吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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バカをする自由はありやなしや

 先月の話である。増水した川の中州に取り残された若者たちを救助したら、お礼を言われるどころか、何と「頼んでもいないのに、なんで助けるのだ」とレスキュー隊員たちが毒づかれた、とのこと。これが「全国ニュース」レベルで報道される。事実を報道するマスコミに問いたい。これを報道する意味は何か。これをいかなる意味で「ニュース」だと評価したのかと。

 どう考えても、こんな不届きな若者がここにいるぞ、ということでしかない。さらに言えば、若者たちの根性を叩き直さねばならない、というメッセージだろう。もう少し穏やかに解釈しても、日本の若者の一部はこんなにも腐敗・堕落している、というメッセージだ。これは十分な世論操作であることを自覚しているのか。いや、こう問うた筆者が愚かなのだろう。衝撃や震撼を垂れ流すことを「事実を報道する」ことだとマスコミは心得ていらっしゃるのだから。

 未成年凶悪犯罪をこと細かく報道することも同様だ。それに何の意味があるというのか。親には自分の子どもを疑え、学校の先生には自分のクラスの子どもに用心しろと、おせっかいにも警告を発してくれているのか。こういうのをパターナリズムという。社会的な規範の押し売りである。これを積み重ねれば「常識」となっていく。そしてしだいにその前提を問うことはタブーとなっていく。そうなれば、もはやケガレである。

 雪印乳業事件の報道を通して、ニュースが食品に関して作った「常識」がいまや日本中に猛烈なケガレとなって伝染しているのはご承知の通りだ。もちろん、国民の方にも素地はあった。過剰な清潔志向、挙げ句は「抗菌」製品だとかがもてはやされるというのが言うのがそれだ。「過敏」は時代の病だ。

 我が子に疑いを持てば切りがないのと同様に、食品に疑いを持ち出せば、次々に「異物」が見つかる。私たちの目は、見つけたいものだけが見えるように出来ているのだから。虫、アリ、ゴキブリ、トガケ、カビ、紙、爪、陶器片…。この情況に乗じて、パンなどにわざわざ針を入れるような輩まで登場する始末だ。

 マスコミは「今日の異物混入食品」コーナーを設けたかのように、連日「発見された」異物混入食品とそのメーカーを告発する。そしてついにこんな発言をするキャスターを見た。「どうして急にこんなにも食品に異物が混入するのでしょうかね」と。自らのしていることに余りに無自覚だ。当の自分たちこそ、その「事実」を製作しているのにだ。

 もちろん、食品にそうした異物が混入していた(いる)ことは事実だろう。しかし何もそれはいま急に始まったことではない。ずっと以前からあることだし、むしろだんだん少なくなっていることだろう。ニュースによる「存在感」が現実を上回っているのだ。これがニュースの「事実」であり、これがニュースの商品性である。そして商品性の高いニュースは社会にケガレをまき散らす。


 「異物」という言葉が象徴的だ。異物とはうまく言ったものだ。異物と区別できる「自分」というものが、よほど立派に確立されているらしい。過剰な「清潔」志向はあらゆる異物を排除していく。食品から異物を排除し、車内から異臭を排除し、家からダニを排除し、行楽地から無礼な若者を排除し、繁華街からガングロや茶髪を排除し、学校からイジメを排除し、社会から暴力団を排除し、土地からオウムを排除し、国から外国人を排除する。食品から社会や人間精神まで、キレイにキレイに安全に安全にしていく。

 これは妄信だ。人間は完全である、完全であり得るという信仰である。はっきりとこの信仰には死の宣告を突き付けておきたい。人間は完全ではない。たとえいやでも、私たちは常に異物と「共存」しなければならないし、時には異物に助けられて人間はあるのだ。よって、食品異物混入は避けられないことなのだ。交通事故が絶対になくならないように。社会がいつまで経っても完全に「清潔」とはならないように(ちなみに、第三帝国を「清潔」にしようとしたのはヒトラーだ)。

 さらに引導を渡しておこう。食品異物騒動の始まりは、雪印乳業の加工乳の「バイ菌」であった。当然、これは人の目には見えない。しかし、それを受けてケガレとなって日本中を席巻したのは、目に見える「異物」であった。先年の「O-157」は「バイ菌」だ。本当に恐れる気があるのなら、目には見えない「バイ菌」をこそ恐れるべきであろう。現実は、これには無頓着だ。異物混入食品騒動がケガレである所以である。

 論理的な問題だが、「絶対」と「ほとんど」は決定的に違う。食品に異物が混入することを極小化することは可能だし、その努力を続けるべきだろう。雪印乳業などもそうすべきだ。しかし「絶対」や「完全」はない。間違いや事故はあり得るのだ。ついでに言うが、医療ミスもなくならない。また、社会的に存在するものは、社会的に有意味だからだ。社会的に無意味になれば、自動的にそれらは存在が薄くなり、やがては存在しなくなる。たとえば、犯罪は戦争中にはあらゆる国で減少する。

 世界は「ウロボロス」である。ウロボロスとは、麒麟や龍のような想像の生き物で、自分の口で自分の尾をくわえている蛇である。もしこのウロボロスがどんどん自分の尾を食べていくとどうなるだろう。ついには自分の身体を食べ切って、なくなってしまう。部分が部分を食い尽くせば、全体も消滅する。

 何を言いたいのかというと、全体と部分の関係についてである。私は、そして私たち人間は世界の「部分」である。確かに世界は私とは無関係であるように見えるし、たとえ私一人消えてなくなったところでほとんど何の変化もないのだろう。しかし「完全」にではない。私ははっきりと世界の一部分なのである。全体は部分の総和とは異質だが、部分なくして全体は決してあり得ない。

 そして私が世界の部分であるなら、世界は自分と無関係な別者ではない。「異物」という言葉は、自分が世界の一部であることを拒絶している言い方である。その場合、同様に、世界は私を拒絶するだろう。実は異物とは、私と同じく世界を構成する別の部分のことなのである。だから、異物という発想は、人間が自ら世界から異物化し、人間だけの聖域を作ろうとする無謀である。人間と自然があるのではなく、人間は自然の一部である。

 念のために言っておくが、過ちを許せなぞと述べているのではない。人間は誤ってしまうものだと言っているのだ。しかし、「清潔」や「安全」への過剰志向は、「絶対に過つな」という強迫である。お勧めはできないが、「頼んでもいないのに、なんで助けるのだ」と言う若者がいたって、何の不思議があろうか。私にはむしろこの「清潔」や「安全」への「包囲網」こそが心配である。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved