吉外井戸のある村
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2000年問題と21世紀問題---「両替」できない価値

 2000年の馬鹿騒ぎはほんの三日も経たずに終わった。なんというお粗末であったのだろう。他ならぬ「2000年問題」のことである。対応が遅れており核ミサイルが誤発射されるのではないかとすら言われていたロシアはもちろん、同様であったろう北朝鮮やその他ほとんどのコンピュータ整備発展途上の国々のうち、ただの一国も深刻な危機が起こったとの報は未だに皆無である。いったい何だったのか。

 わが国でも、元旦の朝、町中が停電となりガスや水道もストップし、電話やインターネットが不通となり、仕事始めとともに銀行口座や国際取引はコンピュータの暴走により大混乱となる、かも知れないということだった。そのために、各家庭では阪神大震災以来の「備蓄」をし、数多くの企業・団体では泊まり込んで寝ずの番が行なわれた。

 多大の費用と労力を注ぎ込んで、「2000年問題」を「未然に解決」しておいたおかげで、事無きを得たのか。それとも、そもそもそれほどの「問題」ではなかったのか。その判断は諸賢にお任せしたいが、これによって20世紀最後の一年の決算を大いに潤わせることになった企業群がある、という事実だけはどうか長らくご記憶にとどめ置かれたい(どこの国がこのことを大問題にしたのだったか)。


 さて、「ミレニアム」という言葉も大流行りである。「千年紀」と訳されるが、少しスケールが大きすぎるように思う。とにかく大きければよい、というものではないはずだ。実は「千年」を語ることは「百年」をあいまいにすることに他ならない。「千年」なぞではなく、これからの「百年」こそが問題であろうに。

 20世紀の総括なんぞ、こんな小論でできるはずもない。ただ言えることは、「社会主義」の一つの「実験」がついに失敗に終わり「資本主義」が20世紀の「勝者」となり、そしてそれは21世紀をも席巻していくであろう、ということだ。しかしながらこの「資本主義」が何だかよくわからない。今や、すべてが「資本主義」だからだ。「経済学は終わった」という高尚な論が聞かれるが、それはむしろこのことを意味しているのではないか。

 すべてが「資本主義」だということは何か。私流に言わせていただくと、あらゆる価値が「貨幣」に「両替」可能だということだ。そして私の悪い予感では、21世紀こそそういう時代であろうと思われる。これが私の言いたい「百年」問題=「21世紀問題」である。ご承知のように、いま「貨幣」は統合されつつある。欧州統合通貨「ユーロ」なぞ、子ども騙しである。電子マネーこそ、最終的な国際「貨幣」である。しかも、これはすでに機能しつつある。

 貨幣もわかったようでわからないもの代表だろう。貨幣は、私たちが日々これを信用しているように、それ自体では何ら矛盾はない。しかし、ゲーデルの不完全性定理のように、その「公理体系」を保証するものは実は何もないのだ。国際「貨幣」を支えて(?)いるものは何か。それはアメリカという一国家の中の一機関(中央連邦準備制度委員会・FRB)の造幣局である。念のために申し添えておくが、ドルには何らの保証責任はない。好きなだけ刷ったら刷りっ放しだということだ。

 そもそも「経済」とは何か。(以前に書いたような気もするが)日本語の「経済」とは、経世済民の略語である。今「経済」という言葉からすぐイメージするような計数的なものではなく、生計や衣食住といった具体的な生活のあり方を意味する言葉である。「エコノミー」の語源であるギリシャ語の「オイコス」(家計)もそういった言葉である。

 しかし今や「経済」とは、貨幣=お金のことに他ならない。「人間は万物の尺度である」という言葉があるが、今では「貨幣こそが万物の尺度である」ことは、皆さんが日々痛感しておられるだろうと思う。すべてが貨幣に「両替」可能なのである。

 ここから倒錯が始まる。ものの価値を貨幣が決定する。本来の「経済」すら、貨幣によって主導される。売れるものに価値があり、売れないものには価値がない。生産は生活のためにではなく、貨幣のためにのみ営まれる。目の前に豊かに実る農産物は、食べるためにではなく貨幣のために捧げられる。

 マルクスが言うように「貨幣」とはそれ自体が倒錯であることは承知している。「21世紀問題」としての貨幣は、経済的価値であることを遥かに越えて、社会的価値そのものとなっていることが重要である。しかし、私たちはもはや引き返せないのだろう。

 貨幣獲得に全世界が動き始めた。「資本主義」は分業の論理でもある。もはや、一人ひとりが、一共同体が、一国家が、独立して生きていくことは出来ない。第一・二次産業の衰退は「自給自足」の国家経済の終焉である。もちろん、農業や製造業はこれからも持続するが、すでにその社会的役割は変質している。国際大資本が「産業」として特権的に(!)営むものが「第一・二次産業」である。国際分業は国際貨幣を要請する。かくして、世界は統一されるのである。世界は「貨幣価値」によって統一されようとしている。

 今や「売れないもの」を入手することは至難である。「市場」とは商品の陳列場であるが、「売れないもの」なぞ置かれるはずもない。たとえば、書籍、音楽(CD・レコード)、映画など何でもよいが、あなたが本当に欲しいものはあるだろうか。欲しがらせられたものは有り余るほどあるだろうが。

 広告や宣伝は、売れるものをもっと売れるようにするための手段となった。巨額の資本を投下して制作された映画やゲームソフトなどは、言わば「鯛で鯛を釣る」ような商売である。ベストセラーはメガ・ベストセラーとして育てられる。これが「ナンバー1」の時代である。なぜか。売る目的が貨幣の効率的な獲得にあるからである。売れるものを売って稼ぐ時代なのである。本来の「経済」が果たしたものとものの交換や交流の時代は終わったのだ。

 ところで、わが日本は「不況」なのだろうか。「東京」は「貨幣価値」で出来ている。「東京」から見た「日本」も「貨幣価値」から出来ている。それ故、「東京」からは「経済」で出来ている他の「地方」が見えない。「貨幣価値」ではなく「経済」から出来ている真実の日本も見えない。これが「東京」から発信される「不況」の秘密である。

 「貨幣価値」では「不況」かも知れないが、生活としての「経済」ではどうであろう。世界有数の豊かな国ではないか。どうしてこれ以上「貨幣価値」的に豊かであろうとする必要があるのか。生活としての「経済」が見えていないと言わざるを得ない。「貨幣価値」に取り込まれるということは、すべての価値を貨幣に「両替」して測ろうという愚行に他ならない。芸術、精神、そして人間を「貨幣価値」で「両替」しようということだろうか。

 21世紀を私たちはどう生きるべきなのだろうか。自分のための「経済」を構想すべきだろう。それは貨幣による「両替」不可能な価値を含めての「経済」である。「市場」に頼らずに生きることができるか。価値は決して一つではないし、「普遍」(スタンダード)も数多くある。一つの「普遍」に目を眩ませられないように多元的な価値観の保持が必要である。
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◆ 読者からのご意見 ◆

石黒 博義(hiro1496)様 から

前略、
 ご指摘のように、カネの誕生および浸透と価値の単一化は、今の世の中、(とりわけ「資本主義センシンコク」)のカネによる単元的価値体系を構築しました。

 昨今、「価値の多様性」を認めようとする動き、マスメディアが唱える「カチカンのタヨウカ」や文化人類学などをはじめとする、「価値相対主義」に対する評価などはその一連の動きであると考えられます。

 これらは目的として「諸価値観を認める」「単一的価値体系からの脱却」を目指そうとすることに置かれているようです。

 しかしながら、もし、これらを目的とするならば、本質的解決にこれらがなり得ないのは、自明です。つまり、カネでしか生死、欲求の充足が認識、実行できない世界においては、「単純な」認識改革だけでは、これらの目的は達し得ないのではないでしょうか。

 次のような示唆でもあるように、「『貨幣価値』に取り込まれるということは、すべての価値を貨幣に『両替』して測ろうという愚行に他ならない。芸術、精神、そして人間を『貨幣価値』で『両替』しようということ」が、現実として機能されています。

 「時給」という言葉・概念があるように、時間や労働まで「両替」されています。

 カネの価値体系の他の価値体系への侵食には私も疑問を感じざるを得ません。しかし、カネが生死、欲求の充足という人間の「生」に最も密接に関連している世界では、これに対抗し得る価値体系は生起し得ないのではないでしょうか。

 ここで先程挙げた、「単純」ではない認識改革ということを考えてみます。

 カネの価値は、先程の逆に言えば、カネにより「生死、欲求の充足が認識、実行できる世界」にしか通用しません。

 カネがあれば衣食住が満たされるが、そうでないと、満たされません。つまり、死に近づくのであります。

 カネがあれば諸欲求は満たされるが、そうでないと、満たされません。死には近づきませんが、不充足感が残ります。

 ここで、「満たす」ということがキーワードとして挙げられます。これらが他の価値において「満た」されれば、カネの価値はいわばインフレを起こします。

 例えば、霊的な何かが信じられる世界(別に日本にもありますよねそういうとこ・・・)では、カネの価値は他の価値より「低く」見られます。「お布施」などはその例です。

 「お布施」はそれにより実行者の諸欲求・心理を満たすはたらきがあると思われます。だからこそ、その世界ではカネはインフレを起こすのであります。

 このようなカネ以上の価値をその世界の構成員が実感として認識することが、「単純」ではない認識改革ではないでしょうか。

 「実感として認識」とは、いわゆる頭で考えるだけではないという意味です。

 「自分のための経済」は、個々が自らの「実感」から構築していくと思われます。

 しかし、「実感」という感覚は個々の経験により形成されたものであるがゆえに、変更は容易ではありません。

 「シュウキョウ」(ここでは創唱宗教*1を指す)に没頭するようになる人々の入信の契機が、彼らの「実感」へのなんらかな強い作用であることからもこれは明らかです。

(*1:阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書、1996)

 私は、個々の「実感」を尊重する世界が好きです。

 つまり、「素直=従順」ではなく、「素直=感覚に率直」ということを認められる世界、そんな世界に向かえば、カネの「帝国主義」は崩壊するのではないかと感じます。

 「感性を大切に」という言葉も聞かれます。しかし、「大切にしなくちゃダメ」というのであれば、単一価値観のお仕着せになり、カネの「帝国主義」となんら変わりがありません。

 「寛容は非寛容にも寛容たれ」と言いますが、感覚として困難であることは間違いありません。嫌いなものは嫌いなのが人間であるでしょう。(確かに、非寛容と嫌いは別ですが・・・)

 「好き・嫌い」に物事への認識を集約する、(興味のある・なしも「好き・嫌い」に含む)、そんなことが、感性を認め合う、そして、価値体系の多元性を認める、第一歩となってほしいと感じます。
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