吉外井戸のある村
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覚醒剤逮捕の槇原敬之は「悪人」か---道徳まで「お上」に依存するニッポン人を嗤うべし

 久々に思う存分「暴論」を展開できる題材が登場した。掲題の通り、人気シンガー・ソングライターの槇原敬之クンが覚醒剤取締法違反の現行犯で逮捕されてくれた。話によると、自らあるいは会社の決断で締めて10億円の代償(コンサート中止と全CD回収)を支払うらしい。マスコミは「至極当然のこと」と報道している。

 いきなりだが、筆者が間違っているのかも知れない。というのはこれから展開する論が、ニッポンの法律は「官」、すなわち「お上」が「勝手に」作っているということを前提にしているからだ。ニッポンの立法機関は学校で習ったように、国会ただ一つであり、その国会議員は私たち国民が選んだ見識ある方々である。よって、彼らが決めた法律は私たちが決めた法律であるはずだ。

(ここで言う「官」とは官僚ではなく、政府・官僚・議員・自治体・警察など「公」を僭称する者たち全体を指す。官に対するは「民」だが、これがそのまま「国民」かどうか。ともあれ、官と民は、公と私に対応しないことだけは確認しておきたい。官営であろうが民営であろうが、たとえば教育機関は公に関わるものだ。会社もそうだ。「私企業」とは形容矛盾である。)

 しかしながら相次いで立法化された、「新ガイドライン」法、「日の丸・君が代」法、「盗聴」法、「国民総背番号制」法、と並べてみると、少なくとも筆者は自身が望んだ法律とは思えない。「勝手に」作られてしまったという気がしてならない。公法というより、官のための私法という感じが付きまとう。もし読者の方も、筆者と同じようにお感じなら、以下を読み続けていただきたい。

 どうもすれ違いがあるようである。私たち国民は本気で議員を選んでいないし、本気で法律を守ろうともしていない。議員をはじめとするお上は、そんな国民のことを誰よりも知っているし、知っていてタテマエの法律を作り続けている。そうして「公」をタテマエと堕する愚挙をくり返している。ならば「すれ違い」どころではない。もはや「談合」だ。

 わかりやすい例を挙げよう。道路交通法の駐車違反だ。これを国民は本気で遵守すべきものだと考えているだろうか。お上がいれば守られるだろうが、だれもいなければどうだろう。法律なぞ便法(タテマエ)だとたかをくくって、立法者自身さえ守りやしないだろう。その上、取り締まりにでも引っ掛かれば、運が悪かった、なぜ俺だけが、である。なるほど、違反者とは違反した人を指すのではない。違反して捕まった人を指す。お上=官に見つからなければ、無法なのである。

 脱線するようだが、若者(だけではない!)を中心にして公衆道徳のなさが嘆かれている。たとえば、電車内における携帯電話だ。聞きたくもないつまらない話を一方的に大声で聞かされる。本当にいい迷惑である。これに対して私たちはどうするのか。本人に文句を言うのではなく、駅員に文句を言う、「なんとかしろ!」と。鉄道会社は車内放送を始めた。

 ここにはニッポンの官と公の混同がある。この場合は、鉄道会社が官である。官が「公」衆道徳を説くのである。しかしその公はうそであるから、一向に迷惑な携帯電話は止まない。「官=公」とする限り、公はタテマエとなる。見つかった駐車違反は不運に過ぎず、見つからない駐車違反はホンネであり常態なのである。取り締まる「官」以外は「民」となり、それは「民=私」という疑似等式を作り、私は公を無視することがホンネとなる。実は、公ばかりではなく私もおとしめているのだが。

 さて、駐車違反であれ何であれ、不幸にして捕まった人は法律上の立派な「罪人」である。しかし罪人と悪人は違う。前者は法を犯した人を言い、後者は道徳を犯した人を言う。わがニッポンでは法は時のお上が決めるものである。それに対して道徳はお上が決められるものではない。道徳は本来、官民を越えた「公」のものだからである。

 しかしである。官と公(公と私ではない!)同様に、国民が罪と悪を混同したらどうなるか。罪人=悪人と見なしたらどうなるか。法の違反者はただちに背徳者となってしまう。こうなると、お上が決める法が道徳とされることになる。愚かしいことに国民はその錯覚に気づかず、違反者を背徳者として指弾することになる。

 煙草を吸う人はいまや「悪人」扱いだが、法律上の罪人ではない。日本で独占的に煙草を製造・販売しているのは株式会社に名は変えているが、その実態はご存知の通りお上である。しかし麻薬や覚醒剤は法律によって禁止されている。悪用されたり犯罪に至ったりする恐れがあるからだ。それはその通りだろう。

 その禁を犯した人は確かに違反者=罪人であるが、ただちに道徳上の悪人ではない。殺人は違法だが、殺人者はすべて 悪人だろうか。必ずしもそうは言えないだろう。では、覚醒剤法違反者はただちに悪人なのであろうか。さらに駐車違反と同様に、見つからない違反者はどうなのであろうか。

(念のために申し上げておくが、筆者は覚醒剤服用者を擁護したいわけではない。また、麻薬や覚醒剤などの服用を認めよという論陣を張っているわけでもない。)

 筆者が何より憂うのは、官民の区別がない「公」の道徳を、官の作る法律と同一視しようとするニッポン人の依存心である。これでは電車内の公衆道徳を官である会社に頼って、それを会社の「責任」とする馬鹿と同様である(道徳の法化、官の公化。他人に干渉するのは官の責任なのである)。

 その混同は、一方では「私」を徹底的に自らおとしめていることにも気づかせない。前述のように「官=公=法」の疑似等式の対として導き出されるのは「民=私=無法」というこれまた疑似(うそ)等式である。これは法に触れなければ何をしても自由であり、そしてそれが私だということを意味する。何と安っぽい「私」であることか。

 こうしてニッポン人は、公も私も失うのである。


[補足]
 官を「公儀」と称したのは江戸幕府である。しかし江戸幕府とは徳川家という私権力であることはだれもが知っていた。これを混同したのは明治政府である。明治政府は当初「薩長幕府」と言われたが、徳川家のような私権力ではない。だが、明治政府は「官=公」「民=私」という疑似等式を改めて導入した。これが今日の公私、官民の錯綜した倒錯に至っている。

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