吉外井戸のある村
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アメリカ大統領選挙の本質と秘密

 ご存知の通り、フロリダ州選での大変な僅差(きんさ)を受け、前代未聞の再集計と訴訟合戦の末、民主党のゴア候補が12月13日ついに敗北宣言し、一般投票からひと月余り経ってようやく、新世紀最初となる第43代米国大統領就任式(1月21日)に臨むのは、共和党候補ブッシュ氏と決した。この米国の「民主主義の現状」についての論評は多々なされているが、筆者に言わせればどれもこれも「釈迦の掌の上の孫悟空」の如しである。

 今米大統領選は確かに異常だった。多くの論者が言うように、両者ともカリスマ性に乏しく、政策差も小さかったことが拮抗した主因であろう。何とか当選したブッシュ氏は、総得票数ではゴア候補を下回っており、その支持率の低さが新大統領の指導力の弱さとなるのではないかと懸念する声もある。このブッシュ氏かゴア氏かと二転三転するひと月余りの中で、通常の大統領選ではまず気づくことができない何かがかすかに見えた。これについて述べたい。


 ところで、米大統領選はブッシュ・ゴア両氏だけで行なわれたものではなかったことは案外知られていない。たとえば有名どころでは、緑の党のネーダー氏や改革党のブキャナン氏(共和党代表候補選でブッシュ氏に敗れ、改革党へ転身)らも大統領候補だったし、さらに他にも候補はいたのである(あの、穴空け式のフロリダ州選の投票用紙を想起されたい)。しかし、テレビ討論会からは締め出されるし、マスコミからも無視同然の扱いだ。結果として、特に日本人には米大統領選は共和党と民主党の二大政党だけの対決と映じたはずだ。

 この、日本人に分かりやすいように「不必要部分」をカットするお為ごかしのような報道番組作りは、日本のマスコミの致命的な不見識であり、平素の情報公開の信条にももとる一般日本人への侮蔑であり、かつ真実の隠蔽という犯罪ですらある。この高慢不遜な姿勢は、四年ごとの米国大統領就任式の報道でも同じだ。キリスト教による宗教国家「神聖アメリカ共和国」の「第一市民」(ローマ共和国元首の称号)たる大統領就任式での「神の祝福」部分は、どういう了見かは知らぬが、お約束でカットされることになっている。

 話をもとに戻す。マスコミが共和党と民主党の二大政党の選挙活動に的を絞って報道するのには、もちろん理由がある。実質的にこの両政党によって新大統領が争われることが自明だからだ。そしてそれには必然的にそうなる仕掛けが働いている。それが州単位による大統領選出システムである。これについては、普通こう言われている。米国(アメリカ合衆国連邦)はそもそも自治州の連邦によって成立した「合州国」であるから、各州の意思を最大限尊重する仕組みなのだと。しかし真実は、第三政党候補が大統領に就く道の排除であり、国民の意思を二選択肢だけに制限する政治的バリアなのである。

 その選出システムについて少し触れれば、まず11月、一般有権者が各州ごとに、どの候補に自州の「大統領選挙人」を委ねるのかを決める。州内で過半数を制した候補が、ほぼ人口比例で各州に割り当てられたその州の大統領選挙人の全数を獲得する。これを「ウィナー・テイクス・オール」と言い、最多のカリフォルニア州で54人、最少の州で3人で、その総数は538人となる。だから、どの州を獲るかが大きなポイントとなる仕組みである。そして12月、選挙人が大統領を最終的に選出する。選挙人は各候補によってあらかじめ指名された人たちなので、先の一般投票の結果で、つまりどの候補が全選挙人数の過半数270人を制したかで、事実上、次期大統領は決定するのである。

 このシステム最大のポイントは、大統領候補は各州単位で実施される一般投票で、どの州でもよいのだが「過半数」を獲得できなければ、一人の選挙人も確保できないということである。だから、小政党の候補はあらかじめここで潰(つい)えてしまい、全州規模での大統領選には名乗りを上げることすらできないのだ。この州別選挙の仕組みが、「過半数」を争える二大政党だけに大統領争いを保証している「二大政党制」の正体である。米国には、初めから二大政党しかないのではないし、いまも存在している。それは、第三政党の国政レベルへの参画が「民主的」な選出システムによって著しく阻(はば)まれてきた結果なのである。


 改めて問おう。今米大統領選は何を露呈したのか。米民主主義の粗雑さ? そんなものではない。米大統領選の秘密を垣間見させてくれたのだ。と言っても、投票システムのお粗末さなぞではない。目的と手段の圧倒的な不均衡だ。もっと言えば、手段なぞどうでもよいという米「民主主義」システムの本音だ。その本音とは何か。ドラマティックに大統領を仕立て上げることが大統領選の目的なのだ。今回はこれが見事に失敗して白けてしまい、そもそも大統領選って何だっけという問いが露呈してしまったのだ。

 しかしこれすら、中間目標にすぎない。では、真の目的とは何か。二大政党制の名の下に第三政治勢力の結集を完璧に阻止し、米エスタブリッシュメントの領導できる「大統領」が、米「国民主主義」の言う「公平中立なルールという正義」にのっとり、「公的な手続きと競争」で選ばれたという「大義」の捏(ねつ)造と、その大統領を他ならぬ当の国民自身が選び出したと錯覚させることにある。幸いなことに(?)共和・民主の両党は、わが自民党と同じく「国民」政党として信任を得ており、その正体なぞ誰も疑ってはいない。

 今回、決着がもたついたとき誰もがもうどちらでもよいと思ったはずだ。まさにその通りだったのである。ブッシュ氏でもゴア氏でも同じであり、次期大統領は米エスタブリッシュメントが認める共和党・民主党の候補でありさえすれば、どちらでもよかったのである。かつての大統領選で、当時無名だったカーター氏やクリントン氏がなぜ大統領になれたのか。二大政党の一つ民主党の候補であったからだ。

 大統領選は各党の代表候補争いから始まり、最終的に民主党か共和党かという争いになっていき、それぞれの選挙レベルでは選挙戦略や資金、またその人物と掲げた「公約」への支持などで争われはするが、二大政党間の争いとなった時点(国民の目から第三候補が隠されたとき)から、実は言わば「釈迦の掌の上」での争いであり、国民や世界はそんなどうでもよい「ドラマ」に踊らされて、熱狂したり一喜一憂したりしているにすぎない。

 確かに、二大政党候補のどちらが大統領に就くかで自分の利益が左右される人々は数多くいる。各州の「マフィア」と呼ばれる小エスタブリッシュメントなぞもそうだ。しかし大エスタブリッシュメントにとっては結局、同じだ。儲けの割合や順番が、多少皮算用より少なくなったり遅くなったりするだけのことだ。たとえば、GMやフォードを駒として持つエスタブリッシュメントは自動車政策を、カーギルのそれは穀物政策を、ロッキードのそれは軍事政策を、それぞれ優先させる大統領がお望みだろう。しかしこれも順番にすぎない。どのみち、儲けは回ってくる。

 しかしながら、どのエスタブリッシュメントにとっても米国政治を支配し続けること(これが「二大政党制」の役割である)と、これを通じて米国経済と国際政治経済体制を掌握・管理し続けること(これが「米国連邦政府」の役割である)は、世界市場「支配」をさらに進めるための基本共通前提である。こういう基本共有政策については、手段・方法はともあれ、二大政党の大統領は必ずこれを果たさなければならないのである。

 そのためにエスタブリッシュメントから送り込まれるのが、特別補佐官や主要省庁の副長官クラスのエージェントたちである。彼らの役割は大統領に政策提言しそれらを実行・指揮することである…。話がどうやら選挙後のこと、米大統領の役割に入ってしまった。これについては後日また触れる機会もあるだろう。本日のところは、このあたりで筆をおきたい。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved