吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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「森降ろし」劇に思う---21世紀は衆愚政治の世紀か

---いかなる問題でも、圧倒的多数は意見を持たぬ第三者であり、対立するどちらかが優勢になるのを待って、有利な方に追随しようと思っているだけなのである。---

 偏屈で言うのではない。マスコミによる今時の「森降ろし」への違和があまり聞こえて来ないが、どうしたことなのだろうか。日本人は、この「異常事態」に一片の訝(いぶか)しさや怪しさを感じないのだろうか。それではということで筆者が一筆申し上げたい。

 他国のことはいさ知らず、わが日本国は「衆愚政治」時代に突入したようだ。確かに森喜朗という人物はつまらない俗物であり、そもそも首相なぞにすべき人間ではないだろう。しかし、だからと言って、今時のような「森降ろし」がまかり通ってもよいということにはならない。これではあたかも、通行する車がいない交差点で信号無視をすることを許すようなものであり、目的が正しければ手段はどうでもよろしいではないかと言うことに等しい。

 一連の「森バッシング」は、いわゆるイジメとしか言いようがない。衆を頼み、イチャモンをつけているのである(世のイジメと同じように、森首相の額にはイジメられる「しるし」が確かに見えるが)。「神の国」発言に始まり、加藤紘一の乱を経て、米原潜によるえひめ丸衝突沈没事故対応まで、確かに本人には非がある。しかし、一方で言われるように「失政」と断定できるような筋合いのものでもない。

 存在自体が「失政」と言えばそれまでだが、これまでの首相がそう言われなかったのは、テレビの前での「国民」へのポーズが森首相より少しばかり迎合的であったことに因るにすぎない。もちろん「国民」を勝手に「代表」して、その謝罪ぶりが十分なものかどうかを評定するのはマスコミである。

 今回のようなことを「マスコミ辞令」と言う。すなわち、マスコミが無資格・無法にも「首相よ、辞めなさい」と私製「辞令」を突き付け、さらに「首相は辞めると言った」と喧伝しているのである。イジメの「正当性」は何と、いい加減なアンケートの「支持率」数値によるものである。「支持率」が本当に「国民投票」であるなら、なぜ選挙で政権交替が起こらないのか。この単純明快な反証に耐え得るマスコミは、たった一つもない。

 簡単なからくりである。ふだん投票に行きもしない「政治不信派」が多数「不支持」を表明しているのだ。つまり、気まぐれ、そのときの空気で「意見」表明している無責任者が多数を占める「不支持」にすぎない。それは責任をもった「意見」では決してない。逆に今の世相で、敢えて問われて「森支持」と答える輩の顔をとくと拝見したいぐらいである。そういう「虚数」をもって、日本政治の自律性をずたずたにして溜飲を下げているのが「マスコミ」と呼ばれる「神」気取りの特権者どもである。

(筆者は「支持」か「不支持」かの妥当性を云々しているのではない。プロセス、それこそマスコミがよく言う「民主主義のルール」について問うているのである。)

 衆議院での内閣不信任案否決を承けて、森首相が任期切れ前の総裁選前倒し構想を発表した。これをマスコミは「事実上の退陣表明」だと言い、書き立てる。それに対して「いやそうではない」と、首相本人や自民党は言う。さらに、これをマスコミは「分からない」「分かりにくい」と言う。しかし、マスコミの方々はその意味をよく理解できるからこそ、本人たちがホンネとして明言しないタテマエを解釈できているのではないか。

 そしてそれを「国民」は理解できていないのだろうか。もしそうマスコミが考えているのなら「国民」を明らかに愚弄しているのであり、もしも「国民」が「分からない」ことが事実ならそういう愚昧な輩が「国民」の名を騙って先の「支持率」アンケートに答えたこと、つまりはその虚妄性を証左することになるであろう。

 マスコミは「学生自治会」である。ほとんどその活動に見向きもせず興味も示さない学生を「国民」と読み替え、自治会費を自らのものにするだけのために、自らもそれを構成する「日本」大学を徹底批判するポーズを連呼し続ける単なる寄生虫である。これがのさばることを許すこと、つまり「その通り!」と思うことが「衆愚政治」というものである。衆愚政治へと導く「ニュース」なぞ、ニュースではない。

 インターネット投票で首相を直接選ぼうという全く馬鹿げたことを言う輩がいる。首相の「直接選出」、つまり「国民投票」しようと言うことなのだが、これが「民主主義」であるらしい。それならば、私ははっきりと「民主主義反対!」と言いたい。「民主主義」とは人気投票ではないはずだ。「国民」は万能だとの陳腐な信仰がここにはある。

 反時代的に宣言しよう。「国民」なぞいない。そんな平均化された人々が「国民」ではない。存在するのは「マスコミ」と「参加者」と「不参加者」だ。ほとんどの「世論」は、マスコミの誘導尋問による「不参加者」を出汁にした「ニュース」という名の一夜漬け、即席の「消費」である(3分間経ったら、その内容はもう忘れてしまっているような「ニュース」である)。

 民主主義とは目的だろうか、それとも手段だろうか。明らかに手段でなければならない。ところが、現今の「民主主義」論とはこれを自己目的化しようとするものである。首相直接選出論なぞはその最たるものである。「超」日本的な活躍を続ける企業のリーダーたち、例えばソニーやトヨタの社長はどう選ばれたのだろうか。「民主主義」は何らリーダーシップを保証するものではない。むしろ逆であろう。

 かつて、文明文化の最先端時空間であった「学校」は、今や最も現実社会から遅延した時空間となってしまった(家庭生活での文化レベルから最も遠い!)。それと同じことが政治の世界でも起こっている。政治は企業に学ぶべきであろう。無論、政治と企業は違う。だが、「経営」という観点では同一の組織活動である。そういう観点から森首相を見てこそ、その不適格性もよく見通せるのだ。

 いまのマスコミのやり方では「衆愚」を生み続けてしまう。マスコミは手段を選ぶべきである。それこそが良識というものであり、真に国民教育を行なう木鐸と成り得る唯一の道である。「国民」を作り育てるのも、また政治である。そしてそういう政治とは決して「政治家」だけが行なうものではないのである。
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