吉外井戸のある村
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ニッポン的「言霊」習合論

▼言霊の一撃が自民党政権をマットに沈めた

 小沢一郎氏はニッポン人である。これはいかなる意味か。小沢氏は「言霊」の卓抜な遣い手なのである。言霊とは普通、言葉に宿る霊威のこととされ、言ったことが実現するという信仰と解される。しかしこんな標本のような死んだ定義は生きたニッポン人には無縁だ。早速、名人・小沢氏の実例を見てみたい。

 「国民が望む抜本的政治改革は『守旧派』が多い自民党にはできない」----言わばこの一言で、自民党は長年の政権与党から1年間だけとはいえ確かに転落したのである。1993年、宮沢首相に対しての内閣不信任案が自民党内一部の賛成も得て、可決成立。続く解散・総選挙を経ての首班指名で、非自民大連合が成立して細川護煕連立内閣が誕生したのだった。

 この解散〜総選挙〜首班指名という流れの中で、断然まさに霊威を振るった言葉こそ、小沢氏が自民党中枢に向けて放った「守旧派」の一言であった。この言霊手榴弾が見事に炸裂した結果は上述の通りだが、この実例を通して「言霊」の意味を考察したい。

▼言霊は「予言」ではなくニッポン的メカニズム

 まず、言霊信仰とは上述の定義のような「言ったことが実現する」といった単なる「予言」物語では決してない、ということを確認しておきたい。確かに、小沢氏の言葉は実現した。しかしこれは「言挙げしたから現実となった」ということではない。ある言葉が言霊として働くときには、それ相応のメカニズム、論理がある。

 そのメカニズムは、ニッポン人が抱いている「言葉と事実との関係」についての無意識の中で働く。そして、この「言葉と事実との関係」の捉え方は、ひどくニッポン的なのである。例えば、欧米人の「言葉と事実との関係」の捉え方とは全く違う。ここに「言霊」がニッポンで働く秘密がある。

▼小沢氏の「守旧派」という言霊の霊威

 小沢氏の言葉を振り返ろう。彼の「国民が望む抜本的政治改革は『守旧派』が多い自民党にはできない」という言葉は、事実について述べたものであろうか。もちろんそうではなく、彼の意見の表明にすぎない。しかし当時、多くのニッポン人がこの意見に一面では共感した。するとどうなるか。何と「事実」と見なされ始めるのである。

 さらに核となっている「守旧派」という言葉は、これを用いるだけでニッポン人を洗脳する力を秘めていた。「守旧派」とは「旧きを守る者たち」と解せるが、これはそのまま価値判断を含んだ言葉である。ニッポン人には「世界最先端信仰」とでも言うべきものがあり、旧いもの=悪いもの、と無意識に価値評価する傾向がある(「旧い」と「古い」は違う。なお、変わることは良いことだ、とするのもこの信仰の一展開である)。つまり「守旧派」とは、当然打破しなければならない者たちということをニッポン人には含意していた。

 一度、ある言葉が流通し始める(流通するということは含意が相互了解されたことを意味する)と、その言葉のもつ意味が限りなく膨張していく。初め「守旧派」とは自民党の梶山氏らを指していたが、しだいに自民党全体を指す言葉となっていった。一方、奇妙なことにそのことがかえって言葉の最初の意味を覆い隠してしまい、その言葉は単なるレッテルと化してしまう。しかし、評価の定まったレッテル言葉は最大の威力を発揮して振る舞うのである。

▼言霊のメカニズムの再定義

 言霊のメカニズムの整理である。
 ニッポン人は「事実」を表明する言葉と「意見」を表明する言葉を区別できないのである。また「言葉」と「事実」との区別も明瞭ではない。付け加えて、上記1の逆で2の展開として、次の4が言える。それから2に関連して、ニッポン人の深層価値観を5としておこう。
 以上に述べてきたことは死んだ定義ではなく、いま現に生きている「言霊」の中で働いている。現在の最大の言霊は「民主主義」である。その他に代表的なところでは「自由」「戦争と平和」「差別」「いじめ」などが挙げられよう。以下、現代に生きる言霊たちの霊威をご紹介したい。

▼「ハゲ」や「ブス」も言霊か

 まずはジャブと言ったところで、わかりやすい例を挙げよう。「ハゲ」や「ブス」は失礼な言葉とされる。確かに上等ではない。では、言い方を替えて「禿頭」「不美人」としたらどうだろうか。これは「事実」の形容であろう。姿形ばかりではない。「貧乏」「低所得」も客観妥当性をもった「事実」表現の言葉たりうるだろう。

 しかしこれらはすべて負価値を持たされた言葉たちである。だからこれらの言葉を人前で用いるときは、負価値の「意見」表明と直ちに見なされる。さらにすでにレッテル化されているから、その言葉の詳細な再定義のための議論すら許されないことが普通であろう。つまり、これらは使ってはいけない言葉であり、もし使うなら覚悟をもって用いる言霊なのである。

 負価値を持った言葉としては「差別」や「いじめ」もそうだ。これらの言霊は、先に使った方に「神の守護」がある。用例としては「それは差別だ」とか「いじめはいけない」など。これらの言葉は「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる言霊たちである。例えば「被差別者」が「それは差別だ」と「意見」表明したら、必ず「事実」となる。いま「差別」を上回る霊威をもつのは「民主主義」くらいだろう。

▼そこらじゅうに言霊が…

 このようなことは、先鋭的な場面に限ったことでは決してない。日常でも徹底したものだ。ニッポンでは「事実」そのままの表明はタブーである。お世辞は立派な「意見」表明である。言葉は「事実」の客観描写に用いられることはなく、また議論のための「意見」の言葉もない。これでは「事実」と「言葉」、また「事実」と「意見」の区別も分からなくなってくるはずだ。

 死者を鞭打つな。このニッポン的ルールも言霊のなせる業だ。なぜなら死者の生前の負の「事実」を語ることは、そのまま負の「意見」表明となるからだ。もちろんこの前提には、死者はホトケであり絶対善であり、祭っても貶めてはならないものだという暗黙のニッポン的価値観が横たわっている。

 「戦争」と「平和」は対になった言霊だ。前者は悪、後者は善と決まっている。これはニッポン人には覆しがたい。しかし何が「戦争」であり「平和」なのかは、一度も議論されたことなぞない。レッテル化しているのだ。特に「平和」は善価値なので、そこにはごった煮のように相対立するような意味まで習合している。誰もが了解して用いながら、それでいて誰も明確に定義できない言葉の典型である。

▼「民主主義」は「事実」か「意見」表明か

 最後に、ニッポン的「言霊」習合の集大成として「民主主義」をとり挙げよう。「民主主義」という言葉の定義の中核は、「人民」(市民・国民・平民・民衆)が権力の主体であることだ。その「人民」は人権をもつ自由・平等な存在で、これを前提に多数決原理・法治主義を手段とするとされる。

 まずこの定義自体であるが、これは「事実」であろうか「意見」の表明であろうか。そう「意見」の表明にすぎない。しかしニッポンでは「日本は『民主主義』国家である」という「意見」表明した途端に「事実」なのである。「人民」の人権・自由・平等も「事実」ではなく「意見」表明にすぎない。「事実」を何ら保証するものではない。『日本国憲法』もそれ自体は「意見」の表明にすぎない。

 次に「民主主義」という言葉が現実にはどう用いられているだろうか。「民主主義」は絶対善の言霊である。だから、この言葉を自らの三段論法に加えるのだが、おのおの恣意的に用いていると言わざるを得ないのではないだろうか。少数派は多数決に反対して「民主主義に反する」と言い、多数派は「多数決こそ民主主義だ」と言う。また、権力者である「国民」は多数決原理に貫かれた選挙で選ばれ構成された政府を「反民主的だ」と非難する。

 要するに、自分の意見が通らなければ「反民主的」と言霊を投げつければよいのだ。この「反民主的」という言葉には言うまでもなく、負価値が含意されている。なぜどうして「反民主的」かという説明なぞ、誰もしないし誰も求めない。とにかく「反民主的」はダメで「民主的」が善いのである。小沢氏のうまさは、使い古されている「民主主義」ではなく、造語でこれを行なったことである。
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