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萬遜樹の本だな
(まんそんじゅ)

mansonge's bookshelf

■最近 読んだ本から(2005.07-12)MENUに戻る

2005.10
E・A・ポー『ポー名作集』(中公文庫)

 丸谷才一訳。江戸川乱歩の名の由来、エドガー・アラン・ポーの名品集。狂気への接近。
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コリン・ウィルソン『ユング―地下の大王』(河出文庫)

 コリン・ウィルソンによるユング。期待したが、正直あまりおもしろくないな。
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坂下昇『オカルト』(講談社現代新書)

 英米文学者向きの高級な本。英米文学に表現されてきたオカルトを、主に言語的に探る。私自身の新発見は、旧約聖書がオカルトの一大淵源だったこと、アメリカ・ルネサンス(特にメルヴィル)がオカルト的であること。
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2005.09
白州正子『西行』(新潮文庫)

 西行の謎でも最大のものと言えば、出家の理由であろう。著者は自らでさえ統御できない内なる野性を鎮めるため、仏道に救いを求めたと言う。なるほど。その一つの現れが待賢門院璋子との恋でもあったのだ。  白州正子の描き出す西行には肩に力が入っていない。自然なのだ。空気のようにいつの間にか西行のすぐ後ろに、あるいはすぐ隣に立っている。そんなアプローチだ。西行の息づかいを感じながら、書かれた書。
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リチャード・ノル『ユングという〈神〉―秘められた生と教義』(新曜社)

 精神分析学を二分するフロイトとユング――といった構図からはみ出たユング像。本書の第一の主張はユング心理学の秘密の暴露だ。ユングの正体は正真正銘のオカルティストであった。心理学者であり科学者であったのは自ら着けた仮面にすぎないと。オカルトもユング心理学も似たり寄ったりではないかと思うかも知れない。だが、それは霊と心との違いであって、霊的宗教的なことか、それとも心的精神的なことかは存外異なる。さらに、ユングが「分析心理学」の名の下、自ら教祖=神としてゲルマン主義に基づく新カルト宗教を興そうとしていたのだとしたらどうか…。  実はユングの秘密より、私が強く興味をそそられたのはナチス勃興の土壌となった19世紀から20世紀にかけてのドイツ-ゲルマン精神文化だ。19世紀のドイツ敬虔主義(霊的探求はゲーテからそうだ)はドイツ民族主義を育み、その世紀末にはワーグナーやニーチェを生んだ(ドイツはキリスト教に抑圧されてきたという認識)。また、霊的な救済を求める流れはドイツを越えて、20世紀を迎える前後には心霊主義となってヨーロッパ全体を覆った。ユングの思想はこの本流に棹さしている。「ドイツ・オカルティスト」ヒトラーは突然変異でも何でもなく、必然だったのだ。ユングの新異教主義の目的は、キリスト教以前のゲルマン文化・宗教の復興であった(これがキリスト教の起源であるユダヤへの反発も生む。ドイツではキリスト教の超克は反ユダヤ主義と常に隣り合わせだった。符合するように、フロイト派とはユダヤ人の精神分析運動であった)。ミトラ教への傾倒も、それがインド-アーリア人の宗教の起源と考えられたからだった。つまり、ユングは19世紀人だったのだ。彼の重要概念「集合的無意識」もラマルク流の文化遺伝説にすぎないことは言うまでもない(想起したいのは現在もミーム[文化遺伝子]なぞという言い方でそれが堂々と通用していることだ)。  本書からの知見をもう1つだけ付け加えておこう。ロックフェラー財閥の「王女」たちの資金支援によって、彼の心理学クラブ=カルトが発足し、またドイツ語著作が英語訳され、それが英米語圏にユングの著作が普及する機縁となったことである。こういった資金援助の獲得については、フロイト派もこれを求め、二者間で激しい競争が幾度もくり返されていたのだ。
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森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』(中公新書)

 ヒンドゥー教を平明に解説する。インド人の日常信仰がわかる。
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ロバート・ゴダード『千尋の闇』上・下(創元推理文庫)

 物語によるカノンとフーガ。めるくめく迷宮へどうぞ。
高橋英夫『西行』(岩波新書)

 西行についてよくまとまった一書であろう。著者は詩の新たな領野を開いた詩人として西行を描き出す。西行は主体を「心」として措定した上で、その心の自発的な動きに任せ、客体との交感の中に詩を見出した。心は当の主体すらを「見者」として見つめる。西行を民衆は全国を経巡る旅人として、芭蕉は美を探究する旅人してとらえた。
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2005.08
吉村昭『冬の鷹』(新潮文庫)

 主人公「前野良沢」の名は、杉田玄白とともに『解体新書』の翻訳者として知られている。だが、その書には翻訳者前野良沢の名は存在しないのだ。良沢がすでに世を去り、玄白が死の二年前に書き残した『蘭学事始』に『解体新書』翻訳の顛末事情が記されており、そこに良沢が果たした役割がわずかに語られていた。その『蘭学事始』も玄白在世中には公刊されなかった。その後、公刊されはしたが、それは長く忘れられた書であった。これがようやく見出されたのは幕末で、良沢と同じ中津藩出身の福沢諭吉がこれを知って読むに至り、いたく感激し、明治2年に出版して、『解体新書』の翻訳者「前野良沢」の名は初めて広く世に知られるようになったのである。本書はこの良沢を「冬の鷹」として描く。なぜ『解体新書』の翻訳者として名を残さなかったのか。そしてその後いかなる人生を歩んだのか。
三田村泰助『宦官―側近政治の構造』(中公新書)

 名著だと聞き及び、購入しておいた一書。確かにもう一つの中国史である。氏の執筆動機となった謎の一つは、なぜ中国に宦官が発生・維持され、わが日本はそうでなかったのかだ。安易な種明かしは未読者に良くないが、一言で言えば、彼らに異民族があり、我らにはそれがなかったからというのが氏の結論だろう。これは中国の広さを示すと同時に、中国が決してその始まりから「中国」ではなかったことを何よりも証明しているものと思われる。如何?
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アントナン・アルトー『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』(白水Uブックス)

 多田智満子訳。ヘリオガバルスは3世紀のローマ皇帝。淫蕩かつ残虐で知られる。自ら祭司を務めるシリア・エメサ地方の黒石(バール神)祭祀をローマに持ち込んだ。アントナン・アルトー(1896-1948)は、ヨーロッパ文明への反逆を志したフランスの詩人。アルトーはヘリオガバルスの思考と行為をローマ文明への反逆と捉え、これを自身の反逆と重ねる。
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村田全/茂木勇『数学の思想』(NHKブックス)

 数学史である。古代ギリシャでは、学とは“数学”的な知識であった。有名な「学問に王道なし」はユークリッドの言葉であり、その「学問」とは“数学”(幾何学)のことだった。中世の自由「四科」も天文学・音楽・幾何学・数論と、“数学”的な知識なのだ。本書ではユークリッドを初め、近代のデカルトやライプニッツなど天才たちによる数学形成史を排する。数学はそうではなく、無数の数学者たちによる努力の積み重ねの上に築かれたきたことを説く。例えば、ユークリッドの『原論』は古代ギリシャの多くの数学-哲学者たちの学問の集大成なのだ(例えばピタゴラス、ゼノンらの業績が代表的なもの)。その他、興味深い思想史の織り上げのあり様が描かれている。
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小泉義之『ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために』(講談社現代新書)

 ドゥルーズ哲学の原点『差異と反復』を知る。彼の思考が分子生物学と微分数学にあったことを知った。同一性などの伝統思考に対する反逆(「リゾーム」の概念など)、未来への絶対の信頼がその特徴と言えよう。生物個体はただ適応するのだ、人間も含めて。そこに善悪はない。問題はすべて微分方程式で、人間中心的な解は望めない。しかし個々の生物(もちろん人間も)はそれらにことごとく見事に答え、生き抜いている。アキレスと亀のように、現実と理念は違う。人間は得体の知れない「近似」解を見出し、そこから何事かを道徳的に押しつけるが、それらは未来ではなく、ただ功利的な「死」に向いている。
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橋爪大三郎『「心」はあるのか』(ちくま新書)

 「心」とは、ある約束事(=言語ゲーム)だというのが結論だ。人間社会のすべては、たとえば「貨幣」と同様、起源は覆われ転倒している。ただし、逆立させればよいということではない。むしろ、転倒した姿こそが人間的有意味なのだ。「心」もそういう一文化である。しかし、実はその実体はない。「私」も実体はない。私たちの意味とはすべて私たちが共有する言わば「幻想」なのである。実体は身体であり言語である。いずれも自分以上に他者が認識する客体的なものだ。「心」も「私」も孤立していない。否、自立できないのだ。共有世界に存在することで、初めて「心」も「私」も存立している。
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2005.07
下條信輔『〈意識〉とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(講談社現代新書)

 これは大変な本だと思う。「認知哲学」と言うそうだが、これは立派な哲学書である(哲学とは本来「現在の学」である。つまり今に役立たず、ただ有り難いようなものは実は「哲学」ではない)。意識(私)というものの身体・環境・世界との相関性、連続性。まず、これは仏教(特に禅)だと思わざるを得ない。世界(客体)が私(主体)である以上に、私(主体)は世界(客体)である。私は他者なのである。言語や無意識や身体は他者に依拠している。後期ウィトゲンシュタインの主張した言語意識の社会性、能動の前提としての受動を強調した後期フッサールを想起する。そして意識、否、そればかりか「人間」のリゾーム性(ドゥルーズ=ガタリ)。私は解放されているとともに解体されている。騙し絵・物語としての私と世界。
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スタンダール『赤と黒―一八三〇年代記』上・下(岩波文庫)

 桑原武夫・生島遼一訳。副題は内容からは「1820年代記」。第一部と第二部に分かれる。それぞれにおいて、地方貴族の妻レナール夫人、パリ貴族ラ・モール侯爵の娘マチルドが主人公ジュリアン・ソレルの恋人だ。スタンダールは、実際にあった事件を題材にこの小説を書いた。1830年に上梓されたこの作品は、当時としては画期的すぎて評価されなかったという。
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河合隼雄『子どもの宇宙』(岩波新書)

 河合隼雄だ。この人、スゴイよね。これは子どもの本ではない。大人のための本だ。「子どもの宇宙」も単に子どもの中にだけある「宇宙」ではない。実は大人の中にもある「宇宙」なのだ。その「宇宙」とは何かが問題だ。この本で取り上げられていることから言えば、それは夢であり狂気など精神の病であろう。それは賢治の「夜」であり、その座は無意識なのだ。私たちの心の裏側は宇宙とも言うべき無限とつながっている。そこは死の世界であり、生や性のふるさとでもある。日常のあちこちにそこへの奈落は口を開けている。子どもは容易にそこへ落ち、大人は見て見ない振りをして通り過ぎる。ただそれだけの違いだ。だが、私たちの生はそこから生まれ、そこからエネルギーをもらってこそ、幸せに生きられるのだろう。また、児童文学が読みたくなった。。
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中沢新一『対称性人類学―カイエ・ソバージュ 5』(講談社選書メチエ)

 流動的知性(無意識)こそが人間の心の本質(基体)という話。すっきりとした整理に大いに同意する。但し、その発生については異議があるが。  中沢新一はエデンの園をこの地上に実現しようとする夢想家だ。決して叶わぬ夢の「思想」を、手を変え品を変え、「布教」する。宗教抜きで、事実上の宗教を起こそうと読者を激しく使嗾する。真意はどこにあるのか。おそらくそれを語り続けること自体が中沢の快楽なのだ。物語的思想家、いや思想的作家か。
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中沢新一『女は存在しない』(せりか書房)

 中沢新一って分かるようで分からない。だから読む? 最初の「ゴジラ対GODZILLA」と最後の「敗戦後の「私」」を主論文と見なすと、東洋思想家なのだろう。ヨーロッパ文脈の中でヨーロッパ的思考の批判を展開するが、実は東洋・日本的だとも思える。そこでは神秘主義擁護、ヨーロッパ理性批判だが、結局は東洋的「無」こそが言いたいことか。
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磯田光一『思想としての東京−近代文学史論ノート』(講談社文芸文庫)

 「東京」とは何か。東京の誕生とそのイメージの推移を、地図表現、標準語の成立と東京方言の分離、歌謡曲の歌詞、文学表現などに探る。そこには日本人にとっての中央とは何か、近代とは何かが貼り付いている。そして取り残された地方や前近代はいかに底流化し、噴出し、持続していったか。
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