吉外井戸のある村
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報道の中立神話の欺瞞を撃つ

 文明の進歩とは、一面では目的と手段の転倒の歴史である。たとえば、何のために生きているのか。自分の人生を全うするために生きているのである。それが、その手段にすぎないことをほぼ目的であるかのように勧めるようなことが喧しい。

 たとえば「より健康信仰」である。健康食品、健康飲料、健康運動、健康思考…。より健康になって長生きして、どうするのか。この〈どうするのか〉がない健康なんて、ゴキブリホイホイを免れたゴキブリの生である。

 思わず毒づいてしまったが、これも節分の日の朝日新聞朝刊を読んだせいだ。ここに〈目的と手段の転倒〉の好例が掲載されている。こういう記事内容を臆面もなく日本全国に配布する朝日新聞とはいかなる目的をもった存在なのだろうか。

 さてその記事なのだが、去る1月21日に東京・お台場で起きた、犯人の少年が小学生を人質にして「マスコミを呼べ」などと要求し、その数時間後に逮捕された事件に関してのものだ。皆さんのご記憶にもあるだろう。このとき、マスコミに扮した警察官が犯人のスキをみて行動し、人質の解放と犯人の逮捕に成功するきっかけとなった。

 これに関して朝日新聞は、このときマスコミである証しの「取材腕章」を警察官に貸したのは実はラジオ局のニッポン放送の記者であり、さらにこのことが同社内で問題となり「軽率だった」「報道機関として警察当局との関係に適切さを欠いていた」との結論を出した、と批判的に報じている。

 朝日新聞に限ったことではないが、他社の批判なんかに紙面を割いてどうするのだと思う。もっと大事なことがあるだろうし、そうでなくても広告だらけなのに。朝日は、これでフジサンケイ・グループの「報道姿勢」を叩いたつもりなのだ。ニッポン放送もニッポン放送だ。何をビクビクすることがあるのか。この場合は、適切な行動ではないか。堂々と胸を張ればよい。

 そのニッポン放送が反省しなければならなかった理由、つまりは批判をあらかじめ恐れたわけを、ご丁寧に朝日新聞は二人の大学教授のコメントとして併載している。どちらもおもしろいが、後者は特におもしろい。(ともに掲載記事よりの部分引用)

「一般論で言えば、捜査員などがマスコミを偽装することは許されない。マスコミは、当事者間の争いに中立の立場で現場に入る。腕章はその立場を示すもの。見る者の信頼を失わせる行為だからだ」(R大教授)

「あってはならないことだ。記者は現場で起きていることを取材し、国民に向けて報道するのが役目であって、警察から協力を求められてもはっきり断るべきだ。取材機関が協力すれば、自らも当事者になってしまうことになり、報道の中立性が保てなくる」(H大教授)

 もちろん、こうして引かれているのは朝日新聞の見識であり、同紙の意見の代弁であるからだ。ここには時代錯誤と傲慢、現実が見えない机上空論主義、それに主客転倒(目的と手段の転倒)がある。ものわかりがとても悪そうなので、やさしく言ってやると、どうしようもない石頭だということだ。これではまもとに政治や経済、社会の批判ができるわけがない。どうりで巨悪を見逃し、小悪を叩いているわけだ。些末や表層にこだわり、大局が見えないはずだ。

 〈中立〉なんてあり得ないのだ。敵でも味方でもないマスコミなんて、まるで〈透明人間〉ではないか。たとえば、湾岸戦争のとき、イラクがCNNを受け入れたのはもちろん情報戦を有利にするため〈味方〉としてそうしたのであって、中立記者を受け入れたのではないのは明らかだろう。

 マスコミが透明人間であると本気に考えるのは時代錯誤だし、それを自ら信じることは傲慢だ。そんな錯誤を前提に学問や取材が可能だと考えるのは机上の空論だ。当の朝日新聞自身が太平洋戦争時下の自らの体験等を通じて、骨身にしみておられるはずのなのであるが。

 かつてヴェトナム戦争のとき、衝撃の写真報道がいくつかあった。その中に、銃殺される捕虜の姿を捉えたものがあった。銃殺直前の姿、そして直後の姿と報道写真は克明に極めて冷静に透明人間のように戦争を写真家は捉えていた。

 火事、地震、犯罪…。苦しみ助けを求める人々を前にして、記者は〈当事者〉になってはいけないのだ。ただ〈事実〉を報道するのみ。「国民に向けて報道するのが役目」であることを忘れてはならない。---ああ、何という非人間的な営為だろうか、マスコミとは。果たして国民は事実をそんなにも待ち望んでいるのだろうか。

 ウソだ! 国民は他人の不幸を見ているだけだ。マスコミは商売をしているだけだ。「当事者にならず克明に報道せよ」とは、商売のためには何があっても「他人の不幸」を取り逃すなという意味だ。そのための中立だ。

 本件の場合、こういう形で警察に協力することのどこに問題があるのか。裁判中の証拠ビデオでもないし、ましてや戦争でもない。いかなる理由があろうと小学生が首にナイフを突き付けられている状況なのである。まずはこの状況の打開をはかってからのことではないか。それとも他人の不幸を見させる中立報道を続けることが中断されたことが、くだんの彼の罪だったのだろうか。それならそういう処分をすべきだろう。

 ともあれ、こういうことをこのように報道をする朝日新聞は「報道」こそが目的なのであろう。火事、地震、犯罪、それに戦争…、何ががあろうと、ただ事実を報道するのみである。

 そもそも報道なんていらないのだ。なぜならそれは手段にすぎないからだ。私たちはテレビ・ニュースも新聞もなくても実は生きていけるはずだ(残念ながら、すでにそうではないというマインド・コントロールが蔓延しているが)。すなわち、報道とは手段にすぎない。しかし国民の生命と安全は守られなければならない目的であるのだ。社会があっての報道であるはずだ。

 聖書の文句の如き「初めに報道ありき」(何よりもまず、報道・マスコミがある)の思想が「中立」幻想をも生んでいるのだ。主客転倒、手段の自己目的化と言わざるを得ない。

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