吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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「わかる」ことしかわかろうとしない時代

 駅から自宅までの道を歩きながら、今さらながらに気づくことがある。町がきたない。打ち捨てられた空き缶、スナック菓子のポリ袋、割られたガラス容器の破片、…などが道端に散乱している。そこに住む市民としては不愉快で淋しい。いったい誰が、とつい思ってしまう。犯人を探したいわけではない。どういうつもりで、と考えたいのだ。

 もとより理由なぞあるべくもないだろう。「彼ら彼女ら」(年齢不問)からすれば、自分が「現に生きている空間と時間」以外は、無関係で無関心なモノの世界(「他人」を含めて)であり、必要なら嫌々だけど関わるだけの「手段としての世界」にすぎないのだろうから。電車内で周囲に目もくれず、携帯電話(を通じて人)と必死におしゃべりしている「彼ら彼女ら」の姿を思い浮かべればよい。

 道端をゴミ箱にする意識に戻るが、逆に「不愉快で淋しい」と感じる私たちの意識とはどんなものなのだろうか。それはおそらく「所有意識」に基づくものではないか。その町の「市民」であるという意識は、実は受け身の意識ではありえない。「共同体」論のいかがわしさはその「帰属意識」にある。しかし「帰属」とは「属」という言葉にもかかわらず、「所有」なのだと考えればわかりやすい。

 大人は自分の家をわざわざよごしはしない。なぜならば、自分が「所有」する家だからだ。ところが家族に「属する」はずの子どもたちは家をよごしがちだ。それは所有意識が希薄なせいではないか(子どもたちに「自分が所有する家」だいう意識なぞあるわけないではないか)。同様に、自分が生涯住む町という意識に乏しい「彼ら彼女ら」にとって、この町はただの「恥をかきすてる旅」の通過点にすぎない。


 実は、以上は前置きにすぎない。確実に「所有」するまでは「自分のもの」ではない、つまりそれまでは自分とは本当の意味では無関係だという意識は「峻別」の思想を産み出す。何と何を峻別しようというのか。「ホンモノ」と「ニセモノ」(作り物)である。ただし「ホンモノ」とは本物とは限らない。

 現代日本における「ホンモノ」とは何か。例えば、テレビの中の「リアリティー」(真実らしさ)である。そこに登場するタレント(言うまでもなく「タレント」とは芸人のことではない)は、視聴者の仲間「候補」である。もしタレントを「所有」すると、自分の「仲間」となる。その場合、タレントの身勝手は「自分」が許さない。なぜなら、自分が「所有」しているからである。

 そういう意味で、テレビは自分が住んでいる町といった現実以上の「現実」である。「ニセモノ」(作り物)とは「彼ら彼女ら」が「リアリティー」を感じない「ドラマ」である。本当の現実を含めて、自分が「所有」していると感じさせてくれないものは、すべて作り物のドラマである。テレビは「リアリティー」を追求し続けている。それは現実さえ越えていく(それが「ヤラセ」である)。それでよいのである。視聴者が求めているのは、じかの現実やドラマなぞではなく「リアリティー」=「ホンモノ」であるのだから。

 現実さえ越えて、と言うと「想像力」あふれる話に聞こえるかも知れない。しかしそうでもない。テレビの「リアリティー」=「ホンモノ」追求は、視聴者の「想像力」の先回りにすぎない。視聴者は思い通りに「想像力」を満足させられたように感じるが、実は先回りして用意してあったパターンにたどり着いただけのことだ。

 ここでのポイントは、自分にとって「わかる」ことだ。「わかる」ことも「所有」の一つであり、つまり「わかる」こととは「所有」できることと言える。だから「わからない」ことは「所有」できないこととなる。本当に想像力を要求されるような現実やドラマはむつかしく容易には「わからない」。だから「所有」できずに面白くないのである。

 「わかりたい」という欲望に満ち満ちている時代である。しかし、テレビは単純な「リアリティー」をもってこれに応えようとしている。「ノンフィクション」風バラエティーや謎解き番組がそれである。一時批判された教育観---子どもに正解が一つに決まった問題ばかりを解かせている---そのままではないか。

 ものがはっきりと見え過ぎる時代である。それが「わかりたい」という欲望に応えた時代の姿である。しかし「わかった」ところで、実は何もわかってはいないのである。テレビの「謎解き」は、言わば「要素還元主義」だ。物質は「分子」で出来ていることが「わかった」。もっとよく「知りたい」。分子は「原子」で出来ていることが「わかった」。さらに原子は「素粒子」で出来ていることが「わかった」。云々。要素はより明確になったが、そもそも「存在」することの意味はますます不明なままだ。

 考えてみれば、「感動」は要素還元や分解できない全体性ではないか。「わかる」ところもあれば「わからない」ところもある。それでよいのである。すべてを「わかろう」とかすべては「わかる」はずだとかいう欲望は、実は粗野で野蛮な欲望である。それは文化ではない。安直な合理主義は文化を貧しくし、ついには破壊してしまうだろう。

 意味の重層性を理解できない「人間」が増えている。自分は道端の石ころ同様の一存在であり、また犬猫同様の一生物であり、それらの多重の基礎の上に、ようやく社会「人」としてあり得ていることを失念し続けている。テレビや携帯電話、また缶入り飲料やスナック菓子などは、あらかじめ自明のものとして存在しているわけではないのである。

 「わかる」ことしかわからず「わからない」ことを「わかる」ことができない「彼ら彼女ら」は、「わからない」ことを「わかる」ようにしてくれる「リアリティー」をもった「理由」なしには行動を変えることができないのである。行動のトートロジー(同じことの言い換え)のくり返しを強いているのが、実はだれでもが手軽に「所有」可能な安物の「ホンモノ」志向だという皮肉である。
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