吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■環境保護運動とは人間の人間による人間のための茶番である■
(タイトルが刺激的で、予断を引き起こすことが必定なので、前書き的に一言。筆者は環境保護運動を否定したい訳ではない。そうではなくて、その論理の欺瞞性を自覚すべきだと言いたいだけだ。その上において、筆者は人間の人間による人間のための環境保護運動を自覚的に推進すべきだと考える。)
環境問題について少し論じてみたい。実は「吉外井戸のある村」をメルマガ化する以前に、「地球にやさしい」という言葉に噛みついたことがある。短文であるが、環境保護思想の欺瞞について原理的にはそこでほぼ言い尽くしてある。しかしながら、世は依然、偽善的な言辞しか弄さないし、その解決に向けてはますます袋小路に入り込んでいるように思うので、ここに改めて一筆申し上げる次第である。
まず、問題の射程を見定めよう。一つは自然環境保護である。森内閣から小泉内閣に持ち越されたものの一つに有明海の諫早湾干拓問題がある。例のギロチンと呼ばれる可動堰を開けるや否やともめている事例である。それから、住民投票で反対決議された徳島県の吉野川可動堰問題がある。さらに、ここに長野県の田中知事の「脱ダム宣言」も添えておこう。これらは、いわゆる「地球にやさしい」という思想(?)に支えられている。
もちろん、同時にこれらは単純に自然環境保護だけが問題となっているのではない。必ず利権問題でもあることが通例だ。例えば、諫早湾問題とは、海苔不作などをめぐる、有明海を取り囲む各漁業組合の利権対立問題である。海苔養殖の福岡・佐賀・熊本県と有明海漁連が水門開放を求める一方、当の長崎県と諫早湾内の4漁協が反対を掲げている。両派にとり共に生活利権問題であり、開門派は環境保護運動をしているのではなく、たまたま世の「地球にやさしい」人々(生活利権問題がない人々)の意見と合致しているにすぎない。
さて、こういう合併症によって見えにくくなっているが、諫早湾干拓事業の本来の目的は、是非はともかく農地開拓であった。吉野川の堰や長野県のダムは、治水や用水のための事業である。つまり、いま環境破壊と非難されている事業とは、実は人間生活を保護・拡大するのための施策であるわけだ(無論、政治屋どもの利権主導がなせる業であることは十分承知している。それでもなお、この立論自体は正しからずとも決して間違ったものでもない)。
これに対して「地球にやさしい」思想がめざすのは、自然に対する「無為」であろう。しかしこれは詐術であり詭弁なのである。話が分かりやすいように、ここで動植物保護について述べよう。
ペット動物への虐待が非難される一方で、人間が食用の牛や豚を屠殺し、脳機能解明のために生きた猿の脳を削る動物実験を許したり、他の生物はともあれ稀少のトキやクジラやイルカだけを選別して保護しようとすることは、「差別」ではなくて何であろうか。また、いつしかその地の自生種よりも繁殖してしまい、自生種の存続を脅かすようになった移入種の動植物、例えばセイタカアワダチ草、琵琶湖のブラックバス、和歌山県の混血ザル(ニホンザルとタイワンザルとの混血)を排除することは「無為」ではない。人間の「恣意」でなくて何であろう(この延長線上には「民族の浄化」すら見えてくる)。(注)
(注)移入種を持ち込んだのは「自然」ではなく「人間」の「恣意」でしたことだから人間がもとの状態に戻す、というのは「人間」を地球環境内に棲む一生物種であることからあたかも免れている(これでは「神」である)ような特権化を傲慢にも自らに施した屁理屈(論理)である。善悪の彼岸では、人間も「自然」の一部である。このことからはこうも言える。「善悪」は人間のものであり、人間にとってだけのものであると。
動植物保護を取り上げたのは「誰のための」が見えやすいからだ。言うまでもなく「差別」や「恣意」は、「人間にとって」の「やさしい地球」を守るための選別や排除である。自然環境保護についても実は同様なのである。「あそこだけは守ろう」とか「そこまではしなくてもよい」とか、人間が勝手に地域などを限定的に選別して「自然保護」しようとすることであって、決して自然そのものを守ろうとすることではないのである。
だから、これは言わば、自然を微温的に破壊しようじゃないかということなのである。もし全く自然破壊を行なわないのなら、自然に対して人間生活をすべて犠牲にしましょうということになるはずだ。例えば、たとえ台風や大雨の度に、河川から大水があふれ、家屋が流され道路が断ち切られてもケセラセラと笑いましょうということだ。もし本当にそうなら、大した思想ではあるが。
そこまでは言っていないと、たちまち反論が来よう。しかし、いくら知恵を絞ってもどこまで行っても「自然対人間生活」であり、結局はどう自然破壊を穏便に済ますかという問題にすぎない。つまり、絶対的に人間は人間生活のために自然(動植物を含めて)を破壊し続けなければならないということだ。要は程度問題であり、「地球にやさしい」思想も環境破壊思想の一つなのである。ただ自己欺瞞のオブラートで包まれ、錯覚を起こしているにすぎない。
話を進める前に、もう一つ重要なこと、エネルギー問題を俎上に上げておきたい。ご存知の通りだが、度々の事故を重ねる原子力発電に対する反発が強まっている。新潟県刈羽村では、柏崎刈羽原発におけるプルサーマル(プルトニウムのリサイクル)計画の是非をめぐって、ついに住民投票が行なわれ、否決された。もっともなことである。「安全かつクリーン」を唱う、その原型炉「もんじゅ」では冷却材(ナトリウム)漏れの事故が起こり、しかも愚かしいことにそのことが隠蔽されようとしていたし、そもそも原発の建設から維持運営までの様々なコストも決してお安いものではない。
しかしである。私たちには電力が必要不可欠なのである。いま「京都議定書」が話題にもなっているが、火力発電は大気を汚染するエネルギーである。水力発電は自然破壊が必至である。太陽や風力などの自然発電はまだまだ代替エネルギーと呼べるような代物ではない。私たちはどうすればよいのだろう。安穏に「生活を変えなければならない」と宣(のたま)う御仁もいるが、到底できるわけがないだろう。ハムレットである。
そう、ハムレットである。生きるべきか、死ぬべきか。人間は生存すべきか、死滅すべきか。環境問題の自己欺瞞性は前者を前提にすることから生じている(人間はまるで地球よりも長生きするような気でいる)。環境問題が、実は人間の人間による人間のための地球資源問題である所以(ゆえん)である。そろそろ気づいた方がよいだろう。人間もいつしか死滅するものだということに。私たちの真の問題はどう死んでいくかである。結局、環境問題とは、神ではない人間の滅び方の問題なのである。
人間もその中に一生物種として棲む地球環境は、閉じたシステムである。従って、環境問題のいかなる解答も有限的なものでしかない。それは人間にとって円環的で自縄自縛的な解答であり、そして地球にとっての「やさしい」解答ではなく、死滅していく人間の人間による人間のための「地球環境をどのように穏便に破壊するか」あるいは「地球という資源をいかに使い捨てるか」という戦略なのである。
(追記)
南北問題を忘れているわけではない。言うまでもなく、ハムレットとは「先進国」で豊かに暮らす私たちのことである。人類の滅亡を視野に収めた環境論を初めて説いたのは下記の小林和之氏である。なお、本稿での抽象論に不満足の方は、是非とも氏の論をご覧頂きたい。
[主なネタ本]
(参考)
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved