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M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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保谷市「ジーパン市議」騒動から私たちの思考の落とし穴を見つめる

(一)

 2月12日づけ毎日新聞に、次のような記事が掲載された。

 保谷市で先月初当選したある市議会議員が、グレーのウールパンツに、綿のデニムシャツ姿で議会に現れたところ、自民党所属の議員が「前例のない、議会にふさわしくない服装の議員がいるので取り扱いを話し合いたい」と緊急動議を提出した。各会派で協議しており、背広やネクタイの着装を義務付ける服装規定を設ける声も出るなど、「ネクタイ論争」をめぐって紛糾しそうだ。云々。

 要するに「自由人権派」対「社会ルール派」だ。私たちの思考はここで止まってしまう。そしてどちらももっともだと思いつつ、現在の自分の立場に合わせてどちらか一方を選ぶ。これがなんの気になしに私たちがいつもしていることだ。

 果たして、選択肢はこれだけなのであろうか。自由かルールかしかないのだろうか。私たちはどうも問題を単純化する嫌いがある。これはこれで立派で、現実合理的な思考法の一つではあるのだが。しかしそれだけでは発展的な思考ができないのだ。ある問題を一問題としてだけ押さえ込み、似たような別の問題が次に噴出するまでの「休火山」とすることが、いまの日本人が常套とする「解決」というものだ。

 この問題に沿って考えてみよう。「自由人権派」議員は、人間についての理解に乏しい。だいたい「自由主義」者はいつもそうなのだが、人間は精神(意識)だけだと思っている節がある。しかし現実の人間はもっともっと弱いものだ。肉体(無意識)に従属させられ、外見(見た目)に他人も自分も縛られ、一方ではそれに助けられている。

 「グレーのウールパンツに、綿のデニムシャツ姿」、つまり普段着ということだ。少なくとも日本では「普段着」は休日に着るものだ。この議員は「普段着」で「仕事」をしようというわけだ。ああ何とすばらしいお育ちのお方であろうか。これまで仕事即休日というような毎日を過ごされてきたのであろうか。

 働く女性には、背広もなければネクタイもない(「服装規定」ができたところで、女性議員についての規定項目では「男性に準じる」の一言だけであろう)。しかし彼女たちは「普段着」で仕事に出かけるだろうか。その服装のままで休日を過ごすのだろうか。

 なめてはいけない。背広やネクタイだけが「仕事着」ではもちろんない。「仕事着」とは形ではない。しかし「仕事着」と「普段着」は截然と分かたれるものだ。たとえば、もしデパートで店員がその気持ちはともかくとして「普段着」でお客と接したらどうであろうか。いかにも変であろう。この「変だ」という感覚が大切である。

 一方の「社会ルール派」は、背広やネクタイが永遠不変のものだとでも思っている(あるいはそう思うことにしている)。これを間違っても「保守主義」なぞと呼ばないでほしい。ただの馬鹿、そう言って悪ければ、思考がお昼ね中であり自分には判断能力がないと自ら宣言されているだけの話なのだから。

 こちらは会社に出てさえいれば「仕事」をやっている気になっているようなものだ。こんな輩(やから)に市議をさせているのだから、私たちも詮がないというものだ。そんな問題がすでに起こっていたが、たとえば女性議員の服装はそのつど判断しなければならないだろう。それとも詳細な解説図入りの「服装規定」を首っ引きに「審査」するおつもりなのだろうか。

 市議会ではこんなつまらない「普段着」議員なぞ一顧だにせず、本来の職務である議事を淡々と進行すればよいのだ。そうすれば自ずからその不見識に自ら思い至るか、市民から叱責の声がいつか飛んだかしたであろうに。

(二)

 私たちは大きな勘違いをしでかしている。「絶対」なぞというものがあると思っているのである。この両派がそうだ。どちらも「森」が見えていない。「すべての問題はある諸条件の中での一問題にすぎない」ということにまるで気づいていない。無際限には自由もルールもないのである。そんなものに寄りかかろうとする思考こそが大問題なのである。

 解決は「あれかこれか」ではない。どちらでもない第三、四番目の選択肢はいくらでもあり得るし、それも諸条件、つまり「状況」次第である。絶対ではなく、相対の中で思考しなければならないのだ。それが本当の「現実」を生きる思考である。真の問題は「森」は何かであるかだけだ。一本一本の「木」ではない。

 私たちは、不安ではあるが「相対の海」を進まねばならないのだ。「仕事着」の感覚なぞ、双方とも一度OL(あるいは所謂キャリア・ウーマン)に教えを乞うたらどうだ。私たちは「普段着」では仕事をやる気にはならないし、見た目にもそうだろう。少なくとも筆者自身はそうである(筆者も一サラリーマンである)。私たちは肉体(無意識)や外見に縛られ、かつ助けられているのである。少なくとも、いま現在の日本社会ではそうだ。これを違うと言う人を「常識がない」と言うのである。

 さて、先の記事の続きに、同議員のコメントで「納得する理由が聞ければ、服装を変えてもいい」云々とある。また、同じことを実践された先輩議員(三沢市議)からのコメントも載っている。曰く「議員の活動は服装で評価されるものではなく、その内容が問題だ。服装で人を差別するのであれば、基本的人権の問題でもある。議会が規定を設けるようなものではないはずだ」。

 ならば、ネクタイをする全世界のサラリーマンは差別を受けていると強弁するのであろうか。一部に言われているように、学生の制服着用は基本的人権の侵害であり差別であるわけだ。原理的には自衛隊や警察官も同様だ。みんな「普段着」で仕事や勉強をすればよいわけだ。仕事は「服装で評価されるものではなく、その内容が問題」であるからだ。おっしゃる通りである。

 言うまでもなく、これはすり替えである。仕事や勉強そのものと服装は別議論である。仕事の内容とは別に、服装はそれ自体で大切な社会的な「感覚」なのである。まさに各人の「自由」の「内容」が問われているのである。細目の規定はないが(だからこそ)、各自の判断で「仕事着」と「普段着」を着分けなければならないのだ。外見も(だけではない!)大切なのである。だからこそ、自衛隊や警察官は自ら外見を規定しているのであろう。

 なぜこんな一服装問題にこんなにもこだわるのか、いぶかしく思われてきた方もいるだろう。実は、すでに一部述べ始めているが、この服装「自由主義」にはとんでもない思考パターンが同梱されているからだ。それは「人間とは精神(意識)がすべてである」という思考である。

 現代日本社会にとげのように突き刺さったままの一つの詰問がある。「なぜ人を殺してはいけないのか」。私たちはなぜこの問いに言葉でもって答えなければならないのか。人を殺してはいけないのは、河合隼雄氏流に言えば「魂に悪いから」である。言挙げすべきような理由はないし、それで十分なのである。

 現代の「自由主義」は「人間とは精神(意識)がすべてである」という前提に立っている。精神(意識)とは言葉である。言葉とは理由、理屈である。禁止されるべき理由や理屈がない限り各人の自由だ、という主張なのである(恐ろしい「合理主義」である!)。これは理由や理屈なしには「仕事」は何一つできないということも意味する(「仕事」でなければ別だ。理由や理屈なしに好き勝手なことをする「自由」がある)。

 「人を殺してはいけない」という要請は、薄っぺらな精神(意識)以前の肉体(無意識)から来るものだ。これを河合氏のように「魂」と言ってもよい。それは「感覚」の問題なのである。人間はそういう意味で、言挙げできるような精神(意識)だけでできているものではない。それ以上に人間にとって根本的な、「感覚」の主でもある社会的肉体(無意識)として生きているのである。

 「あれかこれか」ではない思考も、そういう道理である。問題を絶対的に捉えるのではなく、場に応じて状況次第でいくつも解答を与える見識をもつことが必要である。いまの日本にはこれら「自由主義」や「保守主義」など、数知れぬ利き目の切れた呪文があふれている。そんな実効のない護符によって守られているつもりなのがいまの日本なのである。(おせっかいだが)日本人よ、目を覚ませ!


[追記]99.02.20
 19日報道(朝日新聞)で、今度は滋賀県志賀町議が「ジャンパー、ジーパン姿」で県内視察に参加しようとし、町議会議長がこれを拒絶した(18日)とあった。くりかえしになるが、不見識を「自由」と呼び変えてはいけない。

 ここで「普段着」と「仕事着」の明確な社会的感覚が存在することを実証する事例を示し、トドメを刺しておこう。なお、これは畏友・三宅善信氏のご教示による。
 それぞれの職種、職場に合った「仕事着」というものがあるが、その事例とは相撲取りの世界である。力士は「まわし(褌)一丁」が「仕事着」なのである。天覧相撲でも、この裸同然の姿である。これが、「仕事(相撲)ができる自由な服装」ということで、トレーナーにまわしモドキのベルト姿なぞで土俵に登場し「実績を見てくれ」なぞと言えばどうであろうか。あとは言うまい。
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