吉外井戸のある村
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鏡を持たない日本人とマレビトとしての文法の神

 バブル崩壊後の90年代日本経済に対する「第二の敗戦」論は、図らずも「鏡」を持たない愚かな国民としての日本人の姿を世界に映し出している。またしても「日本人とは何なのか」がテーマである。

 「鏡を持たない」とはどういうことか。己を映す「鏡」を持たず、自分が何であるかわからないということだ。自分が拠って立っている「文法」に無自覚だということだ。しかしながら、自虐の落とし穴には陥らぬよう話を進めよう。自らを貶めることが本小論の目的ではないのだから。

 まず「経済」からだ。いま日本は「グローバル・スタンダード」を「普遍」として受け入れようとしている。それが指し示す方向は、国内市場の無限開放、国内規制の撤廃、最終的には国家経済圏の放棄、である。無媒介に「世界」と直結すべしという話だ。

 おめでたいのである。米国と一体と思われたヨーロッパすら、EUという地域体制を敷いた。地域体制とは旧日の閉鎖ブロックではない。断っておくが、我が国が「東亜共円圏」を敷くべきだなぞと言いたいわけでもない。

 世に「公平」や「平等」、また「正義」はあり得ない。だからこそ、それらを理念として掲げなければならないのは否定しない。しかし残念ながら「正義」は自己弁護のために掲げられてきたのが歴史である。

 「グローバル・スタンダード」や市場原理主義は果たして「正義」か。たとえそうであったとしても、誰のための「正義」か。そう問わなければならない。何のことはない。それは一国のための「正義」なのだ。つまり、米国の米国による米国のための国策イデオロギーにすぎない。

 保証なき「贋金」ドル生存のための環境強要が「グローバル・スタンダード」の正体である。ドルを「国際基準」通貨として世界に流通させるべく、各国の金融を自由化させる。それで何をするのか。ドルによる投資収益を上げるのだ。IMFや世界銀行はその先兵、ソロスらヘッジ・ファンドは実行部隊である。

 一方で、高金利・ドル高政策を敷き、米国へドルを環流させる。こうして世界循環の輪が出来上がる。ただし、万年の貿易赤字、対外債務の山とともにだが。しかし日本を始め世界各国は「基準」通貨ドル建ての資産(米国債など)を守るため、否でも応でもこのシステムを擁護しなければならない。かくしてウォール街は史上最高の株高となる。

 「グローバル・スタンダード」の基本セットは次の通りだ。市場原理主義、銀行自己資本比率(BIS)規制、ペイオフ制度(預金限定保証)、「国際」会計基準(株価=時価主義)、レイオフ(雇用リストラ)、401k型(運用自己責任)企業年金…。

 これらは日本が本当に採用すべきことなのか。私たち日本人は、コンピュータ演算のように「0」か「1」かと考えるのが好きである。「勝利」か、それとも「敗戦」かの思考もその一環である。

 そして「敗戦」の際には「総懺悔」(残念ながら各人の「立場」のわきまえがない)とともに、決まって「根本的改革」を唱え始める。それから、何が「構造」かもわからないままに、何が何でも「構造改革」をである。

(昔日の「革新」、昨今の選挙の度の「改革」で、何をどう「改革」するのかが明確になったことがあるだろうか。これでは「とにかく変えろ」と言うも同然だ。道に迷ったら、とにかくハンドルを切れ、が如くである。)

 私たち日本人の「マスターベーション」はさておき、このままでは2001年のビッグバン(金融自由化)は、文字どおり「大爆発」となる可能性が極めて高い。我が国は2001年から始まる21世紀を、自らの経済を自ら「大爆発」させて始めることになるわけだ。

 アンチ・グローバルとして、単純に文化ナショナリズムを、例えば「富国有徳」論などを説くつもりはない。経済という位相の課題は、経済問題として解いていかねばならないことは当然である。しかしどうしても、アメリカ人が日本人ではないように日本人はアメリカ人ではない、とだけは言っておきたい。

 人間とは、そして「国民」(「日本」を言挙げしたいわけではない)とは氷山のようなものだ。人間の意識の上に建てられたいかなるシステムも、すべて人間の無意識の上に乗っている。未だ言語化されない集合的無意識のようなものがその社会の潜在的「文法」である。経済という社会システムも、水面下に大部分が沈む「氷山」の表出部にすぎない。その全容は水面下の行動規則を理解して十全なものとなる。

 だから水面上の見かけは同じでも、水面下の有り様によって、全く異なる意味をもつシステムとなる。「グローバル・スタンダード」は米国社会という氷山の表出部である。そこには適合しているのかも知れないが、他国社会ではどうだろう。例えば、我が日本である。市場開放と規制緩和、つまり市場原理主義は何をもたらしているか。デフレ・スパイラル、金融システム不安、消費需要減退、雇用不安…、要するに打ち続く「不況」である。

 懸念されるのは、実は「不況」の継続ではない。それによる社会精神(エトス)の退化である。「敗戦」気分の蔓延であり、裏返しの「勝利」を渇望しての自暴自棄である。金科玉条の「グローバル・スタンダード」、2001年のビッグバンは、まさにこのような「自殺」行為である(ここでは経済問題としての処方箋は書かない。下記文献の秀逸かつ有益な対処法を参考にされたい)。

 私たちの「流行好き」について触れて、終っておきたい。私たち日本人は「最新」や「進歩」などが大好きである。「グローバル・スタンダード」に限らず、大昔から日本人は海を越えてやって来るそういう「最先端」の偶像の「神」を崇拝してきた。「戦後進歩主義」という考え方もそういう流れで見ると理解しやすいだろう。

 「鏡」を持たない私たちは自己の「文法」を理解しようとすることなく、常に「マレビト」としてやって来る言語表出化された外国「文法」を、「標準」として「普遍」として、つまり「鏡」として受け入れてきたのだ。またしても「内」と「外」の問題だ。「外」としての自然、外つ国、世界、そして神。海の向こうからやって来る「外圧」とは、新たな「標準文法」=「鏡」をもたらす「神」であったのだ。


[主な典拠文献]
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved