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萬遜樹の本だな
(まんそんじゅ)

mansonge's bookshelf

■最近 読んだ本から(2005.01-06)MENUに戻る

2005.06
ラディゲ『肉体の悪魔』(新潮文庫)

 新庄嘉章訳。 俗悪と言うか、卑猥と言うか、毒々しげな題名である。遠ざけていたのだ。果たして禍々しい小説であった。少年、つまり未だ社会的に十全に責任を負えない「未成年」、ラディゲ風に表現すれば、世界を自身が創造していると錯覚し、すべてが許されていると信じている幸福であり不幸でもある人生の一季節を描いた恋愛(?)小説。これが「恋愛小説」であるかどうかは読者次第だ。もし恋愛小説でないとすれば何か。ある人間がいわゆる現実に対して、たとえ無知(無垢)あるいは無謀ゆえであっても、いかに思考し、いかに行動し得るかを記録した思考実験か。  関川夏央『本よみの虫干し』による短い紹介がすばらしい。
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石川九楊『「書く」ということ』(文春新書)

 不思議な人なのである、石川九楊は。論証的でもなく、詩的でもない文。彼の文は、言わば書で奏でた音楽なのである。語らず語り、しかしながらその意味するところは筆触のようにある印象を残すばかりだ。茫漠としていて明瞭な意味としては知れない。  私が感じたところでは、たとえば意味となる以前の言葉や文字の反乱流行、等価交換=経済主義の支配、デジタルコピー文化の虚妄性(only one=アウラ=本物志向の存在)、読みへの偏愛。それから、東アジア漢字文化を通じての脱西欧普遍主義への違和などである。
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ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版)

 知的スリリングさに満ちた書。フーコーばりの「知の考古学」と言うにふさわしい。民族・国家・国民論(すなわち、"nation"の訳語に関する論)で必ずと言ってよいほど引用される基本文献だが、管見ではあまり芳しい評価を得ていなかった。今回読んでみて脱帽した。そして彼らが実はいかにこの書に拠っていたかもわかった。  ナショナリズムは南北アメリカ大陸でヨーロッパ植民地主義への反作用として誕生した。その間に「フランス革命」と事後に総括される事件を挟みながらだ。革命やナショナリズムはモデルとなり、ヨーロッパを下から揺さぶり、次いで公定ナショナリズムとなって上から反動的な支配の道具となった。これらはアジア・アフリカにも、植民地支配を通じて伝染した。そこでのナショナリズムこそ奇妙だ。植民地主義の相続者がナショナリストなのだ。そしてそのナショナリズムは前近代を隠蔽する。前近代には国籍も国境も国語もなかった。近代=ナショナリズムとはなかったものをあったかように語ることである。  なお、日本の大東亜共栄圏も、イギリス帝国主義の「世界のイギリス化」と同じ「世界の日本化」で、本国人と植民地国人を区別(差別)するものであり、決して日本的な発想ではない。それどころか、ヨーロッパ思想であった。
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橋川文三『ナショナリズム―その神話と論理』(紀伊国屋書店)

 残念ながら、橋川文三の失敗作。もごもごしている内に中途半端に終わる。内容も今となっては凡庸。というより旧思考の標本か。
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尾藤正英『江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代』(岩波書店)

 平明にして明解。全くすばらしい。明治維新という断絶、維新後の近代化=欧米化を超える観点。江戸=近世は、まず明治維新が歪め、さらに戦後がへし折った。
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水谷三公 『江戸は夢か』(ちくま学芸文庫)

 皮肉っぽい物言いしかしない人なのである。本書は著者の江戸時代に関する処女作。昭和の問題の起源を求めて近代日本を遡ると明治維新に至る。そこで改めて問題となるのが江戸時代とは何だったのかということだ。私たちが江戸時代を見るとき、必ず明治以降の「近代」の眼で見ている。だがこれは正しいのか。著者は、イギリスなどと比較しながら「封建時代」としての江戸を疑い、大正・昭和以降、日本人が自明だと信じ込んできたマルクス主義的な歴史観から解き放とうとする。そこからは鉄砲を隠し持ち、したたかに訴訟や一揆で領主たちを苦しめる農民たちが浮かんでくる。
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2005.05
平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)

 1999年の芥川賞受賞作。なかなか面白い。読後感は『エヴァンゲリオン』。両性具有のアンドロギュノスがどうも「アダム」を連想させる(エロチックだが)。背景もキリスト教・グノーシスと近接する。魔女裁判と錬金術が直接の材料だが、錬金術を表題の「日蝕」=陰陽の結合に一途に収斂させるのが少々胡散臭い。それでも十分に佳作と言ってよいだろう。
水谷三公『丸山真男−ある時代の肖像』(ちくま新書)

 いわゆる丸山真男論ではない。著者の言う通り、恩師丸山真男への「愚痴と脱線のごった煮」本だと言える。しかし著者の意図通り、「夜店」の丸山は伝わってくる。そして学者ではなく、「思想家」としての丸山はやはり的はずれだったのだと思う。それもこれも「気分」がなせる業だったのだろう。時代は碩学にも色眼鏡を強いるという人間的事実こそ、本書から学び取る教訓だろうか。
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海部陽介『人類がたどってきた道−“文化の多様性”の起源を探る』(NHKブックス)

 文明以前の人類史、最新のレジュメである。「人種」による知能の差はない。人類としての「知能」は出アフリカ以前にすべての人類に備わっていた。以降の知能の「進化」はない(28,000年前のロシア・スンギールの墓を見よ!)。現状に至るまでの各文化の違いは根本的には「地方差」にすぎない。旧人を含む他動物との決定的な違いは、文化の継承にある。これが本書のいう「知の遺産仮説」である。
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大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)

 現代を語るに看過できない評論家の一人がこの大塚英志である。虚妄とも批判される「世代論」や「時代論」が確かに有効であることを実感させてくれる。本書での私の発見は「フェミニズムのようなもの」の存在である。戦後の若い女性たちはかく生きて来ざるを得なかったのかと深く嘆息した。そしてまたしても「ナショナリズム」。
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北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)

 誘うタイトル、「2ちやんねる化」と「クボヅカ化」の書き出しで買ってしまった。だが、論述は至って正統派(つまり学者的)で、まじめ。60年代、70年代、80年代、90年代を「総括」する。反省の日本的純化が「深行」しているというのが論旨だ。良くも悪くもなっていないと言うが、とても良くなっているとも思えない。日本的「特殊性」に深く思いを致す。
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鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』(岩波現代文庫)

 したたかな知性、鶴見俊輔。鶴見は常に思想を単なる観念としてでなく、各人の生の中で使われているものとして捉える。本書では「十五年戦争」(鶴見の命名)期の日本人を通して、近現代の日本人の生き方と考え方が素描されている。カナダ大学生向けに平明に論じた講義録をもとに仕上げられた著作である。とりわけ、転向と鎖国が鍵となる主題だろう。
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柳田邦男『この国の失敗の本質』(講談社)

 4月25日朝起きたJR宝塚線(福知山線)快速電車、突然の脱線事故。死者107人、負傷者460人の大惨事となった。本書は1998年出版の論文集であるが、「この国の失敗の本質」は一歩たりとも変わっていない。大事故の後に必ず聞かされてきた「もう二度と同じ事故は起こしません」とは、条件反射で口から飛び出す慣用句にすぎない。ただ言葉であり、行動ではないのだ。著者は第二次大戦での「失敗」思考にまで遡り、失敗への日本人の対し方を検討する。ミーム(文化的遺伝子)なぞ存在しない。社会が存在するだけだ。何が問題であるのか。日本社会こそが問題であることは自明である。
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山室信一『キメラ−満州国の肖像』(中公新書)

 キメラとは異生物合体の怪物である。満州国とはそのような国家であったのではないかというのが本書の主張である。清朝のラストエンペラーを頭として載せ、身体は満蒙中鮮日の「五族協和・王道国家」と言いながらその実は関東軍=日本帝国であった、キメラのように幻に終わった国家(支配民族であった日本人の人口比は全国民のわずか1〜3%であった)。  著者は冷徹に満洲国家の誕生から変質までを一皮一皮はがすように解析していく。そして建国の理念がいかに空洞化し、キメラとなっていったかを明晰に裁断する。著者が満州国は日本帝国の鏡像でもあったと言うように、確かに満州国は私たち日本人の近代の一肖像でもあろう。そこには正視するに耐え難いほどの醜い近代日本人の姿が映し出されている。正義や平等の実行に言い訳は許されない。いかなる国家、国民にとっても、歴史自体は覆し難い。解決は現在と未来にしかない。
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2005.04
松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書)

 ともに幕末に生を受け、1901年に世を去った諭吉と兆民。明治維新を経験し、欧米に学び、近代化の道をひた走る日本を生きた二人の知識人。だが、近代日本への評価は違っていた。本書の記述は、残念ながら基本的な内容に留まるが、ちょうど100年前の二人の思想は21世紀に生きる日本人にとって大いに参考となるだろう。
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原彬久『岸信介−権勢の政治家』(岩波新書)

 「妖怪」岸信介を通して、日本政治の戦前・戦後の連続性、国家社会主義への指向性が透けて見える。戦後の復興経済体制とは、満州そして戦時日本での合理化・統制経済の延長であるし、自民党・社会党の人脈も戦前・戦後とも国家社会主義への指向性によって通底していたのである。
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江藤淳『成熟と喪失―“母”の崩壊』(講談社文芸文庫)

 江藤淳は天才である。22歳で『夏目漱石論』、28歳で『小林秀雄』を書き上げた。いずれも作家の内側からその作家生成の秘密を暴き出してみせた。その筆先はあたかも外科医ブラックジャックのメス捌きのように、鋭利にして明晰である。  そしてこの『成熟と喪失』は34歳の著作である。ここでは5人の「第三の新人」たちが俎上に載せられる。しかし今回のテーマは作家解剖にはない。表立っては政治を取り扱わない戦後文学を通して、一般的な戦後日本人の精神基盤の変化を摘出することにあった。そこに見出されたのは副題にもなっている「“母”の崩壊」であった。これは日本人にとっての近代の意味を問い直す作業でもあった。その手捌きは実に鮮やかであって、本人以上の深さで作家の無意識の領域にもメスは達している。とりわけ、『海辺の光景』『抱擁家族』『沈黙』については素晴らしい。例えば、誰が『沈黙』をキリスト教文学ではなく、日本人による日本人のファミリー・ロマンスだと喝破できたであろう。言うまでもなく、これは江藤淳自身の物語でもあるのだが。
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花田清輝『もう一つの修羅』(講談社文芸文庫)

 花田清輝と言えば、微細まで彫琢された思考による珠玉の工芸品『復興期の精神』である。著者にとって、それは戦時中の精神の疎開と言うより、もう一つの修羅(闘い)であったのだろう。  この『もう一つの修羅』は60年安保闘争の翌年に刊行されたエッセイ集で、主に1960〜61年の書き物が集められている。ところが安保は出てこない。あえて反時代的なのだ。少し変わった日本の古典についての評論集とも読める。生涯、皮肉屋だった。戦時中は脱日本、戦後は日本(ただしどちらも古典の世界)と、素知らぬ顔で舞台を移っている。  敵の中の味方・味方の中の敵、対中戦争は日米による中国争奪戦など、興味深いものの見方が散見されるが、安保や戦後は戦時に比べ著者にとって「機」や緊張感を欠き、パワーを失っていることは著者の加齢もあって免れがたい。
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高澤秀次『戦後日本の論点』(ちくま新書)

 高澤秀次は『江藤淳』が素晴らしかった。それに比べて言うと、山本七平についての本書は甘い。だが、書名の通り、多くの「論点」を得ることができたのも事実だ。新宮・中上健次、漱石『こころ』、後期天皇制、賊史としての日本史、明治天皇制の起源、戦争責任論など。
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2005.03
関曠野『民族とは何か』(講談社現代新書)

 ぶん殴られた思いだ。根元的な政治学入門書と言える。ただし、ここに正統な政治学を期待するのはタイトルからもお門違いだろうし、新書サイズの入門書と軽く見ていては1ページたりとも理解して進めまい。近代における国家とは何なのか、国家を国家たらしめる民族とは何なのか、それを構成する国民とは何なのか。特に最後の問いはまっすぐ日本人に向けられている。  私たち日本人は根本的に歴史を錯誤しているようだ。西欧史を含めた世界史、東洋史の中の日本史、さらに相互関係としての開国以降の近代日本史を。根元的な学び直しを強いる書である。
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小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社)

 大変すばらしい著作だ。分厚いものだが、とても平明に書かれてある。日本人論研究として、今後の必読文献であろう(刊行後10年も経ってから読んで、偉そうなことは言えないが)。中身は面白すぎて、ここで述べるのは惜しい。是非、読まれることをお勧めする。
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本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)

 竜頭蛇尾。日本の反植民地主義は「負」の共同体論だ。小日本主義は新たな民族主義強化に役立っていることに気づいているか。

2005.02
鶴見太郎『柳田国男とその弟子たち−民俗学を学ぶマルクス主義者』(人文書院)

 柳田国男の内と外。中野重治、福本和夫、石田英一郎の伝記とも言え、大変おもしろい。
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