吉外井戸のある村
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普通の国と特殊な国

 14日、自民党と自由党との連立内閣が成立した。最終合意直前まで懸案となったのは自衛隊の国連平和維持活動(PKO)参加問題だった。

 小沢党首の持論は、日本を「普通の国」にすることだ。改憲論議はよい。しかしその目標が「普通の国」なのだろうか。

 彼が言う「普通の国」のモデルとはどんな国なのであろうか。思うに、欧米諸国であるに違いない。それらの国がそんなによい国なのであろうか。そもそもそれらの国が「普通の国」であろうか。

 当然ながら、政治経済的にも歴史文化的にも特殊な国々であるにすぎない。私たち日本も特殊な国をめざせばよいではないか。ただし、つき合いがあるわけで「特殊な国」という理由で身勝手が許されるわけではないことは言うまでもない。

 愚直な国連至上主義も止めた方がよい。その存在を無視するわけにはいかないだろうが、中立かつ無謬の存在(というより「大樹」か)というような幻想は絶対に抱いてはならない。国連は公的な顔をしてのさばっているが、IOCと同じ任意団体にすぎないし、その本質は欧米連合である。これまた特殊な団体なのである。

 さて、そのPKOであるが、その実体は欧米諸国軍にすぎない。参加国とその規模や「貢献」度合いをよく見てみるがよい。どこが「国連」軍であり「国際」軍なのであろうか。日本が乗り遅れまいとしているのは「欧米」バスにすぎないのである。

 欧米を軸として世界が回っていることは認めよう。しかしそれだけが世界ではないだろう。特殊な国として別視点で世界を見て、これに関わる道はないのだろうか。愚考するに、一つは憲法である。次に、独自の国際貢献である。

 憲法は現実適合的に改正すべきだろう。違憲の軍隊は二枚舌そのものである。明解に自衛軍としての自衛隊を規定すべきである。改正憲法に、国際紛争の解決手段として戦争放棄を宣言することは、現在同様であるべきことは言うまでもない。私たちの憲法は、自己満足的理想主義ではなく、他国が「平和主義」憲法として現実的に見習えるものとして整備すべきである。

 国際貢献としては、PKOなぞという鵺(ぬえ)からはきれいさっぱりと足を洗い、軍隊によるいかなる「国際貢献」も一切行わないことをむしろ宣言したらどうか。日本は政治経済や文化による貢献しか行わないことを宣言したらどうだろう。そして実際、文化貢献を中心に大幅な予算を組み、現実的にこれを裏付けるべきではないだろうか。文化を中心にした人的交流こそ、相互理解、特に日本という「特殊な国」を「普通の国」として世界に知ってもらう最大の施策だと思うのだが。

 具体的には、日本の費用負担による留学生や研究者、芸術家等文化人を大幅に受け入れ、同時に日本人の海外派遣を大幅に増やし、これらを恒常化すること。大量の外国人の日本滞在経験、および大量の日本人の海外滞在経験は、必ずや日本人の真の国際理解にもつながるはずだ。ひいては相互の安全保障にもつながっていくものと考える。

 最後に、そういう真の国際化のなかでの日本文化の条件について申し述べておきたい。まず、日本については日本語で語られなければならない。次に、翻訳可能性をもっていなければならない。

 「国際語」としての英語の重要性は否定しない。しかし英語が国際語ではない。にもかかわらず、たとえば、本誌も活用しているインターネットの世界はあたかもそうであるかの強迫観念によって支配されている。インターネットが米国産のものであり、その利用・活用者にアメリカ人が多いということにすぎない。

 言語こそ文化である。日本が日本である証しは日本語にある。私たちが日本語を話したり書いたりしている限りは日本はある。また私たちは日本人である。臆することなく、自己表現として私たちは日本語をどこでもだれにでも使うべきだと思う。その次に、コミュニケーション・ツールとして英語でも中国語でもヒスワリ語でも大いに活用すればよい。

(横道にそれるが、外来の「カタカナ語」について少々。これの氾濫によって日本語がなくなるのではないかというような危惧を抱く人がいるが、筆者はまったく心配無用と考えている。日本語の美しさといったような観点からは大いに問題はあろうが、カタカナ語の多用によって日本語がなくなったりはしない。第一、カタカナになった時点でそれはもとの言葉の意味ではなく、日本人によって日本語として使われているのだから。かえって、次のような注意が必要である。すなわち、そのカタカナ語はあくまで日本語であって原語とは違うものであるから、そのままでは通じないということだ。最近の例では英語にはない「グローバル・スタンダード」が典型だが、伝統的にはたとえば"society"と「ソサエティー」(社会)とは違うものだ。)

 次に、翻訳可能性ということについてだが、これは単に他国語に訳せるということではない。その国の文化に通じるということだ。つまり、日本の特殊性は他国の特殊性へと通じていなければならない。世界の普遍性へ開かれているとはこういうことだ。

 たとえば、日本文化の特殊性の第一が天皇であれば、天皇は他国にもなければならない。もちろん、同じものがあるわけではない。しかしその要素や元型はあちこちにあるはずである。すでに喪失されているケースも含めて。これをどこにも見出せないとしたら、むしろ私たち日本人の怠慢であり、「特殊な国」ということを理由にした身勝手である。

 高橋源一郎氏が言うように「ニッポン、チャチャチャ」ではだめなのである。自己満足の日本主義は「日本は日本である」というトートロジー(循環論法)である。閉じた日本主義は単なる特殊主義であり身勝手である。くるくる身勝手に変わる「観念」なぞではなく「身体の傷跡」こそが個人史の所産であるように、真の個性とは服をすべて脱いでも残るものである。あるいは皆同じ制服を着た時に現れるものこそが個性であろう。

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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved