ではこんな例もある。天皇という国「内」の最高権威が叙勲するものは拒んでおきながら、国「外」の権威あるノーベル賞やフランスのド・ゴール勲章ならば喜んで受けるという珍妙な行動。
旧いものや国内のものがよいとか、いまあるものに満足せよとか言いたいのではない。新しいものや国外のものがよいものとは限らないこと、変えることが必ずしもよいとは限らないということを言いたいだけだ。
現代においてはメディアが国民を作るのだ。心してテレビ視聴されることを願うばかりである。
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■中国は何をめざすのか■
▼史上初の中国元首の来日
先月下旬、中国の江沢民国家主席が来日した。中国の元首としては、史上初めての来日となる。卑弥呼以来のおつきあいとして、2000年にわたる連綿たる日中交流史上、初のことなのである。それだけにこれには重大な意味がある。
ところで、今回の来日で、江主席が何回となく問題としたのが「歴史問題」である。この歴史とは、日中戦争を中心に日本が東アジアで引き起こした「侵略」戦争を指すことは言うまでもない。
(あくまで皮肉として述べるのであるが、歴史で言えば、失敗に終わったとは言え、元・高麗連合軍が日本征服を二度も試みた。また中国の四囲「侵略」の歴史には事欠かない。)
そのあまりのこだわりぶりに、直前に金大中韓国大統領との共同宣言があったので同様の措置を求めたのだとか、来日直前にそうせざるを得ない何かの事情が中国国内であったのだとかの観測がなされた。
筆者は「そうせざるを得ない何かの事情が中国国内であった」と考える。ただし、それは来日直前ににわかに泥縄で結われたようなものではなく、4000年以上の歴史を踏まえた遠大な「事情」だと考える。
それは中華帝国としての世界戦略である。中国は世界帝国として復位しつつある。21世紀中にはまちがいなく一大世界帝国としての全貌を表すだろう。その復位過程の途のど真ん中に、のうのうとしてあぐらをかいて座っているのがわが日本なのである。
▼ようやく「現代」を迎えた中華帝国
中国は歴史の国である。秦帝国による中国統一以来2000年間、1842年イギリスによるアヘン戦争の苦杯をなめるまでは、東洋に絶対的に君臨した真の世界帝国であった。そんな中国史においては「近代」とは暗黒の時代なのである。近代化をうまく進めた日本史とはまるで異なる歴史観がここにはある。
アヘン戦争以降、日本軍の侵入も含めて、うち続いた諸外国による侵略や支配はまだ完全には終わっていない。香港は返ったが、マカオの返還は明年だ。マカオ返還でいよいよ、約150年間続いた「暗黒時代」は終わりを告げる。そしてようやく中国の「現代」が始まるのである。
中国の「現代」の境地を明らかにするため、もう少し中国史の話を続けたい。中国は漢民族の国である。その長い歴史においては、東洋の異民族に何度も征服されてきたが、そのつど漢民族は当の異民族を呑み込んで漢民族を豊かにしてきた。
異民族に征服されては、再び漢民族の王朝が復活するのが、中国史のダイナミズムだ。モンゴルに支配された後、漢民族の明が復活する。しかしその後、再び異民族の清に征服される。この末期から「近代」が始まっている。そして欧米日の植民地主義攻勢下、初の非帝政であり漢民族国家である中華民国が成立する。
ご存じの通り、その後、日中戦争の混乱の中で共産党が育ち、日本軍の撤退とともに内戦となり、大陸には中華共和国という新・中華帝国が成立する。しかし新帝国の生みの苦しみは、文化大革命の収束後まで続く。長い混乱期を終焉させたのは不倒翁・トウ小平だった。
つまり「現代」中国は、17世紀以来300年ぶりの漢国家であり、150年ぶりに異民族の侵略・侵入(初の南蛮=欧米、および初の東夷=日本によるものであり、かつ中国が呑み込めなかった異民族。これまではすべて北狄=北方民族)を排除した国家なのである。
▼真の中華帝国への残り一条件
しかし実は、中華帝国の完全復活のためには、満たさなければならない条件がもう一つだけ残っている。それは分裂版図の統合、すなわち中国の統一だ。
秦帝国が中国統一を果たして以来、中国にとって「統一」こそが常態となった。分裂は克服されねばならないのだ。「現代」中華帝国にとって、台湾問題とはそういう伝統問題なのである。いまの状態は、いわば南北朝ならぬ東西朝なのである。これでは統一帝国とは言えない。
この東西統一が完成した時こそ、中華帝国の完全復活だ。それもそろそろ実現の射程に入りつつある。実現した場合、これほどの「完全」中国は明以来、300年ぶりなのである。当然のことながら、中国はすでにその後の戦略に移りつつある。
「近代」以前は、東アジアの盟主でよかった。しかしそれが「近代」の屈辱を招いたのだった。「現代」の中国は世界の盟主をめざさざるを得ないのだ。すでに政治大国と言われてから久しいが、軍備の近代化、経済の近代化も徐々にだが整いつつある。
▼中華帝国にとっての日本という存在
トウ小平はかつて非公式にこう語っていた。「中日交流を1500年とすると、元冦と中日戦争という二つのけんかが100年。あとの1400年は友好の歴史だった」と。
これは何を意味するかというと、中日を対等に考えれば「歴史問題」は乗り越えられる、ということだ。実は、江主席の来日こそ、その「対等」を示すものであった。2000年ないし1500年の日中交流史において、「近代」を除いて中国の方から歩み寄ったことなぞ一度たりともなかったのだから。しかし、そこで「歴史問題」である。
「歴史問題」とは「近代」の意味の修正を迫るものである。中華帝国対日本。「近代」を除いては、日本が中国と対等以上であったことはない。世界帝国への復位を開始した中国にとって、少なくとも東洋においては対等な国などあり得ないのである。
中国の「歴史問題」カードは、日本に中国の「冊封」を受けることを求めるものだ。「近代」以前の関係への復帰を求めるものなのである。請け合ってもよいが、日本が「臣従」するまでこのカードはいつまでも切られ続けられるであろう。
中国は「現代」において世界の盟主をめざすが、その「支配」領域は東洋にある。その中で、別の「近代」(欧米の近代)を生き抜いてきた日本を屈服させないことには、東洋「支配」はいつまで経っても完成しない。中国にとって、絶対に見過ごすことはできない「歴史問題」なのである。
日本にとっては受難の正念場が続く。アメリカの次は中国である。かくして日本のアジア戦略は、アメリカばかりではなく中国によっても阻まれようとしている。悲観せずに言うと、日本の21世紀のカギは、アメリカと中国とに、どうつきあうかである。
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■日本のニヒリズム--日本人の精神の一つの末路■
自由主義が大流行りである。政治や経済ばかりではなく、道徳や倫理においても。しかし日本人に果たして「自由主義」を生きることができるのだろうか。日本人にとって「自由」になることが幸福になることなのだろうか。
誤解のないように言っておきたいが、専制政治の復活や言論の自由の制限などが望ましいというようなアナクロニズムを唱えているのではない。日本人の精神のあり方についてである。
いまの日本を一瞥すると、たとえば和歌山砒素殺人事件の林真須美容疑者がおり、たとえば校内で刃物を振り回す中学生たちがいる。筆者には、ニヒリズムの大波がいま日本に押し寄せているように見える。そしてこのニヒリズムは「自由」がもたらしたように思えるのだ。
▼村上春樹とユング
話はかわるが、村上春樹という不世出の作家がいる。アメリカでもよく読まれている数少ない国際派の日本人小説家である。彼の小説世界に民族性や国籍性ははなはだ希薄である。だからこそ、民族や国境を越えて読まれるのだろうか。
これまで欧米でもよく読まれてきた日本人作家としては、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といったところが代表的な存在で、いずれも「日本」を売り物にしてきた。その違和性、エキゾチシズムがうけていたわけだ。ところが、村上春樹は違う。この作家誕生の背景には日本人の精神世界の変化がある。
村上が描く主人公の生活は「先進」国である日米共通かと思われる無国籍的なものであるが、彼の主人公には言い知れぬ「喪失」がある。そしてその失われたものの探求が物語を形作るのであるが、それはしばしばユング的な精神の深層をめぐる旅ともなっている。
ユングは、フロイトと並び称される西欧精神分析心理学の泰斗であるが、キリスト教=西欧的視点を越えて、マンダラに代表される東洋的な精神世界を包括するような深層心理学を樹立した。
ユングによれば、人間精神の深層には「集合的無意識」という人間共通の「普遍的」な無意識世界があり、これが人間のあらゆる精神活動を規定しているというわけだ。これは夢の世界であり神話の世界であり、宗教や文化の生まれる土壌である。
村上春樹という作家は、民族性や国籍性を脱してもなお、このような精神世界に固執するのである。筆者なんかは、彼の主人公たちにストイックなある種の倫理を感じるし、場合によっては主人公に「求道者」の影すら見る。これはいったいどういうわけだ。
▼「無国籍」性の正体はアメリカニズム
現代社会は「不安の時代」である、と言われる。確かに「先進」諸国では民族や国籍を越えて、人間独りひとりの生き方や生の意味こそが問題である。近年のサルトルの「復活」も、そういう文脈の中にあるのだろう。サルトルとはフランス人作家・哲学者で、人間を「実存」と呼び、かけがえのない自分を、そしてその孤独、不安、喪失を描いた人物だ。
また、アメリカを中心に、『エクソシスト』以降のオカルト映画、スティーブン・キングなどの恐怖小説の流行など、人々の神秘主義的な志向も強い。これも現代人に共通の不安を表象するものであろう。
これら「先進」文化を受け入れる現代日本人は、一見、日本民族や日本国という枠を越えて、ようやく普遍的な「人間」になろうとしているかに見える。だが、第一に普遍的な個人なんかいない。個人は具体的なものの中にしかない。第二に、村上春樹も含めて日本人が見る「無国籍」社会の正体は、実はアメリカという「国」である。
アメリカという国はそれ自体が「世界」なのである。多民族が「共存」するという実験がアメリカという国であるが、この国はそのスタイルをそのまま全世界に拡げようとしている。アメリカニズムにとって、既成の民族や国籍は不要であり、むしろ邪魔ものなのである。しかしながら、アメリカは多民族が「共存」する社会なんかを決して目指してはいない。自国においてすらそうであるように、欧米民族=キリスト教中心主義国家であり、この「特殊」な文化と価値観を「近代的価値観=普遍主義」として全世界に押しつけようとしているにすぎないのだ。
また、ユング自身に責任はないが、彼の「集合的無意識」の普遍性ですら、西欧中心主義を免れ難い。彼の思想にも普遍的要素に加え、特殊西欧的要素が当然のことながらある。
▼日本人の「自由」
これらの背景を無視して、精神の表層においてはアメリカニズムの「自由」を、深層においてもアメリカニズムの「普遍主義」を受け入れ、生きていこうとしているのが現代日本人である。
日本人が戦後、一貫してやってきたことは、経済成長と豊かさの追求であり、精神面においては旧俗を脱することであった。民族や国籍に「束縛」された精神を「自由」にすること。日本人の旧来からの道徳や倫理といった固有の「特殊的」価値を捨てること、であった。その作業も半世紀を経た。その結果、豊かで無軌道な社会が出現した。自分で死ぬのも他人を殺すのも「自由」な社会が到来した。
実は、精神とは常に不合理なものに「束縛」されているものだ。その束縛には、ある道徳性や倫理性が多く含まれている。むろん、蒙昧も含まれてはいるが。「自由」なアメリカ人すら「束縛」されている、キリスト教文化によって。彼らの普遍主義、自由主義は何の底板も持たぬものではない。それはキリスト教文化という頑強な地盤に支えられているものなのだ。彼らの神秘主義もキリスト教文化の枠内にあるものである。
それに対して、私たち日本人はどうだろう。表層的な旧習や旧弊といっしょに、はなはだ軟弱ながらも私たちの唯一の精神基盤である「日本」をどぶ板のように自ら踏み抜いてきたのではなかろうか。あれもダメ、これもダメと、よく選り分けもせず、産湯といっしょに赤子を捨ててきたのではなかろうか。
▼「自由」な文明は進歩か
確かに文明は、不合理なものによる「束縛」から精神を「自由」にする。しかし同時に、人間はその「束縛」の中に含まれた、ある道徳性や倫理性からも「自由」になってしまうようだ。こうなると文明とは何かと問いただしたくなるが、事実である。
相対的な問題ではあるが、未開の人間観は性善説であり、文明の人間観は性悪説となる。たとえば、アイヌ対江戸幕府、アメリカ・インディアン対アメリカ合衆国の歴史がこのことを証明している。前者は後者の「うそ」を信じてだまされた。後者は自らの文明の流儀に従ったまでだろう。ただ、前者がそれを理解できないということを十分に承知しながらそうしたことが、悪意だ。
これは国レベルだけではなく、個人レベルでも真だ。「未開」の善人が「まさかそんなこと」と思うようなことが、「文明」の悪人にとっては「当たり前のこと」となる。
和歌山砒素殺人事件の林真須美容疑者は(これまで報道されていることが事実なら)悪人だ。彼女の他人観は、道具的、操作的なものである。校内で刃物を振り回す中学生たちも同様だ。これらの他人観は、先ほどの「文明」国の他国観そっくりではないか。
▼奈落に落ちた林真須美容疑者
話があちこちにとんでしまったが、このあたりで締め括りたい。筆者に言わせれば、人間は「らっきょ」のようなものである。不合理なものの「束縛」を捨てることは、実は自らの精神を剥ぎ取ることに他ならない。服を脱ぐように「束縛」を捨てても、裸のあるいは真の「普遍的」な人間や自分なんか出てこない。らっきょのように最後は自分がなくなるだけだ。
たとえば、神道による公共機関の祭式や「大東亜戦争」論などがいつも非難される。もちろん弁別しなければならない要素も多いだろう。しかしただちに全否定して、思考すること自体を排してしまうことは、知らず識らず日本人のアイデンティティーを喪失させることにつながっている。
日本人にとって道徳や倫理とは、実を明かせば慣習にすぎず、慣習は習慣にすぎない。私たちは新たな習慣と慣習によって無国籍人にもなれるのだ。そう考えれば、村上春樹は民族や国籍にかえることを封殺された「現代日本」という地点から、誠実にももう一つ別の道徳や倫理を必死になって探し求めようとしているのかも知れない。それが彼の主人公の倫理性であり、魂の在り処の探求だとも思える。
しかし、そのような努力は日本人全員がなし得るものではない。多くの日本人は「束縛」を脱した「自由」をただ謳歌している。そしてその「自由」とはただののっぺらぼうであり、そのすぐ後ろには深く底がない奈落がぱっくりと口をあけているのである。ニヒリズムだ。林真須美容疑者とはそこに落ちたニヒリストであり、私たち日本人の精神の一つの末路である。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved