吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY
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■現代日本における宗教--心理・経済および社会〈学〉的一省察■
先日、突然とある方からメールを頂戴した。ある書き物をしたので、私に読んでもらいたいとのことだった。ある新興宗教法人の職員をされていた方で、あるとき教団全体が詐欺行為をしているという嫌疑を受けた。幹部が次々に逮捕され、ついにはこの方(地方支局長クラス)にまで司直の手が伸びたのだ。初めて逮捕・拘留され、釈放されるまで、警察や検察という奇怪なもの(そこでは、犯罪が「製造」されている!)を通して国家システムに直面された貴重な体験を、教団在職時に自ら経験や思考されたことがらも含めて、いかにも素人の方がていねい誠実に書き綴られたものだった。これ以上の説明は省かせて頂くが、筆者はこれを拝読する中で現代日本における宗教についてあれこれ思ったのだ。以下、これを述べてみたい。
(注)以下では、例えば「心理〈学〉」のように「学」を括弧で括っているが、これは厳密に心理学的な考察ではなく、心理学モドキなものであることをお断りするためである。
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(1)心理〈学〉的(あるいは宗教〈学〉的)考察
宗教とは何か。在り来たりの定義では、超越的なもの(神など)への信仰(絶対帰依)を指す。だが、これははなはだ一神教に偏った定義であろう。否、それどころか、根底的に誤った定義であるようにすら思われる。「神学の秘密は人間学である」(神が自身に似せて人間を作ったのではなく、人間が自身に似せて神を作った)と喝破(かっぱ)したのはドイツの唯物論哲学者フォイエルバッハだが、そういうことでもない。宗教の根底とは、自己心理学である。
デンマークの宗教的実存哲学者キルケゴール風に言えば、自己とは精神であり、それは自己の自分自身への関係である。すなわち、自分が何であるかをどう「自己」規定しているかということである。これは意識的、無意識的であることを問わない(もっともニーチェに言わせれば、人間の「意識」的な精神は「無意識」的な身体から出来ているそうだが)。だから、神などの超越的な存在とは宗教の中心にはなく、それはむしろ自己からあえて迂回して自分自身へと立ち戻る関係の媒介としてある。
宗教とは、自己の精神内部の一種の「回路」である、と筆者は考えたことがある。神とはその回路につながれたソケットに差し込まれる電球のようなものではないかと。ただし、自己詐術(さじゅつ)のようであるが、この回路を見ないことがミソなのである。神なり宗教なりがもし自己回路の一部であると知れれば、その人は「自己=自分自身」という当たり前(実は当たり前でもないのだが)の自同律にたちまち舞い戻ってしまうであろう。
大切なことは、自己が自己の外部とつながっていると自己規定することである。こうして、世界との新たな関係(実は自分自身との関係)を築くのである。「神」とは世界や宇宙の摂理であり、自然の法則である。つまり真理である。それと結ばれて生きることは、永遠の安心である。善悪の善を、真偽の真を「神」の導きによって必ず正しく選べることを意味する。たとえ誤っても、自動的に正される。そして、たとえ「神」に疎外されようとも、回路だけは働き続けている。
ここでもう一度フォイエルバッハの言葉を思い出したい。宗教は確かにその時代時代の人間学(人間とは何か)であった。古代の宗教一般では「神」をもっぱら外在的に考えていた。ところが、個人を創出した近代では「神」を人間に超越的かつ内在的な存在と考えるようになった。そして現代においては、一部の宗教は古めかしくややいかめしい雰囲気よりも、むしろ各個人が自由に選択でき現実的な効果を持つ、ある心理的な秘密技法といったイメージすら私たちに与えている。
ベトナム戦争への厭戦ムードが高まるアメリカで、泥沼の中から伸びる一本の蓮のように、進化論的俗流神秘主義である「ニューエイジ運動」が生まれた。それは、東洋神秘思想(禅、タオイズム=道教、チベット・タントラ仏教など)、「宇宙船地球号」や「ガイヤ仮説」(地球全体が一個の生態系=生命体)などの地球環境保護思想、また神秘主義的とも言える物理学(東洋神秘思想と親和性を持った、宇宙から素粒子までの新統一理論=「ひも理論」の提唱など)ほかの複合的結合物であった。
実はこれもまた新たな人間中心主義(ヒューマニズム)のように筆者には思えるのだが、それはさておく。エッセンスとして「人間の精神的な超進化」を唱えるこの考えは、高度消費社会(現代社会の最前線)に突入した1980年代の日本にたちまち雪崩れ込んできた。この潮流の中で次々に産声を上げたのが、いわゆる「新々宗教」である。それらは、もはや宗教の秘密がトランスパーソナルな自己心理学であることをほとん種明かし始めていた。
自己とは自分自身との関係だと言ったが、それは世界と関わる自分との関係であると言い直すことができる。そしてその世界とは第一に他者(自分以外の人間)のことである。つなげて言うと、「他者と関わる自分をどう規定するか」という問題なのである。それは個人それぞれが否が応でも精神を持つ故の、実に人間社会的な問題である(倫理や道徳とはこういう問題である)。その「世界」の変革には二つの方法があり、かつそれしかない。
自己と世界(他者や「神」など)とは相対的、相関的な関係にある。だから、その一つの方法とは世界の方を変えることであり、他のもう一つは自分の方を変えることだ。いずれにしてももし成功すれば、世界は一変するはずだ。ただしお分かりの通り、一個人が世界とりわけ他者を変えるなぞ至難である。そこで手っ取り早く、かつ宗教の本旨にもかなうことだが、自己を変えることになる(ちなみに世界の方を変えようとすることは「革命」と呼ばれている)。
自己を変容させるとはどういうことか。時に「洗脳」や「マインド・コントロール」といった言葉がある。これらはまさに大きな自己変容を言い表す言葉である。何が変わり、また変わり得るのだろうか。ニーチェの言うとおり、人間の精神(理性)は実は身体である。初めは意識的な行動の変容も、ついには無意識的な習慣の変容に至る。つまり、一連の行動を内在化させ、身体化させることが自己の変容だと言える。
しかし、個人個人の「本性」とでも言うべきものは実は変わり様がない。だから起こっていることは、世界に対する主体的態度の変容である。宗教(団体)の秘密はこの変容を安定化させることだ。宗教という別回路を自己の中に接続しないで、こういった自己変容を永続化させることはなかなか難しいことのように思える。というのも、実質的にはほぼ同様な心理的変容を促す機会自体は、いまでは日常的に見出せるからだ。
人生に悩む人たちを対象にした1990年代の「自己改造セミナー」と総称されるトレーニングはその典型だろう。だが、これを特異なものと思われる方は世間知らずである。企業研修では遅くとも1980年代からこの手のものが導入されていた。グループ・ダイナミクス(集団力学)や交流分析(TA:トランザクショナル・アナリシス)理論に基づく研修、センシビリティー・トレーニング(ST:感受性訓練)、また社会問題化した「地獄の特訓」なども、主体的態度の変容をめざすものである。
これらの研修での力点や特徴はそれぞれ違うが、共通点として次のことが言える。「人間は自分が思う通りの人間になる」。ここで「思う」と言っているのは、意識的に「思う」より無意識的に「思う」ことに重点がある。ある研修では「人間は人生シナリオを自作自演している」とも言う。無意識的な習慣にまで内在化・身体化された「思い」が自己を作っているというわけだ。ここで、上に述べた言葉を引用するので、確認していだたきたい。
自己とは精神であり、それは自己の自分自身への関係である。すなわち、自分が何であるかをどう「自己」規定しているかということである。
どうだろうか。オウム真理教(現アレフ)や法の華三法行などの新々宗教では、それぞれの教義にしたがって「宇宙」や「原理」や「超越者」ほかの言葉を用いるなど道具立てや仕掛けは違い、また凝ったものになってはいる。しかし、それらはいわゆる自己実現をめざす、ほぼ同様のトランスパーソナルな自己心理学の「様々なる意匠」と言えないだろうか。要するに現代日本における宗教の本質とは、自己喪失に悩む人々の渇望に応えているユングやマズローの心理学に近しいものなのである。
(2)経済〈学〉的考察
実は章タイトルほど高尚な話ではない。ここで述べたいことは、教団での修行の「価格」という問題についてである。「修行」は各教派の宗教的修練や儀礼であるが、「信者」の自己実現の機会でもあり、また「研修」であるとも言える。ともあれ、これに高額な費用が書き込まれた「値札」がぶら下がっていることに現代宗教の特色の一つがある(注)。このことには私たちの社会がどんなものから出来ているか、同時にそこに棲む私たちがどんな人間であるかも暴露されているようにも思われる。
(注)西欧中世末期には、ローマ・カトリック教会の法王による「免罪符」(=天国への入場予約券)販売というようなこともあったが。
18世紀の古典派経済学の祖アダム・スミスは、もともと道徳学者であった。その段階では人間の社会原理の中心に「共感」(利他心)が据えられていたが、西欧経済学の古典となった『諸国民の富』(国富論)を執筆した段階ではその座が人間の「利己心」に譲られていた。そしてこの書において、各人がそれぞれの「利己心」に従って好き勝手に振る舞う活動が「見えざる手」によって調和するという近代経済的な社会像と利己的な「経済人」という近代的人間像が誕生したのであった。
西欧に生まれそこで育った「経済人」であるが、しだいに世界を席巻し、いまでは「グローバル・スタンダード」な人間像である。とりわけ「政治とは経済である」ということになった現代のわが日本社会ではそうであるように思える。本来、価値とは多様なものなのであるが、すべてを貨幣価値に還元して何ら怪訝(けげん)だとは思わない社会に抗弁は許されないだろう。死によって断ち切られた個人の生、すなわちその後の人生の価値すら、貨幣でもって測らざるを得ない社会なのである。
そうであるのだから、修行のために投げ出さなければならない自己犠牲の大きさ(信仰への決断や跳躍)が、貨幣価値の量(躊躇しなければならないほどの大金)によって試されているのだという教団の主張に間違いはない。いまさらアブラハムのように我が子の命を自分の信仰のために神に差し出すわけにはいかないのだから。しかしながら、筆者には不可解であるのは、各「修行」に「定価」がついていることである。これでは各人の信仰への対価ではなく、「修行」そのものが商品である。
もしそれが各人の信仰のために贖(あがな)うべき対価であるなら、一人ひとりの資産や所得状況に応じて「価格」が決められて然るべきであろうし、必ずしも金銭(貨幣価値)で支払われなければならないものでもないだろう(もし多額な借金までして「修行」する必要があるのならば、その人にはこの世で「金銭」という負債を背負い込まなければならない因縁があったということになるのだろうが。宗教的な「負債」とは、キリスト教の「原罪」が典型であるが、決して金銭的なものではない)。
ここにおいて、本意としては「経済人」とは別次元で各人の信仰の「質」を問うべきはずのものであった「修行」が「定価」という貨幣価値の一定「量」へと等価交換され、修行の宗教性は貶(おとし)められ、修行は近代経済社会すなわち市場における一商品へと変質してしまっている。たとえもしそうであったとしても、各人が納得して一度「購入」した「商品」に、第三者があれこれ口を差し挟むことはないという意見もあろう(クーリング・オフがあるとは聞かないが)。
事実、教団が発行や製造する「お札(ふだ)」や「守り壺」などの物品には値段の付けようがない。その価値を認める人たちだけが、「経済人」として見ればたとえ高価に感じても、「宗教人」としてはそれに見合う対価だと納得してあえて「購入」しているのだから。なるほど、閉鎖系の自己完結的な論理としては矛盾がないように見える。しかし信仰への入退信は自由であり、教団は企業同様、絶えず拡大を志向し布教するのが常である。
こうして「修行」は一般化せざるを得ず、「修行」は「宗教サービス商品」となり、今度はその商品性がその品質が「市場」によって厳しく試され問われることになる。特に現世的な利益を求める動機からその「サービス」を購入した「顧客」は、その費用対効果を我が身をもって検証し価値判断する。「超能力」が身に付いたかどうかとか、「病気」が治癒したかどうかなどである。しかし宗教とは本来的にはそうした効果を保証するものではなかっただろう。
死後の永生や極楽成仏などが典型的であるが、検証できない「約束事」を祈願し精進するのが近代的な宗教の姿である。宗教サービスにとって病気治療なぞは医療サービスではないのだから、その効能の対象外である。ただし、快復すれば、効能に含まれていたと後付けの説明はあるだろう。また、自己と世界は相関関係にあるのだから、信心の質(量ではないはずだ)や「因縁」によって健康や富みや幸福などすべての人生問題は構造化されているとの説明もあるだろう。
こういうあいまいな「保証」や「効能」を商品としているものがないわけではない。例えば、宝くじ(公営富くじ)や競馬など公営ギャンブルがそうである。しかしこれらを誰もインチキ商品(詐欺)だとは非難しない(言うまでもなく、八百長はここでは例外である)。宝くじは当たりの場合の賞金額が決まっているが、ギャンブルの場合はオッズ(賭け率からの配当予想)によって変動すらする。このいかがわしさにはとても叶わないはずの宗教サービス(一部)がなぜ非難されるのだろうか。
そういう意味では、論理的には「宗教的な詐欺」と言われても少しも不思議ではないおみくじや占いはなぜ大きな問題とならないだろうか。たいていの人が本気には信じていないからだろうか。いや、違う。おそらく問題は金額の多寡にある。対価が質から量へと転化した宗教サービスは、市場の中で量的な「評価」(注目もその一つだ)を受けざるを得ないのだ。しだいに膨大となっていく「売上」は、社会的に放置できない大きさへとなっていく。
問題は明らかに二重になっている。次元が異なることがらが交錯している。ここに教団の「売上」や「納税」という角度から、国税局を尖兵とする国家が乗り出してくる。そろそろ次章に譲りたいが、「稼ぎ出した売上」はどこへ消えていったのだろう。実際を知らないのであくまで想像でしか言えないが、多くは建造物につぎ込まれたのではないか。そしてシンボルである教祖とその周辺を荘厳化するための費用に。しかしながら、「あぶく銭」はしょせん身につかないものだ。
(3)社会〈学〉的考察
これまた「社会学」と言うのはおこがましい。「教団と社会」というようなことを述べたいだけだ。オウム真理教の無差別テロ(地下鉄サリン事件など)のごとき反社会的行為は論外だが、そこまではいかなくとも新興教団の社会的バランス感覚のなさ(子どもっぽさ)にはあきれるばかりである。これはその宗教活動を世俗的な儀礼にを貶(おとし)めよと言っているのでは決してない。社会には宗教的な次元ではない世俗的な次元というものが明白にあるが、これをしっかりと是認しなさいということだ。
この多元性を認めない教団は明らかに、自分たちの論理「だけ」が正しいという自己妄信のとりことなっている。筆者の言う「吉外井戸」の水を飲んでいることに気づいかないのだ。しかも、前述のように自らの宗教に「金銭」という世俗を持ち込んでいるのは当の教団自身なのである。これでは宗教上の論理なぞではなく、単に子どもの屁理屈にすぎないだろう。イエスは二千年前にこう言った。「カイザル(ローマ皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と。
新興教団はいわゆるベンチャー企業に似て非なるものだ。ベンチャー企業はたいてい失敗する。しかし少数は初期の成功を、その中でもいくつかの企業は大成功を収める。それらは必ず、画期的な商品と夢に満ちた組織原理を持っている。しかし初期段階での成功に止まる企業はその成功に酔うばかりであり、その先も社会的に存続可能な本当のヴィジョンを持ち得ていない。だからこそ継続できず、その後に破綻するのだ。
ベンチャー企業は当然ながら、世俗的な経済次元の中で成功し、あるいは失敗する。では新興教団の場合はどうなのであろうか。ある程度までは「必要悪」かも知れないが、宗教的な成功と経営的な成功とは無論違うはずだ。にもかかわらず、社会的に問題となる教団はこの二側面がほとんどダブり、ある時期からは後者が前者を上回っていったことが共通である。つまり、宗教活動が言わば「企業」活動(早い話が「銭儲け」)となってしまい、本末転倒となっていったのだ。
あらゆる組織は「法人」という言葉があるように、一つの人格である。どういうことかと言うと、社長などの代表者ばかりではなく組織人一人ひとりが全体意識を持ち、必要に応じて顧客を代表とする社会に対応しなければならない。「それは社長の責任」というのは山一証券破綻の段階ですでにお笑い草だし、明治乳業や明治食品事件の段階では組織人一人ひとりの怠慢と自己批判の欠如であることが露呈している。これらは発生時系列的には後になるが、論理的には教団問題にも共通する。
すなわち、“私は一宗教人であり「経済人」としては中立である”というような言い草は欺瞞(ぎまん)である。また、自らの宗教論理をもってしての世俗的社会への強弁は、宗教という名を笠に着た傲慢にすぎない。神がいてもいなくても、すべては許されていないのが現実社会というものだ。ベンチャー企業的な「夢」の観点から言えば、はなはだ面白くないものが現実社会というものだ。それでもそれを許容するのが「大人」の宗教である。
もしも(!)本気に一元的な宗教論理を「布教」するつもりならば、内乱つまり「革命」を覚悟し遂行しなければならないだろう。1979年、ホメイニ師が主導してイランをイスラム原理主義宗教国家に転じたようにである。そういう意味でオウム真理教は「正しい」方向を志向していたのであろう。しかし言うまでもなく、あまりにもお粗末な革命プランであった。また、それは「宗教国家」というより、単なる政治クーデタを目論んだものだったと言うべきであろう。
結論としては、大金を「集金」できることが「真理」を体現している教団の一結果なのだという自己正当化論理は、宗教論理ではない。「売上」は「単価×数量」という式で表されるが、問題教団はすべてこの「単価」設定に誤りがある。高額なのである。「数量」でこそ「真理」は測られるべきであろう。宗教的情熱とは宗教的情熱以外の何者でもない。金銭的情熱と交錯することは決してないのである。一方で、教団の経営というものはすべからく世俗「論理」でなされてよいし、またそうすべきなのである。そして、そちらの方は当然ながら世俗「倫理」の上でなされなければならないことも言うまでもない。これが、現代社会で二つの次元ともねじれなく存続できる教団の唯一の「平行・並行・平衡」の論理である。
(了)
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