吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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ニッポン政治とニッポン人への一診断書

▼ニッポンの政治はニッポン人に見合う

 自民党の加藤紘一氏によって、オートシャッターモードのような手榴弾が森政権の真ん中に投じられた。が、それは爆発直前に自らの手で止められたのである。こういうのを「泰山鳴動して鼠一匹」と言うのであろう。この、主役を買って出ながら劇半ばで自ら退場したお粗末な芝居について、政治評論家やニュース・キャスター、そしてこれに付和雷同する多くの国民から言いたい放題の非難が陸続と浴びせられている。曰く「加藤氏は国民の期待を裏切った」「国民の政治不信を増幅した」「政治革命を単なる派閥抗争に貶めた」云々。

 筆者は「その国の政治のレベルは国民のレベルに見合う」という見解に同意する者である。今回のことも、まことにニッポン的なもので、「ニッポンの政治はニッポン人に見合う」と読み替え得るものと信じる。今回の「劇」について、「序」と「破」、次に「急」、そして閉幕後の「劇評」の三段階構成で、ニッポン人がニッポン政治をどう観劇し論評するかという姿を通して、私たちニッポン人を論じてみたい。

▼序:森首相の非ニッポン的生理感覚

 まず「序」となるのは、森喜朗首相その人自身であろう。幾多の問題発言の内容もさることながら、その存在自体がトテモ怪しい。その登場、すなわち小渕前首相の頓死を受けての「談合」選出も奇怪であったが、これはニッポン的に申せば何と言うことはない。それ以上に「不快」余りあるのは、その人の生理感覚である。誰もそう直截に言わないのは、マスコミとこれに「洗脳」された国民が「民主主義」的で「人権尊重」や「差別反対」を本気で信じ込んでいるので、そういう言い方なぞ思い寄らずに「内閣支持率の圧倒的な低さ」と表現する表出能力しか持ち合わせていないからにすぎない。

 早い話が、森首相という人物は、心情と論理を分離し得ないニッポン人を自己理解できない「愚鈍」なのである。森氏はもちろんニッポン人であり、ほとんど毎夜の酒宴会合など「首相動向」として伝わる行動を見れば、むしろ濃いニッポン人である。しかし奇妙なことに、大半のニッポン人政治家がそうであるように、この人も「政治は近代ヨーロッパ的なものである」と信じている節がある。その典型なニッポン的信念は、「政治は結果責任である」というウェーバーの主張の「和魂洋才」的換骨奪胎である。

 現実に対して戦略的(先を見越した、ヴィジョンをもった)柔軟性のないことが、ニッポン的思考・行動の特徴である。だから、行き着くところまで行ってしまうのであるが、この「政治は結果責任である」との信念は実は、その都度の事後の「評価」によってこそ「伝統」化したものと筆者は考える。ニッポン人はプロセスを重視すると言うが、そんなことはめったにない。「結果がすべて」と短絡しているのがニッポン人である。ウェーバーの主張はこれを補強し得るから、取り入れられたにすぎない。理屈づけされた順序を間違えてはならない。

 森首相は、すべきこと(ただし、自分では訳の分からない「IT革命」に示されるように完全に環境や時流への受け身の対応)をしていれば文句はないだろう、と「本気」で信じているのである。「個人の生活や信条」については何も言わないのがニッポン的約束だろうと、最も信じておられるお方なのである。これが私たちに不快感を与える彼の生理感覚である。私たちの「民主主義」的な意識では許しても、ニッポン人としての無意識は決して許さない。その憤懣の放出回路を示唆したのが加藤紘一氏であった。

▼破:「加藤紘一の乱」第一局面での成功

 唐突に思えた加藤氏の「乱」(森首相への退陣要求)は、第一局面ではまんまと成功したかに見えた。初めはこれを無視しようとした「主流」橋本派であったが、よくよく考えてみれば「言う通りかも知れない。森首相で選挙を勝ち抜き、与党であることを維持できるのか」という危惧の念が浮かんだのだ。となると、すき間「風」が吹き始める。「風」とは環境や時流の変化を告げる、言わば「天命」である。この「風」が吹くと、「風景」(よく出来た言葉だ!)が一変し、すべてがそのように見えてくる。国民の多くにも、束の間、その「風景」が見えたはずだ。

 その風に晒された与党自民党の姿とはどのようなものだっただろう。行動上はまだ立ち現れてはいなかったが、彼ら彼女らの心中の、勝ち馬に乗ろう、多数派に素早く移ろうと人を押し退けるような悲壮なもがきが見えなかっただろうか。また、与党や政権というものが実に危ういシーソーのようなもので出来ていて、一方の重りを少し移動させるだけで、どのような混乱や破滅への危機感が引き起こされるものかと改めて知らしめた。与党や政権はバランスが崩れたら、たったそれだけでお仕舞いなのである。

 自民党は、民主党も同じ穴のムジナと言えるが、鵺(ぬえ)である。鵺とは、頭は猿、胴はタヌキ、尾は蛇、手足は虎に、そして声はトラツグミに似るという化け物である。そういう化け物だからこそ「顔」である総裁・首相が必要なのだ。しかし、森喜朗氏はその正体をあまりにも正直に表してしまった「顔」だ。だからこそ、首相交替が是非とも必要だというのは当の自民党自身が最も自覚しなければならないことなのだった。そこに加藤氏が「王様はハダカだ」と叫んだのだ。

 アメリカ大統領選が「フリーズ」(氷結)しているが、日本に政党が自民党しかないわけではないように、米国にも共和党と民主党の二政党しかないわけではなく他にもある。米二大政党制は、この二政党がアメリカ政治を完全に支配し続けるために作られたものなのである。ニッポンの民主党の「二大政党制論」に騙されてはならない。それは、米国の二大政党の正体も二匹の鵺であるが、ニッポンに自民党の他にもう一匹の鵺を飼おうという話なのである。

 ニッポン人はこれまで自民党という一匹の鵺でやってきたのだ。鵺だから、何でもありである。それが自民党の雑多性だ。これまで自民党にニッポン人の政治を託してきたのは、資本家ばかりではない。底辺の一庶民もが「自分がこの鵺を飼っている」と自負してきたのだ。しかしその本当の飼い主は、米国政治と同様に、エスタブリッシュメントである。ただ、日本の場合は、その構成メンバーが個人よりも団体=共同体であるという違いがある。

▼急:加藤特攻隊長の撤退と切腹宣言(涙の諫止劇つき)

 この劇の「急」とは言うまでもなく、加藤氏の撤収・敗北宣言である。典型的な三文芝居ではあったが、それは紛れもなく「ニッポンの劇」であった。戦争映画での特攻隊出撃シーン、時代劇やヤクザ映画の討入り直前の場面などを、思わず連想された方も多いのではないだろうか。もう一言足せば、これは「男の劇」である(この場合の「男」とは観念論者としての人間というほどの意味だ)。

 念のためになぞっておけば、「特攻隊長」もしくは「大石内蔵助」に扮する加藤紘一氏は、内閣不信任案は否決が必至の情勢たることを知り、自分を信じて付いてきてくれた同士たちの犬死なり討死なり(森首相の退陣はなく、かつ党籍剥奪処分)だけは避けねばならないと判断し、本会議「出席-賛成」ではなく「欠席」の決断を下した。これによって、今「造反」者の罪一等を減じたわけだ。

 その最終決断を加藤派および山崎派の面々の前で披瀝した後ち、加藤氏は首謀の自らと山崎拓氏だけは「特攻・玉砕」すると述べた。これが同士と世間へ詫びる「腹切り」行為であることは言うまでもない。ところがまさに「劇」的である。加藤氏の無謀な決意を諫めようと、同士が演壇上の加藤氏を取り囲み、自重するよう執拗に説得したのだ。加藤氏は容易には首を縦に振らなかったが、その両眼からは涙がすでに流れ出していた。ここで幕切れである。

 こんな政治劇は、世界広しと言えども、おそらく我がニッポンでしか見られないものだろうと思う。しかも、筆者もそうだが、私たちはこれを20世紀最後の年にテレビで観劇したのである。思えば、先ほど挙げた通り、時代や状況の設定こそ違え、これは私たちニッポン人には見慣れた、あるいは見覚えのある一幕なのである。さらに言えば、私たちニッポン人には、もっと身近で体験したことさえある劇であろう。

▼幕引き後:舞台の上でも舞台の前でも同じことが…

 閉幕後の観客は冷たい。特に無料入場の客こそ、質(たち)が悪い。今度の叛乱は、自民党・加藤紘一氏の叛乱である。観客の「75%」(森政権不支持率)は、自民党の客でもなけば、加藤氏の客でもなかったはずだ。あるいは、「隠れ阪神ファン」ならぬ、実は「隠れ自民党支持者」だったということであろうか。そう考えれば、一連の辛口「劇評」の「期待や信頼を裏切った」という言葉もなかなか含蓄があり興味深いのだが。

 加藤氏への非難は、手榴弾を爆発させなかったことに集中している。前述の「政治は結果責任である」との近代欧米政治的な擬似信念は、いまやニッポン国民にも膾炙されているかのようである。しかしながら、非難の具体的な矛先は「期待や信頼を裏切った」ことに、つまり結果(論理)ではなくプロセス(心情)へと向けられおり、これは同時に国民の怒りは論理的なものではなく「心情」的なものであることを露呈している。穿った見方で言えば、劇が最後まで貫徹されなかったことへのヤジである。

 普段は覗き見もしない政治物の芝居小屋でハプニング劇が始まり、騒ぎを聞きつけた入場券を買っていない(票を投じていない)野次馬が大勢次々に押し寄せ、「いいぞ、もっとやれやれ!」と歓声を上げていた。ところが、どうしたことか、先ほどまで勢いのいい啖呵(たんか)を切っていた主役が、突然涙ながらの「国定忠治」をやり出した。唖然としているうちに、幕まで引かれてしまった。にわか「観客」たちは、「最後まで見せろ、金返せ」と騒ぎ出した。…と、まあこんな猿芝居(観客による!)だろうか。

 ニッポン人は、論理と心情の遣いどころを間違っている。いや、これがニッポン人の遣い方なのである。それを近代欧米的政治流に測ろうとするから、自己矛盾的な混乱に陥るのだ。近代欧米流の物差しで、冷静に考えてみよう。加藤氏の企みは失敗に終わったが、志は良しと単純に評価すべきだ(これを「志」という言葉にニッポン的にこだわり出すと、ニッポン的自己矛盾に陥る)。また、結果はどうか。柔道の「効果あり」ではないか。ニッポン政治に一定のインパクトを与えたことは確かに間違いないはずだ。

 一か八か、白か黒か、はっきりさせようと意気込むのは、近代欧米的政治流にはレーニンの「小児病」である。そういう意味では、ニッポンの政治は「小児病」である。しかし、どうしても西洋医に診てもらわなければならない理由はどこにもない。診断は私たちニッポン人自身が下せばよいことだ。しかし、これだけは忘れてはならない。「大きな政治」(国政)と「小さな政治」(国民の日常)は、大宇宙と小宇宙のように実は同じものということだ。もしそうでなければ、政治家は文字通り人種的にも「特殊なニッポン人」だということになるだろう。あるいは、とっくの昔に「大きな政治」は国民の選挙によって変わっていたことだろう。
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