吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

All IndexTop Page


世紀末1999年の日本と世界

(一)

 ノストラダムスの1999年となった。年の区切りなどお構いなしに、相変わらずの日本と世界であるが、ますます「吉外井戸のある村」が増えていることだけは間違いない。どうか、心して毎日を過ごされんことをまずは望みたい。

 真実の見えない社会---、いや今さら一面的な事実なんてあり得ないのだ。多義的多面的であることがむしろ社会の実相だ。だからと言って、あきらめることはない。自分のものの見方、自分なりの思考軸を持てばそれでよいのだ。

 むつかしく考えることはない。ポイントは騙されないことだ。世界各国は日本政府はマスコミ各社は、これが事実だとばかり一面的な「うまい」話をし、私たちを騙している。彼らのやり方は、事実のある一面だけを真実として見せることだ。しかしその真実とは見かけにすぎない。彼らにとっての本当の真実は隠されている。もちろん、私たちの真実と彼らの真実は違うものである。

 世界各国と多国籍企業はこれを意図的に行なっているが、日本の政府とマスコミは「世界」や「普遍」的価値の大勢に押し流される形で行なっている。それはタテマエであり、彼らのホンネは自らの保身程度の目先の「国益」にすぎない。

 こうして日本人は、すでにすっかり「世界」に取り囲まれてしまっている。「世界」とは、欧米政府であり欧米企業であり欧米的価値観である。日本社会を見るとき、決して欠かしてはならないのはこの「世界による包囲」のパワーである。

 私たちは「世界」のタテマエで生きるように強いられている。この「洗脳」「マインドコントロール」は完璧だ。それは青少年の姿を見れば、よくわかる。教育においては、彼らは「国際人」になることが求められている。しかしそれはあたかも「アメリカ人」(=脱日本人)になることと見まがうばかりである。一方、「アメリカ人」になることがかなわない大方の若者たちは「無国籍人」(=脱日本人)という「国際人」として思考し振る舞っているかに見える。

 筆者が言いたいのは「日本対アメリカ」でも「神国日本」でもない。反「デラシネ(根無し草)」である。逃れられない自らの「根」をしっかりと見つめること。そこを確実な出発点とすることだけである。日本人にはいま、自ら「転向」することが必要だと思う。これは「右への転回」ではない。自らの根を取り戻すことだ。ホンネ、つまり私たちの真実を見る「視力」を取り戻すことである。

 太平洋戦争突入前の昭和初期に、歴史上の「転向」があった。マルクス主義者たちが官憲の強要により、反日的政治信条を捨てさせられた政治事件である。そこで転向者たちは西欧産の信条を捨てる代わりに、奇妙にもあるものを手に入れた。そのあるものとは日本人としてのホンネの生活、自らの「根」であった。そして目の前のことをありのままに見ることができる「視力」を回復したのだ(もちろん、このような強要ではなく「自ら」転向することが重要だ)。

 私たち日本人は「目」で見ずに「頭」で見るように、明治以降、自らを教育してきたように思う。つまり、デラシネを作ってきたのだ。それを欧米の木々に差し木して生きていけると思い込んで。「視力」を失っていたということでは昭和前期の軍部も同断である。そしていまの日本政府やマスコミも。

 デラシネの状態で、あれかこれかではないはずだ。「根」をもとに、あれもこれも、あるいはあれかこれかを、考えたり試したりしていけばよいのだ。それが合わなければやめるだけの話だ。

(二)

 ここで、年明けになって申し訳ないが、昨年の日本と世界を振り返りつつ、今年以降の展望へとつなげたい。全体として言うと、昨年は案外盛り沢山であった。そしてその流れには、来る21世紀を予感させるものがある。

 スポーツでは、2月に長野冬季オリンピックが、6〜7月にはフランスでW杯サッカーが開催された。また、Jリーグについては、くじ論議や最近の横浜フリューゲルス問題など話題に事欠かない。2002年の日韓共催大会に向けて、サッカーは一つの問題軸である。

 1点だけ申し述べるが、「Jリーグ」はまさしく「欧米文化」である。その「体育対スポーツ」論議といい、明らかに「日本」打破をめざすものである(これに対する「読売」が日本だとも言わないが)。たかがスポーツだと甘く見ない方がよい。一つ一つ、熟考を要する。

 社会事件では、2点に集約される。和歌山のカレー毒物混入事件(7月)と中学生による教師刺殺事件(1月)である。両者とも、連鎖的に一連の同種事件を引き起こした。

 前者については前号などでも触れたが、これらの事件は、要するにデラシネによるニヒリズムが日本社会を蝕んでいる証左と筆者は思っている。豊かさが狂気を生むのは必然だ。一定の数なり率の狂気の発生は、社会的コストとしてあらかじめ読み込んでおくべきだろう。

 しかしながら、この狂気を助長しているものがある。「自由主義」とか「自己責任論」とかいった「欧米的価値観」である。これら欧米産の「上部」思想は当然のことながら、それだけであるわけではない。欧米人の宗教を含めた「下部」無意識(=「根」)から生えているものだ。

 そのようなものを持たない日本人が「思想」や「理念」だけを呑み込んで、中毒症状を起こしているのだ。根から抜かれ、あるいは自ら根を抜き、デラシネとなり、タテマエの「思想」や「理念」とは裏腹に、ホン根(ネ)ではともすればニヒリズムに陥っているのが日本社会である。

 今年に限らず、21世紀にも、このデラシネ-ニヒリズムは日本においてますます猛威をふるうことは避け難いだろう。早い話が「いったい何を考えているのだ」とか「信じられない」とかいうような事件がこれからも頻発・続発するということだ。

 軍事-政治面ではいろいろあったが、3点だけ挙げておこう。時系列順に、インドとパキスタンの核実験(5月)、北朝鮮のテポドン発射(8月)、米英軍のイラク攻撃(12月)である。

 これらはすべて日本政府の「常識」(思案の限界)を超えている。この場合の「常識」は、タテマエもホンネも含んでいる。まず、世界は決してタテマエで動いてはいないのである。目の前のことをありのままに見ることができる「視力」がないことを証拠立てる実例だ。次に、小心なホンネでは世界政治にはとても通用しないということだ。

 日本政府はまず、ホン根(ネ)を持たねばならない。ここでも第一の、そして最大の障害はアメリカである。意識の上での脱米を果たさねばならない。そのうえで、タテマエを築かねばならない。このタテマエとは政治戦略、国家戦略である。

 最後に、経済-政治面である。長引く不況は、山一証券と拓銀に続き、長銀と日債銀の破綻にまで至った。汚職関連もここで併記しておくと、日銀、大蔵省、防衛庁に検察の手が入った。

 しかし以上は本質的な出来事ではない。前評判だけが高く実施後は誰も見向きもしなかった、4月から始まった金融ビッグバンこそが今年以降、21世紀を規定するものだ。これは日本が完全に欧米資本の射程圏内に入ったことを意味する。
(欧米資本が、そして同根のIMFがどんな「いたずら」ができるかは、東南アジアを中心にしたアジアの金融危機でご存じだろう。)

 この間、「世界」はそれぞれ、攻撃態勢の再構築に余念がなかった。山一の処分品を叩き買ったメリルリンチを始め、ロックフェラーやモルガンなどの息がかかった銀行や証券が日本の大銀行や証券と矢継ぎ早に提携した。

 また、大型合併の発表が相次いだ。ベンツとクライスラー、ドイツ銀行の米国バンカース・トラスト買収、とどめはモービルとエクソンだ。最後の石油資本の統合は、ロックフェラー帝国の復興に外ならず、ロックフェラーが本気であることを伝えて余りある。

 今年元旦、EUの経済統合が始まり「世界」通貨ユーロが誕生した。西欧はこれで仲間割れを棚上げして、「商売」に専念できるわけだ。商売がたきは、一方では仲間でもあるアメリカだけだ。そのような目でEUとアメリカを見ると、少しは21世紀の「世界」がわかるだろう。
(戦略的提携にはいくらでも選択肢があるが、究極的には欧米人には「欧米対その他世界」という図式しかない。)

 そして、これについてはまた改めて書きたいが、日本の金は半ば日本人のものではない、あるいは日本政府の金であって「私たち」の金ではない。まず、外貨準備高は「ドル」であって、アメリカの為替操作によってその価値は摩滅させられている。

 また、郵便貯金は財政投融資となって、最悪の「不良債券」である旧国鉄債償却などとんでもない用途にも使われている。投資信託や保険などは、米国債や欧米企業への投資となりウォール街を潤わせた上で、再び「日本買い」の資金となっている。欧米銀行・証券などへの預金や投資については、もう何も言うことはないだろう。

 日本人はまず、自らの無知を恥じねばならないが、全身の毛という毛を抜かれた七面鳥のようなものだ。あとは料理されて、食卓に居並ぶ「みんな」にきれいに切り分けられるのを待っているようなありさまなのである。

 しかし私たちはしぶとく生きていかねばならない。自ら「転向」し、もう一度、ホン根(ネ)とタテマエを打ち立てようではないか。これも、もう一つの「吉外井戸のある村」作りではあるが。世界とは「狂気」の主張仕合いにすぎないのだから。

head

Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved