吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■「自明性の喪失」、そして「努力の時代の終焉」■
(一)
たまには文学でもどうだろうか。先日、白州正子氏が鬼籍に入られた。この慧眼の人によってかつて見出されたのが、昨年直木賞を授賞した作家・車谷長吉氏である(受賞作は『赤目四十八瀧心中未遂』文藝春秋)。
先頃、同氏の『鹽壺の匙』(しおつぼのさじ。新潮文庫)という、最初の中短編集を読んだ。反時代的というか、世間におもねらない小説群である。「私小説」だという。
このような芸術(作品)に出遭うといつも思うのだが、片端の「身体」を生きるというのは自らの「精神」を厳しく見つめるということになるのだろう。この作家の身体に、ことほど大きな障害はない。あるとすれば、もう一つの「身体」である「生い立ち」がそうである。しかしながら、同じ環境に暮らせば、みな素晴らしい「芸術」を生み出すというわけではもちろんない。
おそらく何を生み出すためには何かを失わなければならない。作家は「自明性」を喪失したのである。「自明性」、つまり当たり前を当たり前に生きる人は、過去の「生い立ち」なぞ「思い出」にしてしまう。誰しもが犯した幼い「罪」なぞ、いつの間にか自ら心の奥深くにしまい込み、「思い出」さなくなってしまうものだ。このような「作家」とは一方では哀しいものだ。絶えず、心に違和を含んで生きていかなければならない人種なのである。
(二)
さて、現代において「作家」ならぬ人たちの「自明性の喪失」が広がっている。実は筆者にも時々ある。筆者の場合には文字の自明性が失われることが多い。たとえば、本の文字が、表している「意味」以前の印刷された「インク」として見えてしまうのだ。そうして「意味」としての文字が思い出せなくなってしまう。辞書で調べて正しいと確かめても、何か違和感がしばらく残るのである。
いまや日常のこととなった「不登校」もそういうものだと思う。「当たり前」として昨日までしていた「学校へ行く」という意味の底が、今朝になってみると、スルリとぬけてしまっていたのであろう。「学校へ行く」ということが何か「変なこと」「妙なこと」に思えるのだ。
これまで「当たり前」として何の疑いもなく行なってきたことの意味が意識され始めると、何もかもが当たり前ではなくなってくる。時代は前代の「当たり前」を変革してきた。そういう意味ではいまの「当たり前」は絶対的なものでもなく、筆者流に言えば一つの「吉外水」にすぎない。問題はこの物語と同じで、多数派はどっちで、少数派にも生きる余地があるかどうかだ。
順調にと言うか、穏やかにこの移行が進んでいるものに、「学歴」や「結婚」がある。「学歴」とは正しくは「出身大学名」だが、しだいに出身者も受入れ側も多様化して、全体的には「意味」が失われつつある。「結婚」も、強迫観念がゆるみ、万人がするものではなくなりつつある(これは昔にもどっただけのことだ、とも言えるが)。
たった一人だけ自明性を喪失すると、その人はついには「犯罪者」として広く世間に知れわたることにたいていはなる。前述の筆者の「違和」から、もう少し想像をたくましくして頂ければ、しだいに「狂気」が見えて来ないだろうか。「狂気」とは多数派の「自明性」を失うことだ。
実際、社会ルールとはすべて「自明性」、つまりは「吉外水」にすぎない。法律は作られたものだとはっきりしているから、まだましだ。倫理・道徳なんて、その昏い底をのぞけばもうおしまいである。自明性を失うと、何より自分自身がわけのわからないものとなる。そのまま他人に関われば、もう「犯罪者」とならざるを得まい。
さらに、「吉外水」を無理やり飲ませ、新たな「多数派」を作ろうとする者もいる。資本主義によって作られた「カネ、カネ、カネ」の「守銭奴」たちは、とっくに主流派である。「かつ上げ」を行なう青少年から、「商売」「ビジネス」に精を出す青年ベンチャー社長や大経営者、果ては和歌山の「林夫妻」のような錬金術師までいる。
この水を飲んだかどうかのリトマス紙は、事件発覚以前の「林夫妻」をどう思うかだ。そこに一片でも「妬ましさ」があれば、あなたもすでに同じ水を飲んでいるのだ。
次なる「井戸に毒を投げ込む」連中は、「不況だ、リストラだ、失業だ!」と触れ回る輩だ。読者諸賢も飽き飽きされているだろう。これを連呼する意味とは何なのだろうか。それらが「当たり前だ」という自明性を作り出そうとしているのだ。「当たり前」はそれ以上に意味を問うたり疑ったりすることを、思考から奪う。このように、いままでの「当たり前」を失わせるため、新たな「当たり前」がつくられもしているのである。
(三)
そういう中で、半ば時代の流れの中で、半ば意図的に失わされつつあるのが「努力」である。確かに「努力」は万能ではなくなり、「努力さえすれば必ず報いられる」とは言えなくなってきた。少なくとも、「努力」を上回る「チャンス」なり「偶然」なりが確かにある。
たとえば、「猿岩石」(とその同類者)は「努力」した結果、選ばれてテレビに登場し、有名タレントとなったのであろうか。「華原朋美」(とその同類者)も「努力」した結果、小室哲哉氏などのプロデューサーに選ばれてテレビに登場し、有名歌手となったのであろうか。(どちらも芸能界という事例で申し訳ない。しかし主として少年少女から若い人たちまでにとっての「仕事」像や「将来」像は、芸能界かスポーツ界にこそ明瞭であろう。)
もちろん、彼ら彼女らの「栄光」や「幸福」がいつまでも続くとは限らない。たとえば、和歌山の「林夫妻」の「幸福」は永遠には続かなかった。しかし「うまく」行けば、「努力」なんかの比ではないのだ。こうして、「いま我慢して努力すれば、将来云々」という、これまでの親世代の「当たり前」は破れ、子世代は「いま目の前の幸福を享受すること」に新しい「当たり前」を見出しているのである。
実際のところ「努力さえすれば必ず報いられる」にはうそがあるが、一方で、まだまだこの旧い「努力」の威力にはすさまじいものがある。たとえば、ウェブを見ていても個人ページに「宝くじが当たるかどうかは全身全霊の努力しだいである」と大マジメで書いている学生がいる。妙な新興宗教の徒とも思えぬのにである。これはこれで困ったものだ。ある「自明性」を全く疑わず、ほとんど「信仰」ものだからである。
「努力」だけがすべてではないし、「努力」しても報われないこともある。しかし「運」だけで生きていけるわけでもあるまい。それこそ「当たり前」だと筆者は思う。ところがいま世の中で進んでいるのは、「努力」と「運」を二つ並べることではなく、「努力」を「運」にただ置き換えるようなお粗末ではないだろうか。
世の中が豊かになりまた多様な生き方が可能になって、子世代が「努力」を軽視することは自然と言えば自然だ。しかしそれ以上にこれを推進する勢力がある。先程の「努力信仰」に替えて「運信仰」を蔓延させようとしている。これは誰か。人々が「いま目の前の幸福を享受すること」で潤う者どもである。すなわち、ほとんど全産業である。この奇妙な「からくり」に気づくことも一つの違和である。「狂気」に寄らず、日常の「自明性」を疑いながら生きていかなければならないのは、作家だけの運命ではない。
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