吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■死ねない脳とクローン牛肉を食べること■
いわゆる脳死臓器移植法が成立して、生体間臓器移植がどんどん進行中である。「脳死」が人の死であることが、既成事実として押しつけられている。あたかも議論はもう済んだかのようである。いまや、まだ規制されている子どもへの臓器移植法が成立するかどうかに関心が移っているかにさえ見える。
「脳死」はある前提に基づいている。それは脳が生きていることが人が生きていることである、ということだ。当たり前のように聞こえるだろうが、実はここには大胆にして誤った飛躍がある。これにしたがうと、脳(意識)こそが人であり生命であるという定義に達せざるを得ない。
これでもまだ何が問題なのかわからない方がいるだろう。脳死では、脳が真っ先に死ぬ。他の器官はまだ生きている。だからこそ臓器移植が可能なのだが、脳以外のあらゆる器官が移植可能である。しかしながら、脳だけは移植できない。死んでいるからだろうか。そうではない。脳こそがその人(ドナー)そのものであり、他人に譲り渡すことができないものだからだ。
仮にここに、脳以外が腐食していく奇病に冒された患者がいたとしよう。壊死(えし)した器官を切断し、また臓器移植を尽くして、その患者は生き続けている。病いはさらに進み、器官や臓器はとうとう人工の器官や臓器、あるいは代替装置にすべて取り替えられる。それでも患者の脳だけは健在であった。そう、脳だけが生きているのだ。巨大な生命維持装置に取り囲まれ、脳だけが生きている「人」。
いわゆる植物人間(心肺機能は自力で活動しているが、意識が戻らない状態)ではない。その脳は、外部呼吸器から酸素を、外部心臓装置から栄養素入りの血液を供給されて生きている。もはや植物人間のような心肺機能の停止による死もないのだ。私たちはこの脳を、いやこの「人」をどうするのだろうか。安楽死は認められていない。だから、その「人」を生かし続けるしかないのだ。これが死ねない脳である。
脳が死んだとき人が死んだということは、脳が生きているときは人が生きているということである。そんな「脳死」(と「脳生」)を認める医学の「進歩」は必ずや、死ねない脳だけの「人」を量産するであろう。「生命を救え」というかけ声は、ついに「せめて脳だけは救おう」とする医療に達するのだ。何という愚かな未来であろうか。
「脳死」医学では、脳とは前述のとおり個人(人格)そのものなのである。脳は意識を生み、それはこころと呼ばれる。簡単に言えば、脳=こころ=人、という等式が成り立っている。そしてこころを持つ者が人間であり、人間以外はこころを持っていない。だから、動物や植物はこころを持っていない、ということになっている。あと、人でも脳以外はこころを持たないモノあるいは機械である。
では、脳は機械ではないのか。もちろん機械である。が、それは特権化した機械である。人はそしてこころとは、ケストラーが見事に喩えたように「機械の中の幽霊」にすぎない。どういうつながりかはわからないが、脳が基幹的にその「幽霊」を支えていることは間違いないだろう。だから、こころの部位をあえて一つだけ求めるならば、脳としか言いようがない。
しかしながら、その「幽霊」がこころなら、なぜ脳を持つ動物たちにこころがないのであろうか。言葉が話せないから、手が使えないから、等々、理由はたくさん上げるが、どれも程度問題ではないか。幸か不幸か、「脳死」は尊厳ある人にか許されていないのだ。動物はあっさりと殺される。
動物愛護は、贖罪の発想であろうか。それは、脳=こころ=人、の等式を生み出した欧米で誕生した。こころを持たぬ動物を虐げるなというのである。食物となる動物の屠殺ではそんなことはないであろうが、動物を人のために生体実験に使う場合には、麻酔を打つことが欧米ではルールである。例えば、マウスに別のマウスの首だけを植えつけるという無惨な生体実験を行なう場合、麻酔を打たねばならない。
麻酔を打ったかどうかなぞという話ではないように私たちには思えるのだが、欧米人にとってはそれが問題らしい。もし麻酔を打たないで実験を行なえば、動物を虐待したと批難されるという。果たして、日本人の、鯛の活け造りや白魚の躍り食いなどは、いかなる眼で動物愛護に燃える欧米人は見るのであろうか心配になる。
ところで動物実験と言えば、最近、クローン(遺伝子複製)についても論議がある。動物のクローン実験はよいが、人のクローン実験はダメだ、とクリントン米大統領も言った。曰く、人の尊厳を傷つけるとか。日本ではクローン植物は遺伝子を人がいじっているから、それを食べると何かの遺伝子異状になるのではないか、というような話になっている。
日米ともにおめでたいことである。クリントン大統領の発言は、動物にはこころがなく人間にはこころがあることを前提にしている。動物はさておき、クローン人間はいかに育つであろうか。何のことはない、普通に育つであろう。遺伝子を採った人と双児のような容貌となるかも知れないが、人格としては全く別人となることは間違いない。
人格は後天的な環境と教育により形成される。つまり、人の尊厳は傷つかない。神の仕事が一つ減るという人もいるが、本当の神ならこのレベルの仕事には手を出さないであろう。それから、クローン植物は細菌などが混入しない限りは全く問題ないであろう。
問題はそんなところにはない。脳だけを特権化したように、人間だけを特権化しようとしていることが問題なのだ。欧米人は大体において極端に過ぎる。もとより私たち人間は、菜食主義者を除いて、肉を食う。生ける動物を食べるために殺している。また、そのために育てさえしている。
これをなぜ、まず「神」に感謝するのか。まずはその動物そのものに感謝すべきではないのか。クローン動物、例えばクローン牛の肉はこれまでの牛の肉と同様、たいへん美味しいものであろう。しかし、ただ人の食料としてだけ生まれ死ぬとはどういうことなのであろう。今でもそうだ、という声が聞こえてきそうである。確かにそうであろう。
しかしクローン技術などを使わない限り、自然によって出来不出来が左右され、人間は苦労する。それでよいのである。では、人間が飢えてもかまわないのか、という反論もあろう。大きな声では言えないが、それでかまわない。人間も自然のリズムにしたがって盛衰すべきである。
人間も他の動物など同様、いつかは死すべきである。人間の間のあらゆる議論は、人間だけは永遠に存在し続けるということが前提にされ過ぎている。私たちの「経済」や「人権」とは、はなはだ人間を特権化した物言いであることを少しは自覚すべきだ。
そういう意味で、クローン牛肉をのうのうと食らうことは「冒涜」であろう。クローン牛肉を何の疑問もなく食べられる人とは、「脳死」を信じている人と同一人物である。例えば、欧米人は信念をもってそれを行なうだろう。しかし日本人は違う。人にこころがあるなら、動物にもこころがあると思っている。そんな日本人が「脳死」を半ば受け容れ、クローン牛肉を食べようとしているのだ。真は必ずしも西にあるわけではない。
[主な典拠文献]
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved