吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■ニッポン「低能礼賛論」を批判する■
時代が「易しさ」を求めている。「君の話は難しい」。「この本は難しい」。これらは、聞き手や読者に言いたいことがうまく伝わらず平易に説く努力が足りない、という意味でいま普通に用いられている。しかし十数年前までは逆であった。聞き手や読者の理解力の方が足りない、という意味で使われた言葉である。いまや「難しい」は表現に対するマイナス評価の言葉であるどころか、時には相手に文句を言うときの正当な論拠とされ、またそれが当然の如く受け容れられている。この逆転は何なのだろうか。
大変失礼ながら、筆者には「低能礼賛論」にしか見えない。おのれの愚かさを「忘れ」(棚に上げているのではない!)、あろうことか相手の「無能力」のせいにしているのだ。もちろん理解を拒む表現も中にはある。しかしそれはそれまでのことだし、何も無理矢理すべてを分かる必要はない。にもかかわらず傲慢にも「万人が分からなければならない」と、おのれの「低能」だけを基準にするような議論があまりにも多い。
思えば、かつての「偏差値教育」や「受験戦争」との批判も「低能礼賛論」の最たるものの一つだった。その結果が「落ちこぼれ」救済から「ゆとり教育」だ。難しくて分からなければそれでよいではないか。あるいは、公教育は「低能」基準教育だと明言すればよい。紛らわしい「ゆとり」なぞと言うような言葉は使わないで頂きたい。そしていわゆる学習塾その他にもっと門戸を開放すべきであろう。(蛇足だが、このような水準の公教育用の「歴史教科書」問題なぞ、実効的には存在しようもない。)
さて、「低能礼賛」推進の諸君は、「誰にでも分かる」とか「真実は一つ」とか「ガラス張り」とかいったような言葉が大好きだ。彼らには世界に秘密は存在しないようだ。世界は見えているようにありのままに在るという考えを「素朴実在論」と言うが、まさにこれだ。筆者に言わせれば、これは「ウソがつけない子どもの世界観」である。日本人はどうもこの単純素朴な世界観がお好みのようだ。
世界は、言わば「ウソ」で出来ている。世界は見えているより複雑で、誰にでも分かるというわけにはいかないし、真実は一つではなく多様だし、ガラス張りのように見通すわけにもいかない。重層的で、虚構的である。物理学の喩えで言えば、ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論、さらに量子力学の世界が同居している。数学で言えば、多くの相矛盾する公理系はそれぞれ独立で成立している。
「難しい」ことを述べただろうか。「日本」や「日本人」はフィクションである。「アメリカ合衆国」や「中国」もフィクションである。「国民」や「国家」がフィクションなのである。「フィクション」とは「ウソ」ではない。一つの公理系での「在り方」である。「日本」や「日本人」を拒むことは、その公理系から外れることを意味する。では、別の公理系があるのか。ないのである。国連も、同公理系内での一フィクションである。絶対に他者に発見されない所に居続けない限り、いまや「無国籍」人は地球上に存在し得ない。
私たちはどうしても「日本人」なのである。筆者は到達点ではなく、出発点を示したいのだ。「日本」というフィクションを再構築する出発点を示しているのである。このフィクションを「低能礼賛」論者は「素朴実在論」という脳天気な「リアリズム」で粉砕を試み、はしゃいでいる。児戯である。例えば、国旗掲揚・国歌斉唱の拒否である。これは、あの信号機は故障していると身勝手に宣言し、交通安全のためだと信号機を壊すようなものである。文句があれば、プロセスを踏み、再構築すべきなのだ。ただし繰り返しておくが、「無国籍」というフィクションは存在しない。さらに付言しておけば、モラルやマナーそれに意見などと、ルールとは次元を異にする。
「低能礼賛」論者の「税金」問題についても述べておきたい。「減税」を説く急先鋒は言うまでもなく、「国民の味方」を僭称する「マスコミ」と「野党」であるが、彼らの考え(?)の根底には、目に見えない「国家」というフィクションを否定したいという「素朴実在論」がある(彼らが多用する「市民」とは「国民」に替えたいフィクションのようであるが、単なる「虚構」に留まっている)。
ここで面白い話を紹介しよう。明治時代、自由民権運動の広汎な広がりを背景にして、国会に先立って初めて開設された地方議会(「民会」というが)で何が議論されていたか。他でもない、租税軽減問題である。府県庁(知事)側と選出議員側とで溝を埋めることができない堂々巡りの議論がなされていた。そしてこれは十年後の国会の場にそのまま持ち込まれた。
「自由民権運動」とは何だったのだろうか。安易な断定は慎みたいが、この租税軽減問題に限っては「低能礼賛論」と「素朴実在論」の走りと言わざるを得ないだろう。それはいまの「民主主義」運動に確かに引き継がれている。
(念のために断わっておくが筆者は「増税」が宜しいとか、政府案に逆らうななぞと言いたいのではない。「税金」というものをどのようなフィクションとして捉えるかということ自体を述べている。この前提認識をもった議論かそうではないかを問うている。)
「素朴実在」論者は、税金を旧来の「年貢」と見なしているのである。ここには「国民国家」の成立というフィクションがきれいに読み飛ばされている。江戸時代の「民衆」と明治時代の「国民」が同一視されており、単に支配者が替わってこれに文句が言えるようなったことが「自由民権」だと思われている。対する政府側を含めて時代的「限界」は承知している。では、それから100年以上経ったいまの「民主主義」はどうか。
日本人は、残念ながら「ウソがつけない子ども」のままである。なぜか。世界は見えているようにありのままに在るという「素朴実在論」を一歩も超えることができていなからだ。克服への努力はなされているか。否。それどころか、いま進行しているのは「易しさ」を求める「低能礼賛論」である。もっと「馬鹿」を増やそうという愚行である。
「分かりやすい」話に智慧はない。子どもは素直で可愛いかも知れないが、大人ではない。大人は賢くなければならない。智慧は努力して獲得するものである。私たちは「難しい」話を理解する努力をしなければならない。ウソ、いやフィクションを理解し活用できない「大人」に社会理論や政策を語る資格はない。筆者が警鐘を鳴らす「衆愚政治」とは、このような努力を拒否する者どもへ「日本」を引き渡そうとすることである。
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