吉外井戸のある村 M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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日本人の試金石としての「タマちゃん」

▼私たちは「タマちゃん」をどうすべきか

 タマちゃんとはもちろん、横浜市西区の帷子(かたびら)川付近に出没し、人々に愛嬌をふりまいていたアゴヒゲアザラシのことである。「タマちゃんのことを想う会」による捕獲・救出騒動[注1]があった後、ひと月近く行方不明になっていたが、先日、埼玉県越谷市の中川で確認された。しかしここで取り上げたいのは、タマちゃんの行方なぞではない。日本人の試金石としての「タマちゃん」である。
 試金石としてというのは、「タマちゃん問題」が、日本人が一匹のある野生動物をどう取り扱うかということにとどまらず、自分たちがその中に生きている自然や環境を日常いかに理解していて、そこに起きた事案にどう対処していくのかという日本人の生活世界への思考や覚悟をさえ、図らずも語っているように思われるからだ(拡張して考えれば、北朝鮮問題も一種の「タマちゃん問題」として解釈することもできるだろう)。

▼「タマちゃん問題」への4つの意見

 タマちゃん問題への急先鋒の人々は、「故郷」と思われる「北極圏」へ帰してやるべきだと言う。タマちゃんと呼ばれるアザラシは、餌の魚を追っているうちに仲間の群れとはぐれてしまい、はるか南方の日本の河川に迷い込んでしまった。そして、タマちゃんは故郷に戻りたいのだが、東京湾深くに入り込んでしまったので、帰り道も分かりようもなく困っている――そんなアザラシを助けるのは日本人の義務であり責任だと主張する。

 これに対して日本人の多数派と見られる意見は、ただ見守ろうと言う。この「無為無策」も一つの生き方だ。日本人は古来外来者が来ても、台風のようにやがて通り過ぎるのを待っていた(時には神として崇め祭りもしたが[注2])。こういう「無為自然」観を「故郷送還」派は、欧米人が「人為自然」観のもと動物愛護や環境保護のために活発な行動をしていることを引き合いに出しながら、日本人の怠慢として糾弾して止まない[注3]
 そして両意見の中間に、微温的な保護派とでも言うべき二意見がある。都心の汚染された川から水のきれいな川へ移送すべきだという意見と、動物園などに移して一時保護すべきだというものだ。しかし残念ながらこの二意見は最終解決には無責任だ。目の前の難題を自分が見えないところへ移し、他の誰かに責任を転嫁しているだけだ。別の川や動物園に移すだけでは、タマちゃんをどうすべきかという問題に答えたことにはならない。

▼アゴヒゲアザラシとしてのタマちゃんの生態

 もう一度、問題を当のタマちゃんに即して整理しよう。タマちゃんはどこから来たのか。「故郷」と言ってもはなはだ広い。北極海、ベーリング海、オホーツク海、そのどこか。帰すにしてもどこへ「帰す」のか。また、タマちゃん、すなわちアゴヒゲアザラシについての誤解や事実誤認も多い。アゴヒゲアザラシは母親からの離乳が早く、生後三〜四週間で親離れをする。しかも、群れを作らないのだ。「迷子」イメージは短絡である。

 それに、タマちゃんが追ってきたという魚は主食ではない。水底の泥などの中に棲む小生物が主食で、それを捕食するための「アゴヒゲ」なのである。さらに、長らくそこにいた帷子川の水質はアゴヒゲアザラシが棲むに不適ではない。アユやカワセミも棲んでいる比較的きれいな川なのである[注4]。こうしてみると、特に故郷送還派や中間保護派は、自分たちが生きる社会と環境への悲観からか、タマちゃんを「かわいそうな弱者」として予断しているように思える。

[注4]「沈黙の春」のヨーロッパでの状況は、日本人には想像もつかない。ヨーロッパの水質は、もちろん場所によってだが、日本の10〜100倍の化学物質で汚染されている。1989年には北海やバルト海でアザラシが大量死することがあって、オランダでは何と85%のアザラシが死亡した。これを日本も同じだと即断してはならない。
▼日本人の心に潜む故郷回帰思考

 大多数の日本人は、実は上記の立場を巡りながら、どう解決すべきか分からないというのが本当の気持ちだと筆者は思う。そこで、この問題の背後に潜む日本人の思考を考察しよう。まず、故郷へ帰すべきだという発想だ。動物には確かに帰巣本能というものがある。しかしそれ以上に、「故郷が一番」という演歌のような回帰思考がここにはあるだろう。それがこのアゴヒゲアザラシの居場所論にも濃厚に投影されているのだ。

 もっと言えば、北極圏出身のアゴヒゲアザラシは、たとえ居心地が良くても東京湾周辺に棲んではならないのだ。喩えて言えば、外国人労働者の日本居住を「故郷が一番」という発想から一時的・通過的なものとし、結果的に定住化を遠ざけようとするようなものである。故郷へ帰すべきだという発想には、棲み慣れた場所ではないから食べ物や病気を含めて、「本来の生活」に比べて劣るに違いないという先入観が潜んでいる[注5]
 本当にタマちゃんに帰巣本能があるのなら、心配することはない。やがて東京湾から去っていくだろう。少なくとも、「迷子」だとか「帰り道が分からない」だとか勝手に推断すべきではない。言っておくが、環境「先進」国でもこのようなケースで、野生動物を「強制送還」したり保護したりすることはない。そうするのは、水棲動物が陸上に打ち上げられ水中に戻れなくなったり、しけなどで沖へ帰れなくなったときに限られている。

▼欧米人と日本人の動物観

 次に、動物への考え方について検討しよう。確かに欧米人と日本人とでは動物の捉え方が違うように思われる。よく言われることに、欧米人は飼い犬をきちんとしつけするし、どうしても飼えなくなれば自ら命を奪ってでも処分する。それに対し日本人は、犬を子どものように扱い甘やかすが、飼えなくなれば野良犬として捨ててきたと。また、欧米人のクジラやイルカへの偏愛なぞも日本人にはうまく理解し難いことだ。

 一方で、欧米人は肉食の長い歴史の中で屠殺を日常としながら、それを供養したという話は聞いたことがない。動物実験が数多くなされたきたが、そこではサルの苦痛を減らす努力が追求されている。日本人には訳が分からないことばかりだ。欧米人の動物観には、野生動物と飼育動物との区別、また家畜との区別が歴然とあるのだ。さらには同じ動物でも、進化論的に人間に近いか遠いかで扱いがずいぶんと異なる「階級」思想がある[注6]
 それに対して日本人は「畜生」と一括するように、善くも悪くも動物への「差別」は本来ない。だからこそ、なぜクジラやイルカだけが特別手厚く保護されなければならないのか分からない。しかし、ことタマちゃんに関してはどうも事情が違う。あの愛嬌に日本人の心は微妙に揺れているように思える。おそらくそれは人間への近しさだ。そしてこれは日本人における自然観の静かな変化を反映しているものと考えられる。

▼欧米人と日本人の自然観

 ここで、彼我の自然観の違いに立ち入らざるを得ない。実は同じ「自然」と言っても、欧米人と日本人ではその内容が違う。そしてややこしいことに、日本人は近代以降に知った欧米人の「自然」概念も受け容れたために、現在では無意識的に「自然」という言葉をたいてい二重に用いている。だから、「動物愛護」と言っても二重なのだ。先に「無為自然」という言葉を使ったが、こちらが日本人本来の自然観を表している。

 それは、世界は無常であり変化して止まない、あるがままに任せるべきであるという自然観だ。また、自分が人間であることさえ巡り合わせであり、人間は特別な存在ではなく、動物も同じ生類(生き物)だという考え方である。現世における順序としては人間が優先されるのは当然であるが、一つ一つの命に関しては尊敬が払われる。それが万物への供養という思想であり、そこから自然にタマちゃんは「かわいそうな弱者」ということになる。

 「無為自然」に対する言葉が「人為自然」である。そんな卑小である人間が、あるがままに任せるべき世界にあえて介入することだ。欧米人が自然を操作することを日本人はそう見る。だが、実はそうではない。欧米人は「人為自然」とは別な思考軸で自然に介入している。「無為−有為」ではなく、「自然−人工」が欧米人の思考軸である。その「自然」とは何と、変化するものではなく、変化しないものなのだ。

 欧米人の「自然」とは、神が造った世界のことであり、天地の始めからある固定した秩序を指す。そして人間は神に世界を委託された者であり、世界を管理・保護し、必要に応じて操作すべき存在なのである。だから彼らは不変であるべき「自然」破壊に敢然と立ち向かい、クジラやイルカなど人間に近い「高等」生物を保護しようとする。しかしその一方で「下等」生物や人間の食物となる家畜には一顧だにしない[注7]
▼日本人における二つの「自然」観の相克

 いま述べてきたような、キリスト教をバックボーンとする本来欧米的な自然観が表層的に、つまり中途半端に日本人にも流入している。従来のあるがままに「自然」を放置するのではなく、「人為」的に(「人工」的にではない)自然に介入すべきだという意見が増しつつある。しかし「人為」によって自然を、言わば「ねじ曲げる」のにはまだまだ抵抗感があり、それが「タマちゃんを救え!」という声が多数派になれない理由だろう。

 日本人には日本人なりの、動物に対しての「階級」意識がある。それは、欧米人が自然世界の階級秩序に基づいて判断しているものを、「感情移入」で、つまり人間に似た仕草や表情、態度で直感的に判断しようというものだ。日本人のタマちゃんへの偏愛はこのようなものとして理解できる。同様に、パンダやコアラ、また最近流行のチワワなどもそうだろう。「かわいい」という言葉は、日本人にとって人間に近しいという意味だと解釈できる[注8]
 日本人が持つ二つの「自然」観が交錯した問題の例が、琵琶湖でのブラックバス問題であり、和歌山でのニホンザル雑種化問題である。どちらも本来そこには棲息しない魚やサルが人間によってもたらされ、以前の自然秩序が失われつつある。日本古来の自然観からはそれも無常と捨て置くべきなのだが、今はそうでもない。ブラックバスやタイワンザルを駆逐し、以前の「自然」を復旧することが積極的に試みられている。

 生物ではないが、実は文化財保存についても同様だ。日本には古来「保存」という思想はなかった。伊勢神宮の遷宮などでご存知の通り、「再築」こそが日本的思考である。しかし、いまは「保存」が主流思想である。それでも、いかなる目的のための保存なのかという哲学はない。このよじれのようなものをしっかりと自覚することがなければ、文化財保存もうまくいかないものと思われる。

▼タマちゃん問題は内在的なものとして捉えられているか

 以上のようにタマちゃん問題は文明論の広がりを持っている。だが、安易に「文明の衝突」論としてはいけない。ここで参考になるのが単純明快な「食物文化」論だ。各文明文化ごとに「食べるもの」と「食べないもの」が決まっている。これに上等も下等もないだろう。タコやクジラを「食べるもの」とするのが日本文化であり、「食べないもの」とするのが欧米文化なのだ。絶対的な対立ではなく、相対的な対立として処していくことがポイントだ。

 互いに背後にある考え方を理解しなければ、相手の言い分は表層的には選択的・恣意的なものと映らざるを得ない。「動物愛護」や「環境保護」といった普遍的に見える大義も、案外「普遍的」ではない。私たちの文脈や私たちの生活の現実に置き直して、しっかりと理解し直すことが肝要である。私たちは欧米人ではない。タマちゃん問題についても、私たちは臆することなく現代日本人として解決すべきだ。

 ここで、「普遍的」な大義を上滑りで受け入れている例を指摘しておこう。タマちゃん問題に関連して、川の汚染こそが問題と指摘する意見があった。しかし、その主因は生活排水なのである。日本人の「環境問題」観がよく表れている。大義を外在的に受け入れているのだ。本気で環境問題を論じ改善するということは、自身の生活を苦しい方向に転換するということなのだ。自分をも射程に入れた内在批判だけが本当の批判である。

 ついでに、イラク戦争での「人間の盾」の「平和・反戦」論理も、外在批判であり自己満足だ。日本人の「人間の盾」が行くべきはイラクではなく北朝鮮だろう。そこの原子炉や核弾頭のそばにいたら、少しは認めよう。内在批判とは責任を持つということだ。私たち日本人は、「人為」ではなく「人工」的に自然への責任を持つことが必要となっている。「無常」だけでは、北朝鮮のノドン着弾をただ待つようなものなのだ。

▼新しい日本人としてのタマちゃん問題の最終解決

 話がタマちゃんからずいぶん大きくなった。だが、タマちゃん問題とはこういった地平にあるのだ。日本人が持つ二つの自然観のうち、どちらの「自然」を選ぶのかという問題だ。ブラックバス繁殖やニホンザル雑種化問題、また北朝鮮問題などを思うと、答えは自ずと明らかだろう。生活排水は海に流せば何とかなるという発想では、日本は初めの状態という意味での「自然」な日本ではなくなってしまうのだ。

 タマちゃんについて決して語られぬ秘密がある。それはタマちゃんが実は「見せ物」であるということだ[注9]。このことを正当に受け止めるなら、タマちゃん問題の最終解決はこうなる。タマちゃんを動物園に移して人々に公開し、そこで死ぬまで保護することだ。パンダやコアラと同じ運命を生きるということだ。動物園も単なる一時的な「保護」ではなく、飼育・公開であれば受け入れも検討に値するだろう[注10]。日本人がタマちゃんの生死を引き受けること、これこそ日本人の責任だ。
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