吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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これは21世紀「新世界秩序」建設のための米国の戦争である---「衰退する日本」付き

▼「21世紀」は1990年代に始まっていた

 「9・11テロ」から「世界」が変わった、と言われる。この「世界」とは何か。国際情勢の捉え方や国家戦略のあり方、あるいは世界観ということであろう。そしてそれは「21世紀」なるものの出現を意味するのだろう。であればしかし、この言は間違いである。「21世紀」的世界は2001年に始まったわけではなく、実際は1990年代に始まっていたのだから。その「21世紀」的世界とは、すなわちポスト冷戦の「新世界秩序」ならぬ「無秩序」に他ならない。

 冷戦構造、つまり20世紀後半の世界秩序は、わが国のバブル経済とほぼ同時的に弾け飛んだ。対抗軸を失ったそれからは、インターネットやハリウッド映画、そして「多国籍軍」に代表される、実は「アメリカン・スタンダード」(アメリカの標準)や「アメリカン・グローバリゼーション」(アメリカの世界化)である「アメリカン・デファクト・グローバリゼーション」(アメリカによる事実上の世界化)が、旧「東西世界」全体をリードする時代である(「南北」と言われるときの「南」世界は取り残されている)。

 91年の湾岸戦争の際、「日本は敗北した」とさえ言われたが、これは日本が棲む20世紀を「21世紀」が追い越していったということなのである。「世界」とわが国との認識ギャップは、わが国がそういう「21世紀」の到来を意識できていなかったということを如実に示すものであった。それからの日本は「不況」の一言ですべてを了解しようとしているが、それは見当違いというものだ。しかも、今もなおそうなのである。日本の衰退はここに始まっている。

▼「新世界秩序」へと進む世界

 「9・11テロ」以来、日本の新聞紙面およびインターネットのニュース・サイトやテレビニュース番組のトップは、米軍のアフガン攻撃や反米バイオテロ騒動、あるいはそれらへの米大統領の演説や政府高官たちのコメントなど、いわゆる「国際記事」がいつもその座を占め続けている。あのWTCビル攻撃・崩落映像以来、米社会内での事象が見事に「日本のニュース」と化している。米国ニュースがグローバル化している。これこそが「新世界秩序=米的グローバル世界=当面の21世紀」である。

 ところで、危機はいつも「内部」の団結を喚起し、それへの正当性を付与する。米国内では、テロに備えて治安体制が強化され、戦争の大義でもある「自由」よりも「安全」が優先されている。自由と民主主義の国・アメリカは、あたかも「警察国家」あるいは「全体主義国家」に変貌しつつあるように見える。事実、様々な検閲の強化や自由の制限が行われ、アフガン攻撃への反対意見表明さえもいまや全体主義的な封殺にあう始末である(国民が自主的に圧殺しようとしている)。

 国際的にも「協力体制の強化」という名目で、同様のことになっている。米国への攻撃が世界中の「文明への挑戦」だということにされ、「文明」諸国は "Show the flag." の掛け声のもと、次々に「参戦」を強いられている。これこそが、米国が求める「新世界秩序=米的グローバル世界=21世紀」でなくて何であろう(ブッシュ大統領の「文明」発言は、傲慢にもアメリカ的価値こそがその「文明」の「中華」であることの表明である)。

▼マハティール氏の「新世界秩序」への警戒感

 10月8日(現地7日)、米英軍によるアフガンへの報復爆撃が始まった。「テロリストとそれをかくまうタリバン」への攻撃である。「今度は遅れじ」との日本を含めて、多数の国家がただちに賛意を表明した。これを批判した国家はイラク・イラン・レバノン・マレーシアの4カ国だけであった。かつて「テロリスト国家」と米に認定されたリビアは、何と賛成している。フセインのイラク、「イスラム原理主義国家」イラン、中東問題に地続きに直面するレバノンを除けば、マレーシアの「勇気」に注目せざるを得ない。

 マレーシアを率いるのはマハティール首相である。マハティール氏は早くも1982年に "Look East Policy" という脱「米欧主義」的文明化路線を唱えていた。89年にAPEC(アジア太平洋経済協力閣僚会議)が結成されたときには、米・カナダ・オーストラリアを排除したアジア諸国だけの経済機構を立ち上げようともした。ともあれ、マハティール氏は米国主導の「新世界秩序」には終始警戒している。それがこの反対表明にも表れているのだ。

 名目に騙されてはいけない。私たちは、ほぼ十年置きにアメリカによるテレビゲームのような「自衛」戦争に見入らされてきたのだ。アメリカとは「原理主義」国家に他ならない(その「原理」とは、米欧主義的な価値観やキリスト教など)。それが明瞭に表明されているのがハリウッド映画であるが、聖書・黙示録的な「神に向かう歴史」を歩む「現代のイスラエル」と自認しているのが自身のために "God Bless America."(神よ、アメリカを祝福し給え)と歌うアメリカ合衆国である。

▼「文明」「文明人」とは何か

 「文明に対する挑戦」もそういうアメリカ文明に対するものである、と認識しなければならない。事実、タリバンのバーミヤン大仏破壊を仮にも非難した、国際連合を始め「文明」諸国は、歴とした文明の故地の破壊には無批判どころか賛意を表しているのだ。アフガン地域とは、かのアレキサンダー大王由来の地に建国されたバクトリアや、そこからギリシャ文明とインド・ガンジス文明が融合したガンダーラ美術を生んだ周縁地域であり、その後もシルクロード要衝の地として東西文明交渉に貢献し、数々の遺跡が眠っている地である。

 「誤爆」との言い訳はともかく、「テロリストやタリバン殲滅のため」と称される戦争はアフガンの非戦闘員(一般国民)をも殺戮し続けなければならないことは火を見るより明らかなことである。人の命の重さに、この「文明人」たちは軽重を認めていると言わざるを得ない。おそらく、WTCビルでの死者を上回る人命を奪うことになるのだろう。こうして「文明人」とは、この矛盾、ダブル・スタンダード(二重基準)を顧慮しない「原理主義者」の謂となる。

 米国内での炭疽菌騒動についても一言しておきたい。人間は古来、疫病(伝染病)に悩まされてきた。特に、肉食生活を主体にしてきた欧米社会は、家畜に発する様々な疫病を「文明」社会に送り込んできた。狂牛病もその一つである。未だ原因不明であるエイズも米国で拡散した伝染病である。「文明人」は、異教や異文化・異民族を悪性の疫病に喩えてきた。「黄禍論」にもそういうメタファー(隠喩)の匂いが漂う。この「戦争」に、「異教=非文明」のイスラム(実は「兄弟教」なのであるが)という「疫病」への「文明人」の嫌悪や恐怖の匂いを嗅ぎ取ってしまうのは、筆者だけの過敏であろうか。

▼21世紀、日本は衰退する

 「21世紀」秩序への認識は、日本の運命を左右する。そして残念ながら、すでに事態は手遅れであり、日本は21世紀(少なくとも前半中は)衰退するというのが筆者の偽らざる臨床診断である。「21世紀」前半の「秩序」構造はこうである。それまでの冷戦東西二大陣営下での障壁が消滅し、世界通貨ドルや世界情報網(衛星・テレビやインターネットなどであり、それは同時的にエシュロンでもある)などを掲げ、唯一の「超大国」アメリカが最後の復権を賭けて「新世界秩序」建設をたくらむ時代である。

 実はパックス・アメリカーナ(米国秩序)も、90年代以降、崩壊過程にある。絶対的な権威を失いつつあるからこそ、「相対的」な覇権や実力を行使しなければならない羽目にあるのだ。「絶対者」でなくなった米国はかえって恐ろしい。その認識が、湾岸戦争や今戦争における「世界」の協調姿勢となっている。各国の判断や行動は、冷戦時代のようなソ連あるいは米国に守られた枠内では済まなくなったのだ。もはや米国は、あらかじめ誰も守ってはくれないのだ。

 日本政府と日本人は、賛否は別としても米国による庇護と同国への協調を、冷戦時代もその崩壊以降も同様のものと思っているが、全く変質しているのである。日本は20世紀後半以降、戦争を知らないで過ごすことが出来た稀有の国である。しかしそれは米国に守られた「冷戦構造下での日本の平和」にすぎなかったのである。事実、冷戦下世界中では戦争が休むこと続いていた。この特殊な「戦争体験の無さ」は、決して普遍的なものではない。

▼「20世紀戦後日本型思考」という暗愚

 『日本国憲法』は前時代の米から与えられたものであったかも知れないが、これを「第9条」や「自衛隊」問題でこねくり回して自らを袋小路に追い込んでしまったのは、明白に日本人自身である。私たちは、NHK大河ドラマのような単純な「戦争か平和か」程度の戦争論しか出来なくなってしまった。こうして自ら構築し錬磨してきた「20世紀戦後日本型思考」は、日本国内だけでしか通用しない「世界の非常識」である。

 「20世紀戦後日本型思考」として自ら固着させてしまったのは、別に政治だけのことではない。経済においても同様のことだ。高度成長やバブル経済の再来を夢見(「経済再建」や「不況脱出」などのスローガンを見よ)、永遠に製造立国(優秀なモノづくり)と輸出大国であり続け、「アジアの奇跡」は日本だけだと思い込んできた日本経済神話は、実はWTCビルのように崩壊する寸前にある。例えば、20年間続いてきた貿易黒字国は、数年の内に貿易赤字国に転落する。

 高度成長する中国は、もとより政治・軍事大国である。米国と手を結んで自ら20世紀から21世紀へと橋渡しをした中国は、まさに「21世紀」的な社会-資本主義的経済を押し進め、いまやハイテクからローテクまで幅広い分野で「世界の工場」となった。かつて日本は米国の貿易赤字を引き起こしたが、いまは中国が日本の貿易赤字を引き起こしつつある。まもなく中国は経済においてもアジアに君臨する大国となり、ちっぽけな日本を見下ろすようになることは間違いない。

 そのとき、わが日本は果たしていかなる状況にあるだろうか。おそらく、一部企業や分野を除き、全体としては低迷を続けていることだろう。政治的にも、米国主導のグローバリゼーションの波に呑まれたまま、右往左往し続ける木の葉のような存在であろう。要するに、「政治は二流でも経済は一流」の言葉にも逃げられず、「むかしは…」と過去の栄光ばかりをつぶやく、何一つ誇りを持てない「先進諸国」中の不甲斐ない国へと成り下がっていくのである。

 隣国の韓国・朝鮮史には李朝という社会停滞時代があったが、その主因は頭脳明晰で優秀な官僚やインテリが犯した世界認識における暗愚にあった。自己中心的で世界の現実が見えず国内でのみ通用する議論(党争)に終始し、迫り来た「近代」についに対応できなかったのだ。もちろん、彼らを生んだのは当時の韓国・朝鮮人そのものだ。同様のことが、現代の日本社会にも言える。国内地平だけで「正義」を争い合う政治家と、それを再生産し続けることしか出来ない日本人がそうである。

▼世界は日本の事実だけを見つめる

 一点だけ、国内議論の「党争」性を指摘しておこう。「自衛隊」の英名は "Japan Self-Defense Forces"(日本自衛軍)である。今日、自衛でない戦争をする国はない。このアフガン戦争すら、米など「文明国」の自衛戦争である。また、言うまでもなく兵器や弾薬の使用だけが軍事行動につながるものではない。補給や支援も立派な軍事行動である。それどころか、永続的な基地提供は最も貢献の大きな軍事行為である。国際的には、日本は軍隊を持ち、冷戦を米軍とともに戦ってきた国なのである。

 政府や「左翼」(「死語」であるが)論者が言うように、日本国憲法が「集団的自衛権」を禁じているのなら、当然、日米安保条約やそれに基づく沖縄その他の米軍基地の存在自体が憲法違反であるが、日本は個別的自衛のために集団的自衛権をすでに行使している。事実として、日本国憲法内で集団的自衛権は発動されているのである。だから、憲法が集団的自衛権を許すかどうかなぞは、国際的には無意味な国内だけのそのためだけの議論なのである。にもかかわらず、こんな「党争」が政治ばかりではなく、経済その他の「構造改革」議論でも繰り返し続けられており、これからも行われ続けるのである。確かにわが日本は衰退すると言わざるを得ないではないか。

(念のために付記しておくが、筆者は米国のアフガン「戦争」は、不当な単なる他国攻撃であると考える。だから、これに参加することが日本の軍事的な自衛行動になるとは思えない。また、集団的自衛権を発動して米軍を出張支援する必要も感じない。確かに政治的には微妙な問題である。日本が進むべき道は、米の絶対的な庇護の下にあると信じ続けている「20世紀戦後日本型思考」から脱却し、マレーシアのような独立自尊の国際戦略を立てたときに開けてくる視野に初めて見えてくるのだろう。)

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