吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■アメリカの「正義の戦争」は誰に対する誰のための戦争か■
まず初めに一言述べておきたい。戦争は個人同士のケンカとは違う。しかし、案外「平和主義者」にはこれが分からない人が多い。怒りに任せた近代戦争なぞあり得ない。すべて損得づくで行われるのが戦争である。クラウゼウィッツ流に言うならば、戦争は外交の一手段であるが、これでもまだ甘い。近代、いや現代における戦争とはビジネスである。それは、言わば、どさくさ紛れに碁やチェスのゲーム盤の並び目自体を変えてしまうような、利権の布置自体を変えてしまおうという博打である。ペテン麻雀士が自分に都合のよいように牌をかき混ぜるようなものなのである。
▼小栗康平監督ともう一つの「映画」
小栗康平という日本が誇るべき映画監督がいる。寡作の人でこれまでに4本の作品しかない。『泥の河』(81年)、『伽耶子のために』(84年)、『死の棘』(90年)、『眠る男』(96年)ですべてである。特に最後の『眠る男』は慎重にある意図をもって作られた作品であることを、ご本人の講演を通して聞く機会を数年前にもった。誤解したり記憶が定かではないところも多いが、いま改めて彼の言葉が私の脳裏に甦るのである(皆さんにはウェブで見つけた正確な講演録をご紹介しておく)。
以下、小栗氏の言葉そのものではなく、私の言葉であることをご承知おき願いたい。映画には、近景法(クローズアップ)と遠景法(ロングショット)という「文体」があるように思われる。最近の米映画はクローズアップで出来ている。例えば、『ターミネーター』などアーノルド・シュワルツェネッガー主演作品や『アルマゲドン』などブルース・ウィリス主演作品を思い浮かべればよいだろう。要するにマンガの手法なのである。その場面ごと、観客が見るべき「部分」を大写しにしてくれるのだ。
これに対して小栗氏はロングショットという「文体」で『眠る男』を撮った。その中心には、庭に面した畳の間に敷かれた蒲団の中で「眠る男」が横たわっているのだが、ハリウッド映画の主役のように派手に動きもしゃべりもしない。すでに意識不明で死に向かって、文字通り、ただ眠るだけである。遠景法で大画面を見せられると、観客はどこをどう見つめるべきか迷う。開け放たれたその和室はある旧家にあり、その周りは田舎町の家屋や田畑が取り囲んでいる。そのスクリーンには、関係がないような人々の生活も映し出されている。
おまけにこの映画にはドラマ(急展開)がないのである。筋や起伏はもちろんあるのだが、見慣れたハリウッド映画のような意表を突く事件は何も起こらない。そしてそのまま終わってしまうのだ。もちろん、映画の好みの問題を云々したいわけではない。時空間(世界)あるいは出来事の見方について、いま私たちは問われているのである。他でもない。「9・11テロ」すなわち米国で起きた同時多発テロの際の、WTC(世界貿易センター)ビルへ突っ込む旅客機を撮影したテレビ映像について言っているのである。
▼映画と戦争
その映像に対して「映画のようだ」とのうめき声があがったが、このことからも日本人にとっても「ハリウッド映画」こそがスタンダードな「映画」となっていることが分かる。その映画とは非日常な刺激と変化を観客に与えようとしているように思える。たいていのテーマは恋愛と暴力である。ハリウッド映画は至極当然のことながら、アメリカの文化・価値・宗教観から出来ている。そしてそれを一定の時空間に切り抜き、クローズアップという「文体」で拡大・強調して見せてくれているのである。
数年前のヒット作である『インデペンデンス・デイ』などを思い浮かべると、今回の「世界戦争」はすでに米国民の観念の中では準備済みであり、同作品を観た日本人を含めたアメリカ文化を享受している先進諸国の人々にはあの映像は「デジャ・ビュ」であったことが分かるだろう。さらに(今回は米国内での出来事だが)「世界的危難」発生に対して、米国民や米大統領はどうすべきかさえもシュミレーション済みだったのであり、事実その通りに現実のストーリーも展開している。
映画では「地球人(人類)」対「異星人(エイリアン)」の戦いであるが、これは容易に「自世界」対「異(他)世界」の戦いに変換できる。初め「限りなき正義」(infinite justice)と名付けられ、後で「不朽の自由」(enduring freedom)と変更された米作戦名の通り、これが「正義」や「自由」のための戦争だとすると、対しているのは「悪」(不正)や「抑圧」(悪政)だということになる。しかしながら善悪は、立場や価値観によってしばしば異なるものになることは皆さんもよくご承知であろう。
▼テレビニュースの「文体」
日本人は人間論から戦争はしない。同じ人間であることを認めた上で「止むに止まれず」始められる。しかし、一神教の国々では違う。十字軍(「善なる軍」の代名詞として用いられるが歴史的事実は侵略軍に他ならない)としてイスラム教徒と戦い、その後もヨーロッパ内でキリスト教内の宗派同士で宗教戦争を繰り広げてきた根拠は、善悪の人間論であった。しかもその論理は「正統キリスト教徒=人間」対「異教(宗)徒=非人間」であった。つまり、「敵」とは「味方」も無前提に立つ共通の土台であるはずの人間性を持ち得ない「悪魔=エイリアン」だったのである。
あの数秒間のクローズアップされた激突映像は、そういう「敵・味方」論を拡大・強調している。アップにするということは、ロングでは見えていた何事かを見えなくし隠してしまうということなのだ。時空間をうんと退いて、1991年の湾岸戦争以降アメリカがリードしてきた世界を、特に中東世界を視野に入れて、ご親切にもハリウッド映画みたいにテレビニュースが「ここを見ろ」と選択してこなかった、遠景となっているスクリーンのそこここに映っていたはずの何ものかを少し想像してみて頂きたい。
ハリウッド映画の悪弊は多義的世界の一義化である。そしてテレビニュースは同様の「文体」でもってそんな映像や情報を、しかも現実世界の「真実」として、私たちの目と耳に脳髄に精神にまき散らしているのだ。これはテレビ局の問題ではない。あまりにも短絡的に世界を理解しようという、あるいは出来ると思い込んでいる浅はかな「観客」たる私たちの問題である。もしこう言ってもこのことに気づけないなら、すでに世界の一義的解釈の「洗脳」が貴方には相当に進行していると自己診断してよい。
▼新たな「悪役」オサマ・ビン・ラディン
「9・11テロ」までは、「アフガン」と来ればランボー(これも米映画だ)だったのだが、いまはオサマ・ビン・ラディンであろう。シテのブッシュ米大統領から名誉あるワキの「悪役」として指名されたビン・ラディンは、これまで十年間ほど、同様の役を務めてきたイラクのフセインに完全に取って代わったのだろうか。おそらく、「原理主義」とかいう理屈があることがなかなか良いのであろう。ビン・ラディンが米ABCニュースから受けた1998年のインタビューでの発言をご紹介しよう。
American history does not distinguish between civilians and military, and not even women and children. They are the ones who used the bombs against Nagasaki. Can these bombs distinguish between infants and military?(アメリカ人がやってきたことは軍隊と民間人とを区別するどころか、女性や子どもに対してでさえ同じでした。彼らは長崎に対して原子爆弾を落とした連中です。原子爆弾が子どもたちと軍隊を見分けながら炸裂することができるでしょうか。)
これは、同年2月にイスラム過激派を糾合し「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成してアメリカに対して宣戦布告した後、5月に行われたインタビューである。この後、8月にはケニアとタンザニアのアメリカ大使館に同時爆破テロを敢行している。ここに述べられていることは私たち日本人にとっても重要なことだ。何度も言われてきたことだが、原爆は非キリスト教徒であるアジア人にだけ実際に投下されたのである。日本人が原爆実験の「エイリアン」として選ばれたことは間違いない。
▼「原理主義」宗教国家アメリカ
私は無差別テロや報復合戦を肯定するつもりで述べているわけではない。ビン・ラディンらイスラム過激派がそうである以上に、まずアメリカが「原理主義」的であることを指摘したいだけである。アメリカとは隠れもなき宗教国家である。通貨に書き込まれた "In God We Trust." やキリスト教牧師のもとでの大統領就任宣誓は言うまでもなく、今回のテロでも「国立大聖堂」と呼ばれるキリスト教英国教会派の教会で、一神教のユダヤ教とイスラム教の指導者を招いてだが、国家追悼宗教行事が行なわれている。
ところで、「9・11テロ」の3日前、日米講和・安保条約締結五十周年記念式典なるものがサンフランシスコで開催されていたことをご存知であろうか。田中真紀子外相とパウエル米国務長官も出席し、パウエル長官は「重要な同盟関係」であることを強調していた。ところが、事件翌日のパウエル長官は米国への支援や励ましを寄せた国々を挙げた際、ついに "Japan" とは言わなかった。アメリカにとって、世界とはまずユダヤ-キリスト教圏であり、あとはプレゼンス次第なのである(中国やエジプトの名は挙げられた)。
本来普遍的であるべき人間についての、米国のこういう遠近法的世界観は、アフガンのタリバーン政権がバーミヤン大仏を破壊したときと今回のWTCビルテロの際の非難との違いにも顕著である。自国内かつ死傷者付きだから違うのは当然なのだが、仏教遺跡だったということが決定的な差であったことは間違いないだろう。もしキリスト教系の遺跡であったら、ことはそう簡単なことではなかっただろうことは容易に想像がつく。これは一神教のキリスト教論理での「聖戦」(イスラム教徒にとっては「ジハード」)なのである。
▼戦争を望むアメリカの構造
「第二のパールハーバー」という表現がある。それはそうかも知れない。なぜなら、第一に「卑怯な奇襲」であることを米国民に訴え、世界戦争に引き込もうとしているのだから。第二に相手にそうさせるだけの状況を自らが作りだしていたのであり、そんな時も来るかとある程度の事前察知もしていたはずだから。確かにテロは犯罪だが、その背景状況をスクリーンには映さずに、あの「9・11テロ」だけをアップ映像として繰り返し見させる手法は、全く「第一のパールハーバー」と同様の手口である。
それにしても「世界戦争」とは何事だろうか。アメリカはそんなに戦争をしたいのだろうか。ずばり、そうである。冷戦終結後、欧米軍需産業は構造不況業種となってしまった。その後、ユーゴ内戦があったが、もはや下火である。アメリカの景気後退もある。環境問題(京都議定書)やMD構想などでは、米主導の「新世界秩序」建設にイチャモンがついている。それに、配備ミサイルの大量消費(そして新たな発注)と新兵器の実戦での実験(原爆のときも同じ)も、新大統領の言わば一任務である。
ここらで一気に諸利権の布置を変える博打を打つ仕掛け時なのである。自らの大統領選出時のもやもやも晴れ、支持率も上がるだろう。もちろん、このようなブッシュ個人の頭の中の思いつきだけで戦争が始まるわけではない。アメリカという国家・軍隊・産業・閣僚(=産業界トップかその代理人の交替制)など全体がそういうふうに出来ているのである。大統領の正体とは米一般国民の代表者ではなく、米大産業(「多国籍」企業も含む)の世界における利害の代弁者であり調整者なのである。
民間旅客機を乗っ取ってのWTCビルやペンタゴン破壊自体は予測がつかなかったかも知れない。しかし、その「犯人」はあらかじめ決められていたと言ってよいだろう。イスラム過激派であり、主犯はビン・ラディンである。そして彼をかくまっていると言われるアフガニスタンのタリバーンこそがターゲットとなるだろう。ビン・ラディンらの隠れ家や秘密施設を破壊するとの名目で、各地に爆撃などが加えられるだろう。戦争の目的の一つはミサイルの大量消費にあるのだから。
戦争は「勝てば官軍」である。敗者の史観なぞに誰も目もくれない。米国への世界各国からの早々とした支持表明は、この戦争ゲームへの「勝ち馬投票」であり、その「戦後」利権布置(政治・経済的に少しでも有利な立場に立つこと)が目的である。その国民の意思はともあれ、パキスタン政府の協力表明が何より雄弁にそのことを物語っている。そしてその見返りにアメリカから早くも経済制裁の解除を引き出している。しかしその「勝敗」判定は誰がどうやって下すのだろうか。
▼アメリカが育んだ中東問題と「アメリカのための戦争」
そもそも中東問題とは、アメリカ問題である。1953年、アメリカはイランでCIA工作による親米クーデター(石油利権が目的)を起こしパーレビ王政を回復した。国王はその後、脱イスラム化を進める白色革命に着手する。79年、ホメイニらによる反王制・反米・イスラム復古革命が成功し、首都テヘランで元国王の引き渡しを要求して米大使館占拠人質事件が発生する。ちょうどその頃、アフガンにはソ連軍が侵攻していた。ここでアメリカは対イラン・アフガンの二正面に対応しなければならならなくなる。
翌80年、フセインのイラクが国境問題でイランに戦争を仕掛ける。アメリカはフセインを支援する。88年の停戦まで約十年間の「投資」は見事に開化し、90年フセインはクウェートへ侵攻し問題を引き起こしてくれる。一方のアフガンでは反ソのムジャヒディン各派をアメリカは支援する。そういう中に若きビン・ラディンもいたのだ。89年、ソ連軍はついに撤退する。その後、ゲリラ各派による内戦となるが、ビン・ラディンはタリバーンを支援していた。タリバーンは急成長し、96年に首都カブールを制圧、98年にはほぼ全土を支配した。
中東問題とは、もちろんイスラエル問題でもありアラブ・イスラムにとってのパレスチナ問題である。上に述べた事柄の背景にはそれがある。アメリカは終始イスラエルを支援する一方、イスラエルを牽制して周辺各国との和平調停も進めていた。その努力は、78年エジプトと和平合意、93年PLOによる暫定自治合意、94年ヨルダンとの平和条約締結などに結実した。だが、91年の湾岸戦争はサウジに米軍駐留を許すことになり、クリントンに替わったブッシュはイスラエルの恣意を抑制しなくなったのだ。
そうしてタリバーンのアフガン支配がほぼ完了した98年、前述したが、ビン・ラディンは「国際イスラム戦線」を作り、反アメリカ戦争に乗り出したのだ。するとアメリカは、タリバーンと敵対するイランへの経済制裁を一部解除している。要するにアメリカという国は、国益布置の状況が悪化すると、それに対抗する勢力を見境なく支援してそのバランスを回復し、その後に言わば自ら育てた「犬」に噛み付かれ、それすら次の国益再布置のための戦争に活用して、無限回転していく化け物なのである。
その名を「国際資本主義」と言う。もう一度、言おう。イラクのサダム・フセインは誰が育てたのか。国際「テロリスト」オサマ・ビン・ラディンとは誰が育てたのか。アメリカの「悪役」は他にもいる。リビアのカダフィ、北朝鮮の金正日なぞもそうだ。「テロ国家」との命名は、「アメリカのための戦争」の餌食候補国となったということだ。アメリカは定期的な戦争を求めている。今回の「世界戦争」宣言とは、世界「同時多発」も辞さない長期的な「アメリカのための戦争」を布告し、それを続ける根拠を担保するためのものなのである。
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