吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■21世紀は「人民裁判」の時代か■
東欧に残った最後の「独裁政権」(朝日新聞)が崩壊した。ユーゴスラビアの話である。大統領選の集計結果についての疑惑を巡り、国民的な規模のデモや暴動騒ぎとなっていたが、当のミロシェビッチ現大統領が敗北を認めた。これで民主野党連合のコシュトニツァ氏が平和裡に次期大統領に就くことが確定した。別にこのことに文句はないし、良かったとさえ思う。が、日本人がこれに何を思うかと想像すると戦慄が走る。
日本人は物事を味噌クソにすることに長けている。ソトのことを、あたかもウチのことと同じように手前味噌の解釈をするのだ。言うまでもないのだが、ソトはソトの論理で、ウチはウチの論理で動いており、同じように見えても中身は全く違うものである。
日本人はこのミロシェビッチ政権の崩壊劇を何と読むだろうか。おそらく「民主主義の、国民の勝利」と喜んでいることだろう。「悪」は廃されねばならないという勧善懲悪の神話である。お手本通りの「進歩」の歴史観でもあるだろう。すなわち、国内の様々な「民主主義」キャンペーンの例証として引かれているように、私には思える。
様々な「民主主義」キャンペーンとは、政治問題であるとは限らない。雪印乳業に端を発した一連の異物混入食品事件で示された国民的な姿勢もそうだし、オウム真理教など怪しい新興宗教に向ける眼差しもそうだ。もちろん、その代表的なものは、自民党中心の政府・政権への批判であり、ここへとすべては収斂していく。
問題は「正しさ」はどこにあるか、誰の手にあるか、である。それは国民の、民衆の、人民の、流行りの「言霊」で言えば「市民」の手の中に握られている。非難や批判をされるべきは悪事を働き巨利をむさぼる大企業や教団であり権力を牛耳る政府であり、彼らは国民から一部遊離化し特権化した「少数派」である、というのがこのキャンペーンの本当の骨子である。
このキャンペーンの主(ぬし)の正体とは何者か。「多数派」である。多数派こそ「正義」なのである。確かに、いじめから始まって国会での採決に至るまで、日本人は多数意見の支配の下にある。この多数派の正義論をいまや何と呼ぶか。「直接民主主義」と呼ぶのだ。それは例えば住民投票という制度などによって、来たる21世紀には本性をますますむき出しにしていくであろう。
日本人における致命的な陥穽の一つは、「ゼロサム・ゲーム」の思考である。第三項の排除、と言ってもよい。ゼロサム・ゲームとは、全体の富は一定であり、故に誰かが得をすれば他の誰かは損をしている、というものだ。つまり、少数の者たちによる富や権力の獲得は、他の多数の者たちの富や権力の収奪に他ならず、その犠牲の下に少数者の特権があるという日本的「損得」の論理である。
もちろん、これは完全に閉鎖された学校のクラスや村共同体という特殊な条件下でのみ成り立ち得る教科書的な論理であり、他クラスとの交流や村外との往来や交易などが一切無視された架空の論理である。にもかかわらず、この論理は現代にも生き続ける日本人の論理なのである。かくして、多数派こそが「正義」となる。なぜなら、この論理によれば、少数者にしか許されていない富や権力は「悪業」によってしか獲得できないものだからだ。
多数派こそが正義である日本で、何が起きているか。それは「人民裁判」とでも言うべき事態だ。テレビなどのマスコミはこれを生業(なりわい)としている。先述のユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領の追い詰められた姿も、日本人の眼にはそういうようなものとして映ったはずだ。彼は大統領選の集計発表において「不正」を働きかけ、その「真実」を暴かれ、ついに「多数派」の「正義」の前に屈したのである。
「民主主義」キャンペーンによって、事件がこのようなものとして喧伝されることによって、「この日本でも」とのムードが醸成されるのだが、実はここ日本でこそ「人民裁判」は「不正」な手段で富や権力を収奪した少数派を吊るし上げ、それらを多数派のために「回復」する「正当」な行ないとなるのだ。いわゆる「判官びいき」(ゼロサム・ゲームでの弱者支援がその本質である)と「人民裁判」は双子の兄弟であった。
最後に「ソトの論理」で、ユーゴスラビアの政権交替劇を読んでおこう。EUすなわち「至高の民族群」による共同体(と自認する)である「ヨーロッパ」の存在が前提である。その外縁に位置するユーゴスラビアで、キリスト教徒とイスラム教徒(敵の敵は味方)を迫害する数々の「紛争」が長い間起きていた。この首謀者こそ、かのミロシェビッチ大統領その人である。すなわち彼はヨーロッパ的秩序を乱す「敵」であったのだ。敵を「悪人」に仕立てるのは「戦争」の常道である。
かくして、ミロシェビッチ大統領は「悪人」となった。今回の決着で、EU各国、アメリカや国連が「良きかな」と悪鬼退治の成功のように持てはやすのは、これが敵との戦争であったからであり、何のことはない、ただそれだけのことに他ならない。善悪なぞの問題ではなく、アメリカを含めたヨーロッパ的秩序の回復が成ったという勝ち負けの問題だったのである。
もちろん、ユーゴスラビア国民には国民内部での論理があって、今回のことに至ったことは当然である。しかし国際報道はそのようには決して語らない。必ず、ヨーロッパ的秩序のフィルターをかけた上で「世界」に流布される。そのフィルターとは、日本人がおそらく最も額面通りに受け取ったであろう、「民主主義」や「進歩」の物語である。物語は二重三重に出来ている。
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