吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
|All Index|Top Page|
■「無縁」の思想と「輪廻」の思想■
いま私たちを唖然とさせている「世紀末」犯罪は、何も「新人類」の少年少女たちばかりによるものではない。和歌山や奈良での保険金殺人容疑事件を見ても分かるように、これはいまや大人までを含めた日本人全体に蔓延する「病い」と言えるだろう。
しかも犯罪は、病いと同様に発生(発病)しない限り、見えるようには顕在化しない。水面に向けて衝動がうごめきながらもついに浮上せず、どこかへと霧散した「未犯罪」は日本人の心の水底あちこちでいかにうずたかく降り積もっていることだろう。
私たち日本人が失いつつある根底的に重要なものは、実は「あの世」感覚ではないだろうか。これらの「世紀末」犯罪は、生を「この世」一回限りのものと見定めての所業としか思えない。以前、河合隼雄氏は女子高生の「援助交際」という名の売春行為を「魂に悪い」と言った。「世紀末」犯罪の世紀末性、その病いである由縁は、確かに「この世」の懲罰なぞで清算できないところにあるのだろう。
だからと言って、来世のために罪を犯さず清貧に現世を生きよとかの今更できない注文や、地獄に堕ちることを恐れよとかの脅しすかし、また、前世の因縁で罪を犯すのだとかの現実の生を否定する世迷い言なぞを述べるつもりはない。筆者が言いたい「あの世」感覚とは、むしろ「輪廻」の思想と述べた方がよいのかも知れない。いや、これでもうまく言い表せてはいまい。
現代社会において、日本人は一人ひとり「無縁」なのである。つながりがないのである。まず、人間以外の生物・無生物は、心を持たぬモノだと見なされる。ただし、その人によって擬人法で語られるモノは人間に準じる心をもった存在であり、この例外とされる。ペットや愛用の道具などがそうである。
日本人がヒューマニスト(人間中心主義者の意味)であることは、明白である。たとえば学校では、そこで共に生きる人間関係が「問題」のほとんどすべてである。家庭「問題」と言われるものもそうだろう。テレビも、ドラマばかりでなくニュースやバラエティでも人間関係こそが主題である。環境問題や食品毒物問題も、繊細な人間中心主義の世界観の反映だ。
次にその人間も二種類に分けられる。「世間の人間」と「赤の他人」だ。赤の他人は、テレビの中の人と同じである。人であることは認めるが、自分には関係のないところで生きて死ぬ人々だ。もう一つの「世間」こそ自分が生きなければならない世界で、そこには「仲間」と「他人」がいる。世間とは、自分が属する相互評価グループである。
ここまでで、自然や物質、生物全体、人類や日本人全体とのつながりは切れ、すでに無縁になっている。自分がそれらの一部だという認識がきれいに欠落している。このような世界では、人間は「個人」である。主観的に言えば、「自分は一人」である。(いま述べていることは、政治的あるいは社会的な個人主義や個人責任の問題ではない。)
では、たった一人である「自分」とは何か。それは「心」と見なされている。そこで、自分である心は、心以外の自分、つまり身体を所有することになる。こうして身体は自分の可処分物体となる。援助交際や自殺、脳死状態の臓器供与、またピアスや染髪の容認、整形や痩身の流行なども、この定義の内にある。
心、つまり純粋精神となった自分は、神のごとき絶対者であり、超越的な「見る自分」となる。自分以外の人間を含めたすべては、自己体験できぬただ「見られるもの」となり、自分ができる範囲内の理解しかできない「単純なもの」(ロボット、ブラック・ボックス)となる。こうして、人間や世界は平板化され、多様性、多層性、複雑さなどをことごとく失う。
その一方で、所有しているはずの身体から逃れられないことによって、自分は「世間」と「経済」に厳しく相対化されている。これは不満足であるばかりではなく、不思議で奇妙でさえあるに違いない。それに、実感できる肉体的な痛みも精神的な苦痛も、ただ自分一人のものである。自分だけが真に生きている。
犯罪は、犯罪としてではなく日常の延長として現出する。「ムカツク」や「キレル」は、自我を放棄した言葉ではなく、自我がない言葉だ。他動詞ではなく自動詞であり、主語は「自分の心」である。そこには自分の心をコントロールすべき自分なぞあるわけはなく、心は自然に自動的にムカツキ、キレル。
自我とは社会規制である。自意識が乏しく、意識ばかりが働く心。それは子どもの心だ。あるいは、夢見る意識だ。現代日本人にとり、自我はただ発生し、ただいま現象しているだけの心となっている。それは社会規制を軽々と乗り越え、いつ境界線を飛び越したのかも分からず、「目覚め」れば自分をいわゆる「犯罪者」へと変えている。
「あの世」の話である。このような日本人のあの世は、当然「この世」に照応している。占いや怪談、心霊現象などが好きな日本人であるが、これまたこの世以上のものではない。人間中心主義的であり、自分とはたった一人であり心だというテーゼのくり返しにすぎない。現代人にとり、人間関係ではない怪談なぞ少しも面白くないだろう。
しかし、輪廻の思想、つまり「つながり」の思想を回復するのは、そう難しいことでもない。自分が心(意識)だとしたら、それはどこから来たかを考えてみることだ。魂なぞ考えなくてもよい。意識は脳、つまり身体から発生した、それでよい。ではその身体はどこから誕生したのか。父母、先祖を経て、ついには原生物へとたどり着くだろう。そして生物は物質へと収斂していく。
他存在との時間軸での同根性は、空間軸での親縁性としても発見できる。人間の身体は、地球生物との、いや地球そのものとの相似性を示している。たとえば、人間は地球と同じく約七〇パーセントの水分に満たされ、その血液やリンパ液や羊水の成分は海水と酷似している。人間の体液は、海水の四分の一(約〇・九%)の塩濃度だが、これは海の魚とも同じだ。
地球の潮の干満は月の引力に従っているが、女性の月経も月の周期に従う。そもそも人間の身体がもつ上下・左右・前後の対称性と非対称性は、地球上の全生物に共通の特徴だ。これは地球の重力に起因するが、同時に人間の根元的な歴史性を、つまり物質全体のそして生物全体の展開の中で初めて始まり、やがては終わる存在であることを示している。
少し大げさな話となった。現代の人間だけで考えてみよう。自分は何に最も似ているだろうか。同じ人類と呼ばれる他の人間であろう。それは身体的な特徴ばかりではない。心こそ、そっくりだ。しかもいま現代に近くなればなるほど、その近似性が高くなる。現代ほど、他人が自分に似ている時代はないのである。
再び「あの世」の話である。あの世は人だけのものではない。そこは「魂」の世界であるが、その魂とは人の「心」ではない。むしろ物質的なものだ。私たち人間の心が物質である身体から立ち上がった「幽霊」であるように、物質こそ魂の棲み処だ。(西欧では、魂の棲み処は「イデア世界」だと言うが。)
あの世をこう考えたらどうだろう。そこは「永遠」の世界なのだ。時間として個別的に展開・現象しているのがこの世という世界で、すべてが魂として集合的に収斂し眠っている世界があの世だと。輪廻とは何も生まれ変わりとだけ考えることはない。それは、自分たち全存在がそこから生まれ、再びそこへ帰っていく並行世界の思想なのだ。
蛇足だが、「個性」教育は止めた方がよいと思う。個性化は必然である。いかに似ようが他人である(クローン人間さえ、そうである)。それよりも、大きな意味での全体性や相似性こそ学ぶべきだ。それが個の全体性、万物の統合性、ひいては魂の普遍性を教えることになる、と思うのだが。
head
Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved