吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■「ヴィジョン」なき国ニッポン■
ニッポンには「ヴィジョン」がない。これは何も現代日本の経済的な閉塞感や政治家の無能力さを言っているのではない。日本にはそもそも「ヴィジョン」という考え方がない、と言っているのである。なお、ここでは「ヴィジョン」という言葉を、与えられた現況へ適応するというレベルを超えて、能動的意図的に総合的な政策環境を創出し、かつそれを客観的合理性をもって構築しようとする未来への展望を指すものとして用いたい。
(一)
たいへん古い話で恐縮だが、中国の『隋書』に今から1400年前(西暦600年)の日本(倭)からの遣隋使来訪時の記録がある。倭王「オホキミ・アメタリシヒコ」が、数百年ぶりの統一帝国・隋の高祖文帝に遣わした使者は言う。
「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴き跏趺(あぐら)して坐し、日出ずればすなわち理務を停(や)め、云う『我が弟に委ねん』と」と。
これに応えて、
高祖曰く、「これ大いに義理なし」と。是(ここ)において訓(おし)えて之(これ)を改めしむ。
とある。(岩波文庫より引用。漢字の一部をかなに改めた)
ここには、ヴィジョンなきニッポンの政治の精神が語られている。政治は祭事(まつりごと)なのである。祭事とは神に仕えることである。文脈に従えば、「天意」に仕えることであろう。天意とは何か。世に出来(しゅったい)している、および新たに出来した事態である。それは自然の天変地異(予兆的な星辰や天候の変化等も含む)や疫病、人為の叛乱や謀反、また、臣従しないクニや民の存在などである。つまりは、現に起こっている、あるいは新たに起こった「悪事」に受動的ながら対処し、それを沈静させること(それは天をなだめることである)がニッポンの政治である。
横道に逸れるかも知れないが、『隋書』のやり取りは筆者には興味深い。中国皇帝は「天子」である。倭国の申し様では、天の兄弟である大王(おおきみ)は天子たる皇帝の叔父になってしまう。また、未明にだけ「政」を行なうのは、政が「夜」のものだからである。夜は、神の支配する時間であり、天との交信の時間である。交信とは「夢」(これも一つの「ヴィジョン」なのだが…)に他ならない。夢見があった夜明け前に行なうのが「政」なのである。「朝廷」や「朝堂院」はこのことに基づく命名である。
さらに「跏趺」(あぐら)という字であるが、これは「結跏趺坐」(けっかふざ)という、仏のあるいは禅定(ぜんじょう)修行の坐相を表す字の真ん中の二字を取った言葉だ。要は床に座るという意味なのだが、これは案外「ニッポン的」なのである。仏教の影響下にあぐらが始まったとは思えない。中国人は昔から、欧米人同様、椅子に腰かける民族だ。最後に「日出ずれば(…)我が弟に委ねん」とは、日の出の後は弟たる「日」に任すということになるが、これはどういうことだろうか。
現実的には、最高臣下たる大臣や大連に委任するということになるのだろうが、事態のあるがままの進行を見守るということである。まず、出来(しゅったい)した事態があるのである。だからこそ「天意」なのだが。これに対する高祖の言葉とは何か。親心とでも言うべきものであった。中華皇帝への非礼ばかりではなく、政治への倭王の非合理性を「何をばかなことを言っているのか」と諭したのである。しかし、この七年後の遣隋使・小野妹子は性懲りもなく「つつがなしや」の国書を持参するのではあるが。
(二)
誤解しないで頂きたいが、筆者は否定的な話をしているつもりは少しもない。ニッポン人にはニッポン流にしか「政治」や「経済」を行なうことが出来ないという冷厳な事実を指摘しているまでである。まずは、これをよく自覚することである。理解がよく身に染みるように、一例を挙げれば、欧米流「民主主義」である。そもそも私たちには民主主義がどういうものであるかすら、未だによくは分かっていないのではないだろうか。それを措いたとしても、わが「国政」のいまの有り様を民主主義がよく実現されているとお感じの方はおそらくいないであろう。
その不満の第一は、現首相個人のデクノボウぶりもさることながら、政治全体にそれこそヴィジョンがないことであろう。が、そういう国政を実現可能たらしめているのが、その民主主義で国会議員を選び出している当の私たち自身に他ならない。何という矛盾か。しかしお分かりの通り、現実には永年にわたり如何ともなし難いのである。それは私たちもまた、ヴィジョンを持てぬ民であることの証明である。為政者ばかりの問題ではないのである。
ニッポン人は欧米流政治をたとえ理解できても、その実現はできない。そういう意味で「普遍」的であるはずのものも、ニッポン人には何の保証もない。私たちの根本的な誤解は、欧米流の「普遍」的なものがどこでも文字通り普遍的で、自分たちの「進歩」や「改善」(これらも「普遍」的な概念!)がなされさえすれば、それは実現できると思っていることだ。実は、私たちは意識せず「普遍」を「和魂洋才」よろしく、換骨奪胎して別物にしてしまっている。しかも、そのことにほんの少しも気づいていないのである。
私たちの政治的想像力は、せいぜい「水戸黄門」か「ウルトラマン」どまりなのである。この両ドラマの筋立ての本質をよく思い起こしてほしい。「安寧」で「平和」であるはずのこの世界に悪事や異変が出来(しゅったい)し、そこへどこからともなく「ニッポンの神」が現れて事態を解決し、もとの安寧と平和が回復される物語である。私たちにはこのようにしか「政治」を感じることができないのである。回りくどい民主主義や政治はどうも性に合わないのである。
(三)
「ヴィジョン」には「進歩」や「操作性」の観念が含まれている。「世界」に対する考え方、つまり世界観の問題がヴィジョンには含まれている。私たちニッポン人に世界を操作しようという意思はない。悪事なき世、平穏な世こそ良き世と信じて止まない。ただそれだけである。しかし、欧米人は違う。世界は操作しなければならないものと考え、積極的に「善」は創り出さねばならないものだという意思がある。ヴィジョンは、欧米人には必要不可欠なものなのである。
ちょうどいまアメリカ大統領選がフロリダ州の集計をめぐって「一時停止」状態であるが、ブッシュ・ゴアの両候補が訴えなければならなかったのは「変化」である。どうアメリカを、世界を変えて行くのかというヴィジョンを有権者に訴えたのである。日本の政治家も同じように「変化」を訴えているように見えるかも知れない。しかしその本質は環境適応であり、「安寧」で「平和」な社会の回復である。
ニッポン人は起きた事態に、つまり与えられた状況に適応しようとする。つまり「流行」に合わせる。いまなら、ご存知「グローバル・スタンダード」だ。それが合い言葉となる。だから、ニッポン人は環境適応することを求められる企業人として長けているのである。「起業」ではない。実は、日本の政治も「企業」なのだ。「変化」の徴候を嗅ぎ取って素早くこれに対処するのが、日本の優秀な政治家だ。
(四)
日本の伝統的外交政策をご存知だろうか。それは「鎖国」主義である。ただし、何もかも排除するということではない。大国に付き従うような事大主義を排する独立外交という意味だ。近代以前は、ご存知のように中国こそ日本にとっての「世界一の大帝国」であった。これに臣従するあり方を「冊封」という。冊書(皇帝の詔)を以て封爵を授かったのは、例の金印の倭奴国王、卑弥呼らの邪馬台国、倭の五王、足利義満くらいである。遣唐使は冊封下の使節や貿易ではない。対等関係を保ちつつ、「流行」を頂戴したまでである。
この「鎖国」主義という「ヴィジョン」を定式化したのはかの「聖徳太子」である。聖徳太子のスーパースター性は、このような「ヴィジョン」を持った超ニッポン人たるところにあろう。そして、いまだにニッポン人は彼を越えられていない。実は、先に紹介した『隋書』の600年遣隋使も聖徳太子が構想した使節で、あのトンチンカンとも見える口上は、日本が中国に臣従しないこと(独立)を伝えることが真意であった。だからこそ、607年の小野妹子には、より明白な国書を持たせたのだ。
さて、この「鎖国」の眼目は、何だろうか。それは「流行」を摂り入れつつも、落ち着いてニッポンを考えることである。時流に流されないことである。平安後期の日本文化の成熟、鎌倉から室町時代の現今に続くニッポン的な仏教と神道の確立と定着、江戸後期の「武士道」など明治に引き継がれるニッポン的精神論の成立と浸透、等々は、時のグローバル・スタンダードと一定の距離をとることによって、可能となったのだ。
ところが、いまや「鎖国」はどうなっただろうか。ご存知の通り、いまはグローバル・ネットワーク化した完全「開国」の時代であり、いかなる「壁」の存在も許されない時代である。物理的な「世界大戦」は終結したが、文化情報の側面においては「見えない戦争」中である。その「戦争」の名は「標準」(スタンダード、普遍)である。「鎖国」は破られ、ニッポン人自らも破っている。その結果が日本の「民主主義」であり、ニッポン人にとっては不安な、「普遍」化しつつある社会生活である。ニッポン的な礼儀作法がすたれるのは至極当然、さらに言えば神経症的な事件の頻発もむべなるかなとさえ思えるのだが。
[主な典拠文献]
「隋書倭国伝」(「魏志倭人伝」等三編とともに収録)岩波文庫
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