吉外井戸のある村 M'S CLINICAL SOCIOLOGY

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なぜ人を殺してはいけないのか―道徳と倫理の根底

▼殺人を問うことをめぐる「事件」

 なぜ人を殺してはいけないのか。この問いについては1997年の夏にちょっとした「事件」があった。終戦記念日にちなんで、筑紫哲也氏がキャスターを務めるテレビニュース番組『ニュース23』(TBS制作)が企画・放送した「ぼくたちの戦争'97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、一人の高校生が大人たちに何気なくこの問いを投げかけたのだ。しかし、そこにいる大人たちはこれにうまく答えられなかった。ご記憶の方もいるだろう。遅きに失するが、思うところがあって、この問いについて愚考をめぐらせてみたい。

 討論の背景としては、少年による凶悪な殺人事件が相次ぎ、それについてどう思うかということがあった。その高校生自身は素直に「どうしていけないのかを教えてほしい」というニュアンスで尋ねただけで、大人たちを詰問するような意図はなかった。それが証拠に「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のだが、と続けている。大人たちは予期せぬ問いにどう答えたら良いものかわからず、恥をかかされた格好になったわけだ。

 その後、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかが各所で話題となり、ノーベル賞作家大江健三郎氏も朝日新聞に一文を認めた。そこで大江氏はこの問いを発すること自体に不道徳を嗅ぎ取っている。つまり、なぜこのような問いを発してしまうのか、それこそが問題だと論じたのである。この「道徳的」な物言いは、現代における「言葉狩り」、つまりは思考封鎖のタブーにつながっている。

 殺人だけではない。例えば「反戦」は無条件、無根拠に道徳的だとされる。戦争や軍隊、また改憲について語ること自体で好戦主義者だと見なされるのは周知のことであろう。また「男女平等」や「差別反対」、また「民主主義」といった言葉なども「道徳的」な力を持っている。道徳の前には、さすがの事実や正義もひれ伏すようなあり様である。しかし、言語矛盾的だが、現代の道徳は果たして本当に道徳的であるのか。

▼殺人という罪悪は社会的規範にすぎない?

 殺人は法によって重罪と定められている、という高校生の自問自答は至極まっ当なものである。社会がある限りあり得ないことだが、もし殺人が法的に罪とされていなかったら、とんでもないことになっていただろう。しかし、法とは突き詰めれば社会的規範にすぎない。言い換えれば、交通信号のルールと同じなのだ。これではこの問いに対して、社会の安定や利便のために必要な義務でありルールだからとしか答えられない(それで件の大人たちは窮した?)。それにルールなら、事情によって変更もされる。殺人も安定した社会状態では罪悪だが、交戦中の敵国軍隊に対しては刑罰は適用されない。

 法的な罪悪としての殺人について、若干注釈しておく。1つは殺人罪の成立の古さである。ハムラビ法典やモーゼの十戒が代表的だが、あらゆる古代法や宗教的律法の冒頭には殺人罪についての規定がある。もちろん、それぞれの共同体(社会)で認める「人間」の範囲の問題はある。古代における奴隷は「人間」に入らないだろうし、日本でも江戸時代の武士は特権的な身分であった。それでも、前近代のイメージにある無闇な殺人は、実は厳しく戒められてきたことは注意しておいていいだろう。

 もう1つは、前近代の法は道徳と分かち難く結びついたルールとしてあったということだ。そこでは単なる社会的規範としてのみあったわけではない。殺人は共同体の人倫や神の秩序を乱す行為として厳しく非難され、罰せられてきたのだ。近代国家において初めて道徳と法は分離され始め、現在に続く殺人罪が成立したと言えよう。また、身分制を克服した近代国家は国民一般を殺人から保護しなければならないようになったのだ。

▼道徳を語る者こそ非道徳的ではないか

 いま、何故に一人の普通の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うたのかを考えよう。法治主義としての近代国家が成熟し、社会ルールの法律化が進んで、超越的な根拠に頼らなければならない道徳への依存が極限まで減退してきたということがその理由の1つであろう。そして、それと併行して、さえぎるものがなくなったかのように見える、個人(自我)の自由の拡張がある極大に達していると考えられよう。殺人も自由の1つではないかというわけだ。

 人を殺す。いまの日本社会でこの欲望を最も抑止しているのは、高校生の言うとおり重刑罰であろう。現実の殺人を非難しつつも、一方ではテレビドラマや映画で毎日殺人がやむを得ぬ理由で、あるいは理由もなく繰り返され、人々はそれらに少なからぬ理解や共感を示している。しかし、その結末はともかく殺人は悪いこと、つまり道徳的ではないと紋切り型に繰り返されている。社会は「道徳的」であることを強要しているのである。なぜそうつけ加えなければならないのかが問題である。

 現代の道徳は果たして道徳的なものに発し、根拠づけられているのか。おそらく、そうではないだろう。例えば「人道主義」。かつて「ひと一人の命は地球より重い」と国際テロ組織日本赤軍の要求に屈し、ハイジャック機の日本人乗客ら人質の解放と交換に、拘置中の赤軍派幹部6人を解放し16億円を支払ったわが日本国の首相がいたが、解放された彼らと身代金はその後の国際テロに貢献していった。日本人を救い、結果として世界へのテロを支援したのだ。そうなることは初めから自明なことだった。

▼「道徳社会」としての近代国家

 かの首相は自分が自国民から非難されることを恐れるが故にそれを選択した。道徳的な言葉は損得、つまり個人や団体の利益や名誉のために言挙げされているにすぎない[注1]。第三者による道徳的言辞は間違いなくそうだ。その証拠に、凶悪な殺人事件で殺された当の被害者家族は、加害者への重刑罰による「復讐」を必ず言う。これは正しい。そして、これは道徳ではない。なぜ人を殺してはいけないのかの理由を人間の「相互性」、つまり自分も殺されたくなければ殺してはいけないとする根拠はここにある。
 だが、これは道徳の放棄であることはお気づきだろうか。もしそうなら、殺人は道徳的な罪なぞではなく、交通信号と同じく単なるルール(社会的規範)なのだ。ならば、殺人を道徳的に非難することは実は「非道徳的」な行為である。これを隠すものこそが「道徳」の正体だということになる。殺人は非道徳であると規定することによって、かろうじて「殺し合い」について語ることを封印しているのだ。かくして、道徳社会として近代国家は成立している。

▼感動の涙はどこから溢れてくるのか

 しかしながら、筆者の結論は以上にはない。これまで筆者はあえて「道徳」という言葉を使ってきた。「倫理」と区別するためだ。しばしば両者は区別なく使われるが、筆者は「道徳」を個人(自我)に即したものとして、「倫理」をそうではないものとしてここでは用いたい。道徳とは、実は自我への言い訳である。自我は恨みある他人や「むかついた」他者への殺人を常に欲する。場合によっては、快楽のための殺人すら欲している。

 「近代」が絶対の根底とする「自我」(個人)とはそういうものなのだ。だから、憲法や法令にある、自我を前提とした「人間」という言葉には十分注意が必要だ。もし人間が真に道徳的なら、例えば罪に対してなぜ「金銭による赦し」を要求し、またそれを受け容れるのか。よく使われる「誠意」の中身がなぜ金銭なのか。「道徳」とは金で買えるものだということだ。それが自我の限界であり、自我の道徳である。それが偽らぬ近代の人間、つまり私たちの真実の姿なのだ。

 だが、私たちは「倫理」も知っている。これは無報酬だ。簡単な例で言えば、本を読んでやドラマを観ての、あるいは音楽を聴いての「感動の涙」はどこから溢れてくるのだろうか。実際の他者との経験ではないから安心して、自我の「道徳」を超えて感動できたのだとは言える[注2]。しかし、これもあなたの真実である。実は、その涙は「自我」を超えた所からやって来ている。いまさら「神から」とは言わない。しかし、確実に自我=自分を超えた所からやって来ている。その涙が自分のものではないから、次の瞬間には「自分」に戻り、その感動をあっさりと忘れることができるのだ。
▼「孤独」も私たちが「社会的存在」である証明

 自我、つまり「私」とは何だろう。近代とは倒錯、転倒した世界である。デカルトがすべての出発点(原因)とし、私たちには自明に見える「私」とは、人間社会(共同体)の現在到達点、すなわち結果なのである。「私」が集まり社会ができたのではなく、社会が多くの「私」たちを作ったのだ。孤島で暮らしたロビンソン・クルーソーすら、イギリス「社会」に生きていた。東洋的な隠者もまた、人の世界でかつて暮らした精神と言語(言葉)、文化を持ち続けて生活する。

 そう、言葉こそ「私」が社会(私と他者たち)の結果であることの何よりの証左であろう。人間は生まれながらにして、言葉を話したり聞いたりできるものではない。両親を含めた他者たち(私以外)から、ある言語を後天的に学ぶのである。それが母国語である。その中からやがて「私」は立ち上がり、場合によっては社交を拒絶しているにすぎない。しかしその拒絶すら社会(私と他者たち)の文化であることは言うまでもない。

 つまり、私(自我)とは実は徹底的に「社会的存在」なのである。「社会的存在としての自分」が「孤独」な人間の正体である。そんな普遍性、もっとわかりやすく言えば、自分の当たり前さ、どこにでもいる、あるいはかつていた他人に似ていることを拒否することで「私」という自我がある。それを容易く認めないこと、自分の独自性(ユニークさ、「世界に一つだけの花」)をふれ回るのが近代である(ポストモダンは遙か遠い!)。

▼私たちは何が罪かをすでに知っている

 結論に入ろう。自我に基づく道徳心はいざ知らず、社会(私と他者たち)に根ざす倫理は知っている、殺人は倫理に反することを。殺人に限ったことではない。人としてのすべての罪を知っている。自我の道徳に従う「良心」とは違う。「言葉」のように他者と共生し、また言葉を学ぶように私たちの身に染みついているものが倫理である。そう言いたければ「神」や「仏」と言ってもよい。なぜなら、神や仏はむしろそこから生まれたものなのだから。

 横道に逸れるが、人間はだんだん「人間」になっていく存在である。だから、子どもはまだ「人間」ではなく、倫理を自覚できていない可能性がある。子どもは天使ではなく、むしろ残酷な「悪魔」である。しかし、法治国家の自我に基づく道徳に従うのなら、自我への制裁としての刑罰に手加減は無用だ。倫理は道徳とは決して交わらない。そして倫理は罪人も含めてすべての人間にやがて働く。そのことからも、犯罪を犯した子どもへの道徳的な「特権」は排除されなければならない。

 私たちは過去と未来に生きようとし過ぎている。私たちはここ現在にこそ生きるべきだ。「人生」なぞない。過去の私も未来の私も他人である(赤の他人ではなくとも)。そして自我の成り立ちに思いを深くしなければならない。「私」は他者と共生すべく定められて生まれてきた。「私」は他者によって初めて「私」なのだ、たとえ争うとしても。先ほども述べたが、他者と共有する言語が「私」の言葉であることが何よりその証である(私だけの1単語すらない。他者と共有できて、初めて言葉なのだ)。その共生の事実があるから涙は溢れ、無償で他者を赦すことも初めてできる。人を殺すことは、道徳にではなく、倫理によってあらかじめ排除されていたのである。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved