吉外井戸のある村
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「護憲」とは何か

 新年早々、「恒例行事」とはよく言ったものだ。改憲を口にすると、即「撤回」と「謝罪」だ。食傷もいいところである。

 今年の第一打者は中村法相だった。「軍隊ももてないような憲法をつくられて、改正できないという中でもがいている」(朝日新聞・1月5日夕刊)との発言であった。

 この中村法相の発言そのものにはあまり興味はない。ここでむしろ問題にしたいのは、これらの発言に対して常に持ち出される「護憲」とは何かと言うことである。

 護憲とは、読んで字の如く、憲法を護ることであり、その憲法とは「日本国憲法」(戦後憲法)のことである。そしてその精髄とされているのは、ご存じ第9条の「軍隊の不保持」と「戦争放棄」である。

 筆者は、戦争は嫌いである。攻めるのも攻められるのも真っ平ご免である。日中戦争は泥沼だったし、今も続く批難なんて、まるで割に合わない。また、昨年のイラクの如く、いやそれ以上の原爆人体実験国にされたりなんて、こりごりである。

 護憲とは、早い話が「攻めるのも攻められるのも真っ平ご免」という「思想」だと思う。もっともなことだ。しかしこれが思想だろうか。もちろんそうではない。これは単なる「望み」である。私の考えが望みにすぎないように。

 望みとは自分勝手なものだ。事実、「攻めるのも攻められるのも真っ平ご免」という「思想」には、「では、攻められたらどうするのだ」という論理がない。

 21世紀を目前にして、冷戦も終結した現在において、無謀に攻め込む勢力なぞあろうかという懐疑には、昨年は反証が2つあった。北朝鮮のテポドン発射と米英軍によるイラク爆撃である。

 まず、事実を確認しよう。「自衛隊」は紛れもなく軍隊である(すなわち明らかに違憲である)。中国の「人民解放軍」が軍隊であるように。そして、戦後憲法は明らかに占領米軍が主導して作ったものである。

 筆者はどちらも不当なものとは考えないが、「護憲」とは微妙に距離を置かざるを得ない。第一に、真っ当な「護憲」であれば「自衛隊」は不保持となるが、無軍状態あるいは米軍独居状態を良しとするのであろうか。

 次に、現憲法は占領米軍が作ったものであっても私たちが受け入れたものであるから良いのではあるが、これが金科玉条、永遠不変のものなのであろうか。改憲とは、一方では未来であるはずだし、そうでなければ日本は良い方向へも変われないのだと思うのだが(第9条に特定しているのではない)。

 結局、「護憲」とは座して日本の死を待つ、ということではないのか。これは戦争論として言っているのではない。思考論である。考えること自体を封殺するのは、日本社会の十八番であるが。戦前はそうして戦争に突入したのであるが、今度はどこへ突入しようというのだろうか。

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