吉外井戸のある村
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「17歳」凶悪犯たちの過去は現在を語りうるか

 2000年のゴールデン・ウィークは「17歳」に乗っ取られた。5月1日に愛知県豊川市で「体験殺人」事件、同3〜4日には佐賀県から広島県まで縦走した「高速バス・ジャック」事件が起きた。ともに、たいへんショッキングな事件である。

 非常に不謹慎な言い方で恐縮ではあるが、テレビ各局や新聞各社にとっては「棚からぼた餅」であったであろう。いまや刺激的でなければニュースではない。もう「ワイドショー」と通常ニュースは見分けがつきがたいあり様だ。わずかに解説者の面々と口調がやや違うだけだ。


 さて、今回の事件でテレビや新聞が取り上げる「キイ・ワード」は「17歳」だろう(5年前の「神戸小学生殺人事件」の際には「14歳」であった)。しかし「17歳」という「キイ・ワード」が何かを明らかにするだろうか。詰まるところ、それは「未成年」=「子ども」ということを確認するにとどまるはずだ。そして、これまでと全く同じ「原因究明」が始まるだろう。その原因究明のフィールドは「人間教育」だ。第一に学校教育、第二に家庭教育、第三に社会(地域)教育、第四に公(国家)教育となろう。

 中学校と高校には早速「ガサ入れ」が入っている。「落ち度」はなかったか。最近は作文がよく売れる。普通とは違う何かが見つかるように読み取るのが記者の腕である。そんなものは事後なら何とでもこじつけられる。友人評も聞き忘れてはならない。良くても悪くてもよい。他に何かエピソードはないか。「答え」というか、それらを紹介した後のコメントはあらかじめ決まっている。欲しいのは生ネタにすぎない。

 次に家庭。このフィールドでは17年間の人生をトレースし、両親の罪「も」発見することがポイントだ。豊川事件では動機を「人を殺す経験がしたかった」と本人が言ったことが大きな話題となっている。これがある程度「解明」されるまで、マスコミによる「家捜し」は続くだろう。バス・ジャック事件では、精神科入院中、一時帰宅最中での事件であった。これは格好の話題である。それに両親が直接説得できなかったことも、延々と取り上げられるだろう。

 第三に地域のあり方が云々される。いまは犯人そのものの情報についての聞き込みに忙しいが、マスコミはそのうち反転して「地域」や「近所」の「教育」のあり方を攻撃するだろう。そして、ついに国家の問題となる。公教育や学校システムの問題、さらに少年法などの法整備問題だ。今回は精神科絡みのことも登場することは必至だ。

 ひとまず、以上のような事件「解明」の「過程」が予想される。では結局、事件そのものの「解明」はどうなるであろうか。まちがいなく、大山鳴動してネズミ一匹である。が、心配はご無用だ。そのころには、思いもかけない次なる事件がきっと起こっている。以下、「解明」できない「原因究明」のあり方について若干愚考したい。


 ニーチェの「人間的な、あまりに人間的な」ではないが、問題をあまりにも自分たちの等身大(実は夢想あるいは虚構にすぎないが)に理解しようとすることが根本的な誤りである。どういうことか。一人の無垢な「子ども」がいて、両親(家庭)や学校や地域の「教育や環境の影響」で、何かがあって大事件を引き起こすような「動機」が「心」の中で形成され、ついに凶悪な「犯行」に及んだ、という絶対信条である。これはすべての問題は人間の問題であるという一元的な素朴信仰でもある。そしてそうであるからこそ、原因究明はこれらの信条の中でしか解明できない問題となってしまう。

 発問はいつも「動機は何か?」からだ。例えば、豊川事件では犯人いわく「人を殺す経験がしたかった」と。これに対して「国民」は「そんなことで見知らぬ老婆をメッタ突きにして殺すことなぞ出来ない。彼の心の中で何が起こっていたのか、それを解明しなければならない」と反応するのである。バス・ジャック事件の犯人いわく「動機は言いたくない」と。「国民」はきっと「何だと! 人を殺しておきながら言えないとはどういうことだ!」だろう。ここには「動機が必ずあるはずだ」との確信がある。

 一方、冤罪のもととなる「自白」強要は避けよう、という動きがある。しかしこれら少年凶悪事件ではこの良識は通用しないようだ。ただ、自供が成り立つためには自己をよく了解できていることが前提となるわけだが、近年の凶悪犯の彼ら(少年とは限らない)にこの自己了解は十分なものだろうか。おそらく否であろう。にもかかわらず、自供による動機究明への欲求が「国民」には甚だ強い。また、そこへ問題を押し込めようとしている。

 本人が語らずば仕方がない、学校や近所での様子から探ろうということになる。そこで追究されるのは徹底して「過去」である。「以前、何かなかったか」である。犯行の「現在」に至る「変化」の徴候を読み取ろうということだろうが。いじめと成績が「学校生活」である。ひどいものだ。作文については前述したが、成績もいじめも作文も、事件との直接的な因果関係なぞない。では間接的にはどうか。それはあるだろう。しかし必然的なものではない。つまり、周辺取材は「のぞき見」にすぎないということだ。

 次に「未成年」とは何かとはなかなか難しい問題である。が、本人そのものと保護者が全く別人格であることは言うまでもない。そして子どもの人格形成への保護者の影響も正比例的な因果関係をもつものでもない。ましてや、犯行と保護者は因果的に無関係である。だが、動機形成に関わっているのではないかと、間接要因追究が自明のように行なわれる。作文と同じである。何とでも事後には言えるではないか。これも「見せ物」である。

 ここで今後問題となると思われる重要な「人権問題」を提起しておきたい。それは「善意」の報道である。バス・ジャック事件で人質となった石橋優希ちゃん(小1・6歳)の素性が、私もこうして書くように、マスコミで大々的に報道されている。マスコミで取り上げられることは、今やすでに個人情報の不利な散逸である。おそらく今後はこうした報道をもとにした犯罪が発生するだろう。

 おかしなことに、加害者の人権保護が顧慮されることはあっても、被害者の人権保護が顧慮されることは皆無である。いついかなる手立てで、被害者の肖像放映権や個人情報開示が許されているのだろうか。犯人宅周辺での聞き込みや張り込みや撮影は言うまでもなく、被害者宅周辺でも同様のことが当然のごとくなされている。これらは単に迷惑行為であるばかりか、明らかな人権侵害であると筆者は断じるがいかがであろうか。


 私たちは「人間的な、あまりに人間的」すぎるのである。法領域すなわち犯罪と、人間(人格)の問題とは全く次元を異にする問題なのである。犯罪を一々、あるいはすべての犯罪を人間的に理解しようとすることはないし、また出来ないケースも多々あるのである。これを認めなければならない。犯罪の「解明」はあくまで犯罪次元での「解明」であって、人間次元での「解明」ではない。

 最後に、これに関連して問題となるだろう「精神科」問題について一言しておこう。犯罪と人間が別次元であるように、犯罪と病気は別問題である。ただ、これは放置せよということを意味するわけではない。犯罪の問題は犯罪の問題として追究し、人間の問題は人間の問題として理解しなければならないように、「精神科」犯罪予防はそういう問題として追究し、また病気そのものは人間の病気の問題として理解しなければならない。「すべて」という言葉を冠した同定は人間的な「犯罪」である。
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