mansongeの「ニッポン民俗学」

お水取り(修二会)の舞台、すなわち東大寺二月堂の半歴史的考察



 お水取りとは、東大寺二月堂で行なわれる修二会という大法会の中の一行事である。修二会自体については別に述べた(mjf-15:東大寺二月堂「修二会」に隠された「日本」)ので、ここではその舞台となる二月堂の成り立ちを中心に解明していきたい。本論に入る前に、前置きとして二つほど述べておく。一つは宗教思想的な背景、もう一つは平城京「外京」部についてである。


▼「雑密」としての天平仏教

 宗教思想的な背景とは、二月堂修二会が創始された奈良時代の仏教、すなわち天平仏教についての理解である。この頃、後ちに「南都六宗」(これは宗派ではなく学科)と呼ばれる仏教学がほぼ整理・形成されていた。しかしそれ以上に当時は、仏教は新「神学」として、つまり仏や菩薩は古来からの神々がヴァ−ジョン・アップ(姿形を持ち、目的や方法を明確化)した「神々」として理解されていた。

 神仏習合と言うが、仏は、「紀記神道」および律令体制下で不自由となった神を救うために日本に現れた外来の「神」なのである。その「神」は方法化された「術」を持っていた。それがひろく密教的な修法である。早い話が仏教の「神」は呪術が使えたのだ。その呪術は、日本の神々と日本人を救うためにあらゆる場面で取り込まれていく。これが神仏習合である。だから「神道」と仏教が単に複合したものが神仏習合なのではない。基本はあくまで「ニッポン教」(日本人の信仰)である。仏教は言わば新テクノロジーであり新方法論である。

 それから、密教は空海、そして最澄後継の円仁・円珍たちによって初めて摂取・移入されたわけではない。すでにそれまでから般若・観音系経典に基づく「雑密」として受容されていた。ひとまず、役行者あたりをイメージしてもらって頂こうか。空海はこの下地に体系化された密教を載せたにすぎない、とさえ言える。修二会のご本尊は、十一面観音である。何が言いたいのか。修二会は雑密法会として、またそれはニッポン教の枠組みで把捉されねばならない。

▼山に棲む神と藤原氏

 もう一つの平城京「外京」部についてだが、ほぼ正方体をなす左右京の東北部への出っ張りが外京である。ここに興福寺と元興寺が、そして京外には東大寺が配置されている。710年の遷都は、旧都藤原京の寺院つきの引っ越しであったが、「寺院は京内に神社は京外に」がルールであった。東大寺は後ちの建立であるが、そこは都の東山であり笠置山地北西部に続く地勢である。

 だいたい、前の藤原京という名自体が怪しいのだが、平城京こそは「藤原京」であった。と言うのも、興福寺と春日社は藤原氏の氏寺と氏神、そして東大寺は藤原不比等(鎌足の子)の孫かつ婿である聖武天皇の発願寺であり、不比等の娘光明子が深く関わる寺院であったからだ。

 ここで述べたいことは「山」についてだ。ニッポンの秘密は海と山にあるが、そこは神々の棲み処である。仏教の神もすぐさま山に棲み着かれた。例えば、三輪山の東方奥にある長谷(はせ)は、もともと「こもりくの」(山に囲まれた)の枕詞で呼ばれる古来よりの山間の聖地である。「長い谷」を「はせ」と読むのも「なが谷の初瀬」の前字取りである。そしてそこにある長谷寺は早くから観音信仰の聖地となった。

 平城京遷都以前から、不比等はある山に着目していた。それが笠置山系の春日山である。ニッポン人には山が是非とも必要なのだ。春日山は別名を御蓋(みかさ)山と言う。御諸山(神奈備山)つまり神の宿る山のことで、遷都以前から聖なる山であった。その麓に不比等は藤原氏の守護神を集結させた。春日社は興福寺の守護神となる。

 実は春日山の重要性はそれだけではない。藤原氏の氏神アメノコヤネは河内との境、生駒山麓の枚岡社からの勧請なのだが、ここの高見という峰に烽(火焚台)が置かれた。西方の異変をいち早く、平城京に連絡するためである。これに応答するのが春日の烽(飛火)であった。

 話が脇道に逸れた。春日山の少し北にもう一つの注目すべき山がある。いまは山焼きで有名な若草山である。このふもとには手向山八幡宮がある。同社は九州の宇佐八幡宮の分社である。大仏造立にあたり、749年に勧請された神である。今度は仏を助ける神である。その若草山の同じ麓に、二月堂や法華堂が建ち並ぶ。いよいよ、二月堂縁起の始まりである。ただし、表題にあるようにこれはあくまで「半」歴史であることをお断りしてから話を進める。

▼修二会の創始者 実忠和尚

 東大寺の初代別当・良弁、権別当・実忠はともに朝鮮帰化系の人である。確かに東大寺建立というようなビッグ・建築プロジェクトは、そのような人材なくして為し得なかったであろう。修二会の創始者はその実忠和尚である。実忠は新薬師寺に「華厳曼陀羅」とも称すべき頭塔(土の七段ピラミッド)なども造っている。しかし彼の本業は、当時の「東大」(東大寺は国立総合仏教大学)の華厳供大学頭(学長)であった。その実忠が大仏開眼の年(752年)から一生続けた法会が修二会である。彼は常に良弁と一体になって活動した。

 おもしろいことに、二月堂の傍らの「法華堂」は東大寺に先んじて建立されている(寺伝によれば733年)。さらに、修二会が創始されたはずの大仏開眼の年には、現二月堂が建つ所に建物はなく井戸一つだけがあった(756年の四至絵図)。実忠は嘘つきか。そんなことはない。光明皇太后(聖武帝は749年に譲位し太上帝となり、光明皇后は皇太后となられていた)の紫微中台に「十一面観音悔過所」なるものがあった。そこにおいて最初期の「修二会」は行なわれたのであろう。蛇足だが、「紫微」とは北斗星の北の星を指し、それは皇帝の座を意味する。「天平勝宝」などの四字年号を始め、光明皇太后は「則天武后」の写しなのだ。

 このあたりで、実忠和尚の「山」について、やはり語っておくべきだろうか。所伝によると、実忠は751年笠置山(京都府南端、笠置山地北端)中の龍穴から弥勒菩薩の兜率天内院に至り、そこで「十一面悔過」の行を観たという。この十一面悔過を「地上」(人の世)で行ずるのが東大寺の修二会である。

 話は仏教伝承だが、山岳宗教の匂いがぷんぷんする。そして海である。実忠は悔過行のご本尊となる観音を請来するため、難波津で観音菩薩の棲まわれる補陀落山に向かって祈ったという。ニッポン教では、海と山があの世に通じている。ニッポン教に従えば、仏教の浄土や天も「あの世」のニュー・ヴァージョンである。

▼良弁と金鐘寺

 そろそろ「歴史的」にと行きたいのだが、そのためには実忠の師である良弁和尚に登場願わねばならない。良弁は山岳「修験」僧である。山に拠り呪術(雑密)的仏教を奉じていた。しかし一方、彼はきちんとした仏教学も修めていた。高僧・義淵の愛弟子であり、行基・玄ボウらと同門にして法相宗の雄、そしてのちに華厳宗をもって東大寺初代別当を襲うのである(この系譜に神仏習合の天平仏教の姿がはっきりと映し出されている)。

 その良弁は、近江の甲賀や信楽、山城南部の山地から大和北部にかけての笠置山地周辺を根城とする修験グループに属していた。実はこのラインに聖武天皇の遷都地群、平城京、恭仁京、紫香楽宮がある。聖武帝が大仏造立を初めて企図したのも甲賀の地であった。良弁らとの深いつながりを意識せざるを得ない。執金剛神という怪し気な神を護持するその良弁らが、若草山麓に「山房」を開くよう728年に勅を受け、建てられたのが羂索院(後ちの金鐘寺)である。

 その機縁となったのは、基王であった。基王とは聖武帝と光明妃の皇太子であるが、わずか二歳で病没した。この皇太子誕生にまつわる勅願法要を受けたのが義淵とその弟子たちである(法相宗を能くした義淵は、それ以前から興福寺絡みで光明妃の信を得ていた)。

 その義淵もまもなく死し、今度は故基王の追善供養となる。この追善と合わせて護国法要のために建てられたのが他ならぬ羂索院であった。基王が没した728年、聖武帝は「金光明最勝王経」を全国に頒布する。金光明経とは国家鎮護の経典である。この中に「金鐘」という言葉がある。これを敏に受け、良弁らの羂索院はいつからか金鐘寺と名のり出す。

▼東大寺上院という待遇

 いま東大寺では、二月堂や法華堂など寺内東丘部の堂宇を「上院」と称する。実はこれが金鐘寺である。二月堂はなく、羂索堂(現法華堂)、千手堂、阿弥陀堂などが建ち並んでいた。羂索というのは不空羂索観音、千手とは千手観音のことで、雑密観音系だとわかる(観音は、身を三十三身に現じて六道の衆生を救済する、まさに雑密「神」であるが、海と山と縁が深い)。

 その金鐘寺下、741年に「金光明四天王護国之寺・国分寺」創建の詔、つまり国分寺・国分尼寺の造営発願がなされ、その翌年、金鐘寺は光明皇太后の令旨によって大和国の金光明寺(国分寺)となる。745年には都が四年半ぶりに平城京に復都し、その東山すなわち現位置に大仏が造立されることになる。これが国分寺の総本山、東大寺の誕生である。それは純密渡来直前の、華厳曼陀羅の頂点に大仏を据えた国家鎮護の呪術であった。

 つまりこのように考えなければならない。実忠は良弁の意を受け、十一面観音悔過行を始めた。大仏開眼ということを契機としていることは間違いないが、何よりも光明皇太后がパトロン(庇護者)である。おそらく彼女なくして、修二会も大仏もこの世にあり得なかっただろう。悔過には光明皇太后という存在の公私に渡る情念が深く塗り込められている。金鐘寺という東大寺の深層が表層に突如現れたパトス(情念)が修二会という異物である。

◆年表:東大寺の成立と修二会の始まりまで◆
一般事項東大寺事項
724年聖武帝即位 
727年基王立太子 
728年基王病没、金光明最勝王経を全国頒布羂索院勅許(金鐘寺)
729年長屋王の変、光明子立后 
733年 羂索堂建立
737年藤原四兄弟没 
740年藤原広嗣の乱 
741年恭仁京遷都、 国分寺国分尼寺の造営発願、墾田永代私有令 
742年紫香楽宮造営金鐘寺、金光明寺となる
743年大仏造立発願 
744年難波宮遷都 
745年平城京に復都金光明寺、東大寺となる
747年 大仏造立開始
749年聖武帝譲位(光明皇后は皇太后に)手向山八幡勧請、大仏完成 
752年 大仏開眼供養、 十一面観音悔過開始           
754年鑑真渡来 
756年聖武太上帝崩御 
760年光明皇太后崩御法堂建立?
761年 法堂にて修二会開始?

▼十一面観音悔過から修二会へ

 修二会は二七か日(二回×七か日=計14日間)行なわれるが、上七日(前半)と下七日(後半)でご本尊が替わる。ともに十一面観音であるらしい(絶対秘仏で「誰も」見たことがない?)。上七日の本尊は、大観音と呼ばれ七尺(約2メートル)の立像で内陣須弥壇に立つが、実は岩坐すなわち岩盤の上にお立ちと言う。天平時代後期の作とされる。

 一方の下七日の本尊は小観音と呼ばれ、七寸(約20センチ)の大きさである。いまは開かずの厨子に納められているが、奇跡的にも平安時代末期の模写図が残っている。鑑真の請来仏かとも言われる。もしそうなら海を渡ってきた観音という話ともつじつまが合うが。

 川村知行氏の研究によれば、二月堂はもと「法堂」つまり講堂であった。本尊はなく、いろいろな修行に使われたお堂ということだ。そこへ修二会のときにだけ、「印蔵」(宝蔵)から小観音が持ち込まれた。つまり、小観音が第一のご本尊だということになる。実際、平安末期の記録に厨子を運ぶ様が記されているし、いまも上七日最終日に小観音を堂内で移し奉る奇妙な所作にその名残りが残されている。

 ここから言えることは、小観音は修二会創始時に存在しなければならないということだ。一方の大観音は、「法堂」が「二月堂」つまり修二会専用道場となったときに祭られたものと思われる。

 前にも述べたように、悔過開始時には金鐘寺に法堂はなく、紫微中台の十一面観音悔過所で始められた。すると、修二会、いや「十一面観音悔過」行とは、金鐘寺に属するものではなく、ましてや東大寺に属するものではなくして、光明皇太后の発願行ではなかったのか…。それはともかくとしても、小観音が鑑真の請来仏だとすると、二年ほど間に合わない。いやはや、ここは万歳である。

 四年前の聖武太上帝の後を追うように、760年、光明皇太后は崩御され、紫微中台もなくなる。そこで金鐘寺(すでに東大寺上院と呼ばれていたであろうが)の法堂での悔過が始まったのだろう。したがって、その時までには法堂は建設されていなければならない。

 実は金鐘寺に舞台を移したであろう761年から、実忠は「涅槃会」も毎年行なっている。涅槃会というのは、釈尊入滅の二月十五日、釈尊の遺徳奉讃追慕のために修する法会である。修二会は、修二月会であり二月一日から十四日まで行なわれる(いまは新暦に移し、三月の法会となっている)。修二会が結願して、晴れて涅槃会という流れである。おそらく761年からこういうスタイルとなったのだ。この中で何かが封印されている。

▼二月堂の建築---平安時代

 さて、話を二月堂に戻そう。仮に761年までに法堂が完成していたとしよう。当時は三間×三間(「間」は長さではなく柱の間の数)の小堂である。これがいま「内陣」と呼ばれる中央部分である。平安中期(10世紀)の古文書によれば、「三間二面庇瓦葺二月堂一宇」と確かにある。法堂での悔過行が定着すると、大観音が製作されてそこに納められ、ついに法堂は修二会専用道場、すなわち文字通り「二月堂」となる。

 話が錯綜するかも知れないが、観音は巌(いわお)あるいは崖に立つ。滋賀県の石山寺の本尊は「勅封二臂如意輪観世音菩薩」という観音様だが、あの良弁が749年にも762年にも開いたと伝えられる。縁起によると、聖なる岩の上に観音が立っていたという。先の長谷寺、京都の清水寺、すべてそうである。観音様は日本に一番早く来た仏教の神と言える。この担い手は修験山伏、つまり雑密の山岳仏教者たちである。観音様は山の神なのだ。

 次に観音は水、そして滝の神でもある。清水寺がそうであるし、さらにそれ以上に観音信仰のメッカとも言える熊野那智山(青岸渡寺)では滝そのものが神である。そして観音は海からやって来る。補陀落山と呼ばれるインド南方の補陀落浄土からやって来る。

 以上を背景にして、観音様は岩あるいは崖に立つ。かくしてその堂宇は懸崖(崖に立つ)造りとなる。清水寺や二月堂の舞台は、趣向でも何でもなくそういう意味での必然である。

 しかしながら、いまの述べたように10世紀の二月堂には舞台はない。ここでは、大観音が岩座に立つという意味を考察できたまでだ。

▼二月堂の建築---鎌倉時代

 では、舞台はいつ出来たのか。話が遅々として進まず大変恐縮だが、その前に内陣の四至を取り囲む外陣の不思議を是非とも述べておきたい。外陣は土間(「ジク」と言う)であり、内陣に比べ一段低いのである。これはいまでもそうである。そのため、連行衆(修二会の行僧)が手前の礼堂から行をおこなう内陣に入るのに小さな「橋」を渡る。余談だが、この入場の時、差掛と呼ばれる木沓を音高く踏みならしながら内陣へ突き進む。これが大変おもしろい。

 さて、この段差は何を意味しているだろうか。内陣の独立性を証しているに違いないが、それは単に「御堂」としての威厳だけではない。元の三間だけの「法堂」の有り様をも示している。つまり、外陣は丘の、崖の地面なのである。建物に取り囲まれてしまったから、堂内の「外陣」と称しているが、実は地面なのだ。修二会では、ここでの行はもちろんない。

 内陣の西正面(崖側)に「礼堂」がある。これは名の通り、礼拝のための構築物である。行自体は内陣中央の須弥壇を取り囲む北座・南座と称されるポジションを中心に行なわれる。礼堂は、僧以外の礼拝客を前提にしているのである。いまは外陣をさらに取り囲む「局」という「見物」席まである。そして「舞台」である。これらは何か。鎌倉時代になっての言わば「宗教ブーム」の所産である。参拝者が相当多数出現し、かつ寺側もこれを受け入れた(受け入れる必要があった)のだ。この頃までに、いまに伝わる修二会のすべてが完成した。

 なお、二月堂は1667年に火災に遭っているが、これは自らの「逹陀」によるものだ。1669年には「先規に違わず」再建されている。

◆参考図:二月堂建築の変遷(川村知行氏作成)◆
  (第1期)    (第2期)〜1206年      (第3期)1226年〜        (第4期)1264年〜     内陣のみ     外陣と礼堂が加わる        局が加わる        勧進・例時の間、舞台が加わる                           ・−・−・−・−・−・−・−・  ・−・−・−・−・−・−・−・                         |     東 局     |  |     東 局     |           ・−・−・−・−・−・  ・ ・−・−・−・−・−・ ・  ・ ・−・−・−・−・−・ ・           |   外 陣   |  | |   外 陣   | |  | |   外 陣   | |  ・−・−・−・  ・ ・−・−・−・ ・  ・北・ ・−・−・−・ ・南・  ・北・ ・−・−・−・ ・南・  |     |  | |     | |  | | |     | | |  | | |     | | |  ・ ・−・ ・  ・ ・ ・−・ ・ ・  ・局・ ・ ・−・ ・ ・局・  ・局・ ・ ・−・ ・ ・局・  | | | |  | | | | | |  | | | | | | | |  | | | | | | | |  ・ ・−・ ・  ・ ・ ・−・ ・ ・  ・ ・ ・ ・−・ ・ ・ ・  ・ ・ ・ ・−・ ・ ・ ・  | 内 陣 |  | | 内 陣 | |  | | | 内 陣 | | |  | | | 内 陣 | | |  ・−・−・−・  ・ ・−・−・−・ ・  ・−・ ・−・−・−・ ・−・  ・−・ ・−・−・−・ ・−・           |         |    |         |      |         |           ・ ・ ・ ・ ・ ・    ・ ・ ・ ・ ・ ・    ・−・         ・−・           |   礼 堂   |    |   礼 堂   |    |勧|   礼 堂   |例|           ・         ・    ・         ・    ・進・         ・時・           |         |    |         |    |間|         |間|           ・−・−・−・−・−・    ・−・−・−・−・−・    ・−・−・−・−・−・−・−・                                           |   西 局   |                                         ・ ・−・−・−・−・−・ ・                                               舞 台                                         ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

▼昔もいまもシルクロードの果ての国

 小見出しの「果て」とは、必ずしも終わりを意味しない。要は世界に通じているということであり、その動向に敏であるということだ。最初はそっくりそのままの「マネゴト」であっても、結果として見ればそれは他にはない「主体的」受容になることが多い。たとえば仏教がそうであった。そういう流れの中で、再び修二会のシンボリズムを考えてみたい。修二会の本旨は、悔過であることは筆者自身が繰り返し述べてきたことであるが、やはりこのあたりで「お水取り」と「逹陀」(だったん)に言い及ばねばなるまい。

 すなわち、水と火である。水についてはもういいだろう。言い残したのは、火であり、また火と一体になった場合の水についてだ。実はニッポン人の信仰、ニッポン教とは「普遍」宗教である。ところが、「普遍宗教」とは世界的に拡大した宗教という定義になっている。これこそ「侵略」的な発想である。むしろ「普遍」宗教とは、どの民族にもあった宗教観とでも解するのが自然であろう。事実、ニッポン教はネイティブ・インディアンやアボリジニーなど「前近代」的自然宗教に通じている。

 その自然宗教では、火と水の聖性のシンボルである。もっとも「普遍宗教」でも、たとえば水は、洗礼や灌頂などと高級に引き継がれるが。自然宗教では、火と水は、分離し結合する媒介である。善と悪を、生と死を、この世とあの世を。松明、一徳火などの灯明など、修二会にも様々な火が登場する。しかしながら、自らのお堂を焼き尽くしてしまうこの逹陀の火だけは別だ。あのステップとリズムは何だ。ペルシャ・ゾロアスター教伝播説にも一理ありと言わざるを得ない。そのような「血」が何かしら中国に流れ込み、これの影響下に逹陀がある、と思わざるを得ないのである。

 思えば、ニッポンは「最新流行」を常に追う国である。いまのアメリカニズム追随に始まったことでなく、古代においての「唐イズム」こそ狂乱のものであったろう。たとえば、神社の朱塗りは中国風の鶏の「生き血」塗りの流行りである。伊勢神宮ですら、そうしていたという。グローバル・スタンダードは、悲しいかな、昔もいまもニッポン人が追う「シルクロード」なのである。


▼神仏習合としての、あるいはニッポン教行事としての修二会

 先に書いた小論のやや再説になってしまうが、「お水取り」を含めた「修二会」全体のまとめに入りたい。神を助ける仏、そして仏を守る神、助け合う神仏。ああ、素直に「日本的美徳」ではないか。若狭から聖水をお送りなるという遠敷社、それから飯道社と興成社の三社は二月堂を守護し、修二会成就を助ける。

 修二会を行なう二月堂は何重にも結界される。それを担うのは、注連縄(〆め縄)である。行中、咒師という雑密師が常に怪し気な行動を取り、また先導するが、中でも本行に先立つ大中臣の祓い、悔過行での神仏勧請、そしてお水取りは、言わずもがな彼の神仏習合という出自を明らかにしている。その上、連行衆は各人が御幣を持ち、都度つど自らを祓い清めるという。

 お水取りとは、観音に香水を捧げる仏事と同時に若水汲みという「神事」でもあるのは明白だ。つまり、お水取りとはニッポン教の新春行事でもあるのだ。

▼修二会とは何か

 では、締め括ろう。修二会の他に、修正会というものもあり、これは一月の法会である。修二会はインドの「正月」(どの月から一年を数えはじめるかによって「正月」は何月にでもなり得る)が二月だったから、その新年法要が移入されたものだということになっている。実際、天平時代の諸大寺では新春法要が盛んであった。今でも南都古寺を中心に修正会、修二会が行なわれているのはそのせいだ。

 迎春行事であることを証するのは、修二会は「春の花祭り」の性格を持っていることだ。東大寺修二会では椿の造花造りが恒例である。造られた椿は、内陣須弥壇に飾られる。薬師寺「花会式」も実は修二会である。さらに法隆寺西円堂の「追儺会」(年越しの鬼祓い)、興福寺の薪能も元は西金堂の修二会の一行であった。つまり、修二会は「修正会」(新春法要)でよいものが、流行最新の「インド風」に二月に行なわれ始めてしまったのだ。

 しかし、東大寺修二会を迎春法要としてしまうことは、光明皇太后との機縁から言えばやや違う思いが残る。と言うのも、この悔過が「十一面神咒心経」に則って行なうのは、国家国民(光明子にとっては藤原氏が担う国家と亡き基王を始め藤原氏一族)の罪を十一面観音に懺悔し、業苦からの離脱を祈願することが第一であるからだ。そのための対象者リストが「過去帳」である。しかし、迎春、すなわち新年を迎えることこそがニッポン人にとって、そういう「悔過」の絶好のタイミングであったことから言えば、迎春「神事」とも「習合」することは必然であったのだろう。


[主な典拠文献]
head
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved