mansongeの「ニッポン民俗学」

クマノ・マジカル・ミステリー・ツアー




後鳥羽天皇像(清浄光寺本)
▼後醍醐天皇における秘教的神仏習合

 網野義彦氏のベストセラー『異形の王権』でことさら知られるようになったものに、鎌倉幕府を滅ぼし建武中興を成就した後醍醐天皇(在位1318〜1339年)の「異形」の姿がある。それは清浄光寺本と呼ばれる肖像画である。頭上に冕冠(べんかん)十二旒(りゅう)という中国風玉冠をかぶり、その上には真紅の日輪を戴いている。そして帝の上方には「八幡大菩薩」「天照皇大神」「春日大明神」の三社託宣が掲げられている。ここまでは神道と言えば神道である。だが、これで終わらない。

 後醍醐帝は僧形、いや仏の化身でもあるのだ。仏が座す礼盤(らいばん)と呼ばれる獅子を踏みつけた壇上に、これまた仏の座す八葉蓮華の敷物を敷いて坐す。その右手には五鈷杵(ごこしょ)を、左手には金剛鈴を把持される(これは真言密教第二祖、つまり大日如来の嫡弟子・金剛サッタと同じスタイルだ)。そしてその玉体を被うのは、三国相承之乾陀穀子という「王の袈裟」である。さすれば、三社託宣の意味も密教で解き直さねばならない。
(注)
真言密教付法八祖は、大日如来 → 金剛サッタ → 竜猛(竜樹) → 竜智 → 金剛智 → 不空 → 恵果 → 空海、である。
 真言密教に基づく両部神道によると、天照大神は大日如来の化身である。つまり後醍醐帝は、頭上に皇祖神の血統と密教の教主・大日如来の付法を受け継いで日本に現れ出た絶対王者として自らを定めたのである。この肖像画は、帝が神道と密教により王権と国家を護持することを文字通り体現する姿である。あるいはこう言っても良い。ここまで神仏習合が進み、密教的仏教なくしては日本の霊的呪術的な統治が不可能となった結果なのだと。

▼密教修験・宇多法皇

 本来、蕃神であるはずの仏や菩薩を深く日本の中に摂り込んだのは、言うまでもなく聖徳太子である。また、仏教を秘教的に変容させようとしたのは聖武天皇であった。しかしこの後醍醐帝の姿につながる、密教的神仏習合を王者の業として導いたのは、平安前期の宇多法皇である。

 第五九代宇多天皇は、仁和三(887)年〜寛平九(897)年まで十年ほどの在位であったが、かの菅原道真を右大臣にまで挙用したことが特に著名である。皇子の醍醐天皇に譲位して出家(東寺で東密灌頂、東大寺で受戒)し、治世の年号から「寛平法皇」(かんぴょうほうおう)と呼ばれた。「法皇」の称の始まりである。これは仏門に入った上皇(太上天皇)という意味だが、宇多帝は退位後、自らが創建した仁和寺に移り住んだ(御室御所と呼ばれた)。

 法皇は、崩御までの三十余年を神仏習合した真言密教の修行に費やした、日本の霊的守護者であり領導者であった。法皇は供一人だけを連れ、吉野・大峯、さらには熊野を駈けめぐる。これは修験であり、その目的は王権の霊力を高めることであった。当時、日本の世はケガレに包まれていた。天災や火事、不作に疫病、怨霊による崇り、そして叛乱などが続いていたのだ。紀伊半島南端の熊野にまで足を伸ばした貴人は、宇多法皇が嚆矢である。言わば、法皇が熊野を聖地として再発見したのだ。

▼熊野への先達

 延喜元(901)年、右大臣菅原道真は藤原時平らによって大宰権帥に左遷される。二年後にその地で没し、日本最強の怨霊神となる。承平五年(935)には、坂東の地で平将門が争乱を起こし、挙げ句の果ては自ら皇位に就いて「新皇」と称する。しかも、将門に皇位を授けたのは、応神霊の本地にして菩薩として成仏修行する神・八幡大菩薩であり、その位記(辞令)は何と冥界の道真公の筆になるものであった。

 道真より二歳年下で同じく文章博士を務めた学者に、三善清行がいる。彼はどうやら左遷陰謀に荷担したようである。贖罪というか祟りからの護身が動機であろうが、二人の息子を仏門に捧げている。しかも、修験宇多法皇のもとにだ。兄弟の名は、浄蔵、道賢(後ちに日蔵)と言うが、法皇の領導下長年にわたる仏道修行(密教であり神仏習合であり修験道である)の末、怨霊の慰霊や王権の霊的防衛などの務めを見事に果たした。

 兄の浄蔵は、延喜十五(915)年に熊野那智に入山し、大滝の滝本で三年間修行して、験力を蓄えた。そして平将門の乱に際しては、大威徳法という朝廷の怨敵調伏のための秘法を呪して、その一年後には藤原秀郷に将門の首級を上げさせている。また、話は前後するが延喜八(908)年、陰陽師の必死の祈祷にもかかわらず回復の兆しが見えない病床の藤原時平に、浄蔵は加持祈祷を修している(密教の優位)。そういう中、見舞いに訪れた三善清行のもとに道真公の霊が現れ、これが復讐であることを告げる。が、結局、翌年に時平は死去する。

 清行は次は我が身かと、さらに弟の道賢を宇多法皇のもとに送ったわけだ。道賢は吉野金峰山で26年に及ぶ修験行に励み、ついに冥界で道真公の霊と出会う。この冥界行のとき(天慶四年・941年)、道賢は亡き師・宇多法皇の霊にも会っている。そこで法皇は、道真公の霊格を太政天神と証しているが、自身は金剛覚大王とも満徳法主天とも呼ばれている。

 ずいぶんと回り道になったが、ここまで述べてきたのは修験の宇多法皇こそ、熊野への「先達」(熊野詣の案内修験僧)であったということだ。宇多法皇の後を承けて、花山法皇、院政の白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の各上皇が熊野に御幸(ごこう)する。その間に政権は武士の手に移るが、鎌倉時代になっても貴人たちの熊野詣は続いた。それどころか、ますます広がりを見せた。初めに紹介した後醍醐天皇の姿は、この延長線上で捉えられねばならない。
(注)
後醍醐帝の「後醍醐」には、宇多法皇の皇子・醍醐帝の御代に倣うという強い意志が込められている。しかも、後醍醐帝は自らこれを定めている。というのも、天皇の諡号(しごう)は通例、今上帝(きんじょうてい;現帝)が先帝におくるものだからである。
▼いざ、熊野三山へ

 いよいよ熊野三山へ向かおう。しかしながら熊野詣はなかなかの難行である。熊野は記録の少ない謎の国だ。思わぬ道に迷い込むかも知れぬ。その場合、参詣の案内は古来よりの慣例にしたがい、皆さまの先達である筆者の知識と霊感にすべてお委ねいただかねばならない。お覚悟を。

 熊野社は紀伊半島の南東部にある(できれば、地図帳をお広げ願おう)。まず、黒潮が洗う熊野灘に臨むようにしてあるのが、三社の中では最も東方に位置する「新宮」と通称される熊野速玉神社である。その南西に、那智の大滝をご神体とする熊野那智神社と神宮寺の西岸渡寺がある。そしてその北西の内陸に「本宮」と呼ばれる熊野坐(います)神社が鎮座する。これが熊野三社である。

 中世以降「熊野三社権現」と一括して呼ばれ、内実としても神々を相互に祀り合う関係にある三社であるが、その起源は異なる。本ツアーはおのおのの神仏の起源を探ることに主眼をおきたい。上皇たちの御幸は、主に「紀伊路」(大阪から和歌山へ)から「中辺路」(田辺から本宮へ)と呼ばれる参詣道を通ったが、私たちは三つの参道を行く。すなわち、海の道と山の道と川の道だ。

 その前に少し講釈を垂れておこうか。そもそも熊野とは何か。旧行政区分の紀伊国牟婁(むろ)郡にほぼ相当し、現在の和歌山県南部から三重県南部にかけての地域を指す。ここは律令制以前は、熊野国造が支配する地であった。『先代旧事本紀』には、饒速日(にぎはやひ)命の子孫が国造であったとの記述がある。「くまの」とは、隈(くま)の野であり、奥まった未開地と言う意味だ。また、牟婁郡の「むろ」は、みむろ(御室)に通じ、神や貴人がこもる奥まった聖所という意味だ。ただし、熊野という地名は他所にもある。


ゴトビキ岩(神倉神社)
▼熊野灘のランドマーク:磐座(いわくら)

 さて、海の道から熊野に近づこう。船で黒潮に乗り、リアス式海岸の熊野に近づく。すると、新宮付近を中心に何かが目に飛び込んでくる。あれは何か。右手に高さ70メートルほどの巨岩(崖)が、左手の山中にも大岩が見え、その山のすぐ右横で熊野川が海に注いでいる。さらに左手奥には一本の滝糸が望まれる。巨岩とは花の窟(はなのいわや)、大岩とはゴトビキ岩であり、滝糸とは那智の大滝に他ならない。紀記にあるように神武帝がここに来ていたのなら、よい目印になったことだろう。

 このあたりは紀記神話に彩られている。花の窟(社殿のない神社)はイザナミ命の墓とされ、付近の産田神社の巨石はイザナギ命がふさいだ黄泉の国の境とされている。また、ゴトビキ岩は神武紀中の「天磐盾」(あまのいわたて)に比定され、神武紀に従えば、神武帝が兄たちを亡くしつつも高倉下(たかくらじ)に助けられ奮戦した舞台は、現新宮市から海岸沿いに北の熊野市あたりまでと思われる。

 さらに縄文・弥生時代に遡り得る遺跡は、熊野市鬼ヶ城あたりに多数見られる。鬼ヶ城というのは浸食海岸(岩塊地帯)で、そこに自然にできた洞窟では風葬が行なわれていたものと推測されている。常世(とこよ)への葬送である。後ちに、那智で観音浄土をめざした補陀落渡海がさかんになるが、その淵源はここにあろう。

 すなわち、太古の熊野には熊野灘に面した海岸地帯、新宮から現熊野市あたりを中心としたクニがあったものと想像される。その信仰は磐座(いわくら)と常世を軸とするものである。磐座とは神の依り付く岩などのことであるが、もちろん記紀神話以前の信仰である。熊野の磐座が記紀神話と結びつけられているのは、ある時期に熊野全体が「記紀=天皇神話体系」に組み入れられたからだ(後述しよう)。

▼常世の日本人と聖なる方位

 常世とは、ひとまず竜宮である。記紀で、天の高天原と地の葦原中つ国を結ぶ物語が日向神話であるが、この神話群は常世を背景に描かれている。神武帝の祖父母はホホデミ命とトヨタマ姫であるが、そのホホデミ命とは「山幸彦」である。そしてトヨタマ姫は、竜宮にいた海神の娘である。姫は、やがて神武帝の父になる子を「ワニ」(サメ)の姿に戻って出産したという。

 この系譜からわかるように、天皇は天孫と海神の子孫なのである。これは日本人の生命の出自が常世としての海にあることを示している。まさに「妣(はは)が国」としての常世である。熊野ではこのような「あの世」(生まれる前の世界であり死んだ後の世界)として海が意識されていたことだろう。あの世とこの世を往還するスクナビコナ神はこの形象化である。付言しておくが、常世には「黄泉の国」に付きまとう暗さはない。熊野は本来、明るい。

 熊野は南東(〜南)に海が開けている。これは重要だ。この方位に常世がある。そして太陽が常世から日々昇り、また海に沈んでいく。天皇神話はこの方位を奪うために、熊野を盗んだとも言える。熊野の北東に位置し「常世の波が寄せる」伊勢は、東の方位において熊野の常世と太陽を天皇神話に取り込んだ聖地である。

▼記紀神話の方位学

 記紀神話は方位によって秩序づけられている。さすがに「日本」(ひのもと)という国は、日の昇る「東方」が第一に聖なる方位である。黒潮の寄せる北端部(常陸・犬吠岬)近くに、天つ神きっての武神タケミカズチ神(鹿島神宮・茨城県)とフツヌシ神(香取神宮・千葉県)が配されている。実は、熊野で難渋していた神武帝を救ったのは高倉下のもとに下ったフツヌシの剣であった。

 伊勢は奈良(都)から見て、東である。これと対になるのが西方の出雲である。ご存知の通り、この対は「天つ神」と「国つ神」という記紀神話を貫く中心軸である。支配する神や人は前者につながり、支配される神や人は後者に結び付けられた。

 さらに、日向(ひむか;日に向かう方向、東)は九州の東方にある。たいへん興味深いことに、天つ神の聖所である日向・伊勢(熊野)・常陸と並べてみると、見事に黒潮の流れに沿っている。天(あま)は海(あま)に通じていると言わざるを得ない。

 東が陽なら、当然西が陰となり、実際出雲がそうである。「ひむか」が日向なら、その反対は「ひのかげ」である。それが日隈(ひのくま)であり、それは西方になければならないはずだが、実際にあるのだ。紀伊半島をはさんで、東の伊勢に対して、西の裏伊勢とでも言うべき位置に当たる和歌山市に、日前神社がある。字面とは逆に何とこれで「ひのくま」と読むのだ。あまけにここには伊勢神宮の神鏡と同時に作られたという鏡まである。

 「熊野」(隈野)という言葉の含蓄も、読者諸賢にはだんだん明らかになってきただろう。これは自ら名付けたものではなく、強いられた名だということも。

▼「新宮」の正体

 ここで、目をゴトビキ岩に戻そう。ゴトビキとはひきがえるのことなのだが、この磐座はその通り巨大なカエルが座ったような格好をしている。ここは新宮市内は神倉(かみのくら)山の神倉神社である。祭神は例の高倉下命で、熊野速玉神社の摂社となっている。この磐座が神武紀では「天磐盾」と呼ばれたことはすでに述べた。実はこの神倉神社こそがこの神域での「本宮」(もとのみや)である。そして速玉社が「新宮」と呼ばれるのは、神倉社の新拝殿というのがの原義である。

 速玉社の摂社にいま一つ有名なものがある。阿須賀(あすか;聖なるの意)神社と言うが、速玉社や神倉社の東側、熊野川により近い所にある。ここは蓬莱山(ほうらいさん)という小山で、もとは島だった。この島は徐福(じょふく)伝説の島でもある。徐福とは、秦の始皇帝の命で、不死の仙薬を求めて東方の蓬莱山(日本)に渡来したと伝えられる人物である。「蓬莱」とは道教の仙界であり、これが常世信仰と混じり合ってこの地に受容された伝承である。

 阿須賀社(ここにも三つの巨石がある)の祭神は事解男(ことさかを)神と言うが、これは高倉下命と同じく、記紀神話に組み込まれたときに習合させられた神だ。私見ではこの社の神こそが「速玉」の名にふさわしい。速玉とは何か。すばやく動く霊、魂振れる神である。そして熊野川を速やかに流れ、水や幸をもたらし、常世に向かう神である。阿須賀社はその神を川中の蓬莱山で、その源である「川上に向かって」祭る社である。

 では、神倉社や速玉社とは何か。神倉山の神は、この地域の他の磐座と同じく、常世の神である。その神を、常世の方すなわち熊野灘を望むようにして祭るために新宮が必要となったのだ。速玉社は神倉山の向こう側にある。速玉社は神倉山の磐座を通して、常世を望む拝殿なのである。院政期の修験者もこの磐座こそが聖所だと知っていた。彼らは「神倉衆」と呼ばれ、神倉山に聖堂を建て、権現を祭っていた。

 熊野川を遡った「本宮」まで、あと少しなのだが、ここらでいったん那智に向かいたい。

▼那智への山の道:辺路(へち)

 古代の都から那智へは山の道が続く。ただし、山の道と言っても「奥駆け」(吉野・大峯から熊野本宮へ抜けること)ではない。三山が関連づけられるまでは、紀伊半島の海べりを延々とたどる辺路(へち)という山の道が、那智への道である。

 さて、仏教公伝は六世紀のこととされている。しかし、「民伝」(民間ベースの流布)は当然これに先立つ。初期の「仏教」の雰囲気をよく伝える人物に役小角(役行者)という訳の分からない人物がいる。彼は、仏教功徳を説く『日本霊異記』という奈良時代の書物に取り上げられているように、一応「仏教者」ということにはなっている。が、そこでの活躍は、鬼神に命じて大和葛城山と吉野金峰山に橋をかけさせようとするなど、一言で言うと呪術師ないし魔術師のようなものだ。だいたい、役行者ら当時の「仏教者」たちを描いた『日本霊異記』自体がひどく呪術的で怪しげなものである。

 それは雑密(ぞうみつ)と呼ばれる、早くも神仏習合的な修験密教である。と言うか、日本古来からの多様な民俗信仰が民俗密教(これが雑密)の図式と意匠(衣装でもあるか)をまとったものだ。この日本人の信仰とインドの密教をつないだのは、中国の民俗信仰である道教や陰陽道である。まず、道教が日本人の信仰と習合し、その上に中国人によって染色された仏教(密教)がさらに習合したのだ。こういうふうに習合に習合を重ねる歴史が、日本人の信仰の運命である(日本の思想は「地層の歴史」というアナロジーで考えることができる。堆積し褶曲し、断層が生じる、というふうに)。
(注)
「役行者」を一人の歴史的人物とする必要はない。多くの「役行者」が、しかもずいぶん以前からそのような行者たちが確かにいたのだ。そのうちの一人が『続日本記』に残る「役行者」である(彼について語れば、また一篇の物語となってしまう。残念ながら、ここでは思い切って割愛する。いずれ、修験道というテーマで出会わねばなるまいし)。
▼苦行滅罪の地を求めて

 この役行者が日本修験道の祖ということになっている。大和葛城山(今の金剛山を含めて言う)に住み、吉野金峰山や大峯山を開き、さらに熊野権現に参詣した(『大峯縁起』による)という。その彼は『日本霊異記』中で、「優婆塞」(うばそく)と呼ばれている。この言葉はサンスクリット語 "upasaka" の音写で仏教の在俗信者のことを言うが、日本では在俗の「行者」という意味でも使われる。そう、「彼ら」は仏教者と言うより、山の行者・修行者たちなのである。

 常世は海だけにではなく、山にもあった。はるかなる海の常世は、通常の修行には向いていない。修行とは結局のところ「死んで生まれ変わる」ことなのだが、海の常世へ行ってしまえば今生には戻ってこられないからだ。その点、山の常世は「戻ってくる」修行には絶好だった。こうして仏教者というか修験や行者たちは、様々な装束(信仰の姿)で山に向かった(それでも、山の常世を往生の地とした者たちが後述するようにいて、それが記録に残っているが)。

 彼らは仏教めいた思想の下、苦行滅罪の地(常世・あの世・浄土)を求め歩いた。苦行滅罪とはわが身を苦しめることで自身やこの世の罪を祓うことだ(仏教的な罪と日本的な祓いの習合)。そして修行は、行者についに仮の死(一時的に常世や浄土に参入すること)をもたらし、行者はこれを経て験力や法力を得た験者として現世(この世)に再生する(仏教的な成仏や往生と、日本的な黄泉[よみ]帰り・死と再生の習合)。

 すると、修行は難行であればあるほどよいということになる。その通りである。そして山の道ならぬ道を難儀して行くことはそのまま修行であった。都から南へ向かった行者たちは紀伊半島を海べりに南進し、いつしか最南端の潮岬をも越え(後ちの「大辺路」の道をたどり)、那智の妙法山に至る。「妙法」とは蓮華経のことだ。ここには阿弥陀寺という寺があるが、山頂には法華経の教主・釈迦如来像が祭られている。那智は法華経の行場として開かれた。


那智参詣曼茶羅(國學院大學図書館蔵)
▼法華経の聖地:那智

 『日本霊異記』に、熊野山中で修行した法華行者の話がある。当時この地の村にいた永興という僧のもとへ、ある法華行者が教えを乞いに来て、一年をすごし立ち去る。その後、山中に法華経を読む声が絶えず聞こえるというので、永興が見に行くと、かつて自分のもとを訪れた修行者の死骸が崖に吊り下がっていた。三年後、なおも誦経の声がするので永興が再び行くと、ドクロの中に舌だけが朽ちずにあった。という法華経の霊験を説く話だ。ここで言う「熊野」とはどこかわからないのだが、那智・妙法山とも思われる。

 この他にも、熊野に参入したと記録に残る法華経修行者には、壱叡、道公などがいる(この「熊野」とは那智から新宮あたりを指すものと思われる)。また、阿弥陀寺には、唐から来朝した応照上人の火定跡がある。火定とは、生きながらに身を焼き、阿弥陀浄土へ往生することだ(私たちの言葉で言えば、焼身自殺)。妙法山は、やはり山中浄土(あの世・常世)であった。

 那智は確か、観音の補陀落(ふだらく)浄土に比定されているはずだ。それがなぜ法華経や阿弥陀浄土なのか。修験的法華信仰では、大和葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土としている。いや、それより、奈良時代以前の仏教を想像しなければならないだろう。この時期の法華経や阿弥陀如来を、中世の日蓮が創唱した法華経信仰(日蓮宗)、また末法思想と念仏普及後の阿弥陀浄土のイメージで捉えることは誤りである。何でもありの日本的雑密の中で、前者は最強の呪術法典として、後者は山中浄土の主神として、すでにあった固有の祈祷や自然神と習合したのだ(言わば、宮沢賢治の法華経が生きている時代であった)。

 法華経は歴史を通して日本人に最も信奉された経典である。それは自ら「最終経典」を名のるもので、多様な仏説を包含しており、実は『観音経』は法華経の一部である(それが「観世音菩薩普門品」)。それに、観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍でもある。

 こうして、阿弥陀浄土の妙法山を背景に、大滝の神(荒魂)が観音の権現として認識される。これを観音菩薩(和魂)として祭るのは、那智山青岸渡寺(開山は行者・裸形上人)である。これら那智の「常世=浄土」である山中は、日本的法華思想におおわれた修験霊場であった。ここには、「滝籠衆」と呼ばれた神仏習合の行者たちが多く参集していた。なお、妙法山は後ちには「女人高野」と呼ばれ、高野山に登れぬ民衆にとっての山中浄土であった。

▼那智の大滝

 那智の中心は言うまでもなく、大滝である。上記のように大滝の神は、習合して観音の化身・飛瀧(ひろう)権現となるが、もちろん習合以前の前身がある。熊野三山でもっとも早く仏教の波が及んだのはこの那智地域だが、それ以前から大滝の神は坐した。

 大滝は日本固有のカミ(超常的なるもの)そのものである。かつて古代人がこの瀑布を見たときの感動の大いさは、この滝を間近に仰ぐとき、現代の私たちにさえ自然と湧き起こる厳しさと清らかさからわずかに想像するばかりである。

 この神は拝むものであったのだろうか。そうでもあっただろうが、同時に滝は常世への門でもあった。これが滝での修行の意味である。常世に参入し、再びこの世に黄泉帰るという「死と再生」の荒行が、仏教浸透以前からここでは行なわれていたはずだ。だからこそ、習合もスムースに進んだのだ。

 記録に残る、大滝で一千日(三年)の滝ごもりをした著名な修行者を三名挙げておこう。まず、冒頭に述べた宇多法皇の弟子・浄蔵だ。次に、花山法皇(この方が先達宇多法皇によって残された那智御幸の先鞭をつけられた)。そして、文覚上人である。文覚が滝中で不動明王の侍者・コンガラとセイタカ童子に助けられながら修行する姿は、熊野比丘尼が全国勧進行脚に持ち歩いた「那智参詣曼荼羅」の絵にも描き込まれていて有名である。

 余談だが、文覚はもと北面の武士で俗名を遠藤盛遠と言った。同じく北面の武士出身で出家した同時代の先輩に、西行(平将門を討った藤原秀郷の後裔・佐藤義清)がいた。血気にはやる若い文覚は、西行を出家なのに和歌なぞを作る軟弱で生意気な奴だと決めつけ、会ったら殴りつけてやると息巻いていた。ところが、会ってみると、優美な歌からは思いもつかぬ骨太の武者そのもので、自分こそ殴られそうだと、すっかり調子が狂ってしまった、と言う。この二人とも立派な「行者」である。


補陀落山
▼観音浄土への補陀落渡海

 大滝の神が飛籠権現として青岸渡寺の観音と一体となったとき、ここは阿弥陀浄土である妙法山に続く、観音の補陀落浄土となったはずである。しかし滝の水は那智川を下り、熊野灘に注いでいた。観音信仰のもう一つの経典『華厳経』には、観音菩薩は南方海上の補陀落(ふだらく "Potalaka")山に住むとあるのだ。こうして、観音浄土は海の常世と習合する。那智の南海に臨む地には、浜の宮王子と補陀落山寺がある。補陀落山寺の住職たちには、浄土への渡海という苦行滅罪の旅が課せられていた。九世紀から何と十八世紀まで渡海行は続けられ、多くの僧が死出の旅に向かった。

 ついでだが、「日光」のもとの字は「二荒」で、訓読みでは「ふたあら」である。これも "Potalaka" の音写である。つまり日光も、もとは観音浄土信仰の地であったのだ。日光には中禅寺湖と華厳の滝があり、那智には熊野灘と大滝がある。観音は水に関係がある。それは古体では龍あるいは蛇である。大滝にはナーダ龍王が住むとも言う(こう述べていて、しきりに宮沢賢治を想い出すのは筆者だけであろうか。賢治には『竜と詩人』という童話もある)。

 かくして那智の山も海も滝も川も、仏教浄土と化していく。先行したであろう山中阿弥陀浄土は、いつか海上補陀落浄土に飲み込まれて、那智は全山、観音信仰の地となっていく。そして、仏教は海沿いに進み、那智東方の新宮の常世も、浄土と解釈され直していく。既述の熊野川河口の蓬莱山や神倉社からは、平安時代以来連綿と埋蔵されてきた経塚が見つかっている。ともあれ、都から南方の熊野は浄土と理解され、とりわけ那智は補陀落浄土そのもの、あるいはその入り口と見なされていく。

▼「本宮」の神の正体

 お待たせをした。いよいよ川の道を、すなわち河口の新宮から熊野川をさかのぼり、残された聖地・本宮へ向かおう。後ちの通称「本宮」の神の本当の名は、牟須美(ムスビ)または「熊野坐(くまのにイマス)神」である。この神の秘密は、実は「新宮」にある。新宮とは既述のように、その本社は神倉社であり、もと川中の阿須賀社の神である。それは、常世の神であり、かつ川を流れる速玉の神であった。

 では、その神はどこから流れ出すのか。どこを本源とし、熊野と常世を往還するのか。熊野川をさかのぼると、音無川と岩田川との合流地がある。これら三つの流れが作った中洲が、本宮の神の坐す大斎原(おおゆのはら)である。つまり、水分(みくまり)の神こそが本宮の神の正体である。
(注)
現在の本宮は、明治二二年の大水害で社殿が倒壊してから北隣の地に再建されたもので、まことに残念ながら大斎原にはない。
 だから、本宮の神は新宮の神と同体なのである。神の恵みである水が流れ出す所、それがムスビ(霊産)の意味である(ムスビとは固有名詞ではなく普通名詞)。そして、その水源こそが熊野地域と熊野川のへそであるから、「熊野坐神」、すなわち熊野の真ん中にいらっしゃる神なのである。本宮は速玉神の奥宮なのだ。こここそ、ムロ・室・牟婁と呼ぶにふさわしい。そこはもう一つの常世(さらに浄土)であろう。また、水分の神は山の神でもある。ここが、後ちに修験道のセンターとなったのも至極当然のことである。

 ちなみに「坐す・います」とは、日本の神の最も原初の姿を言い表す表現である。日本の神は、その地の自然そのもの、固有地に属するものなのである。神は言わば、その土地土地の風景の中に住まう。だから、もともとは固有名をもたず、例えば「熊野にイマス神」というように地名こそが神名となる。

 何のことはない。熊野本宮の神とはこれだけのことである。後ちの熊野三社権現の「本宮」としての隆盛は、もっぱら本山派(天台宗園城寺・寺門派の聖護院が本山)修験僧たちの活躍による。大峯・吉野金峰山への奥駆けは、この本宮から始まる。いわゆる順峯(じゅんぶ)のルートである。一方、真言宗醍醐寺三宝院を本山とする当山派修験は吉野金峰山・大峯から本宮への逆峯ルートを縦走した。本宮を根城とする修験を「長床衆」と言った。長床とは、本宮拝殿の大きさの謂だ。

▼三社化---神々の連合と交換、三山浄土

 以上のように、新宮と本宮の神はまず日本的な神として認識された。それに対して那智は仏教がかった権現や観音として捉えられ、前二者との関連は薄かった。しかし奈良や京都の都から見れば、三社とも南方の熊野地方に位置し、また、神仏の別ではなく霊験ある者こそ神とする修験者たちもこれらを相互に関連づけていった。こうして平安後期には、神仏の相互浸透と三社の連合が進み、修験連合組織「熊野三所権現」が成立する。

 その表現方法は、例えば「権現」などと言う風に、理屈に長けた仏教流で行なわれた。そしてその内容は、熊野全体が浄土(常世)であり、最奥の坐社を西方阿弥陀浄土とし「本宮」と呼び、河口の速玉社を東方薬師浄瑠璃(じょうるり)浄土とし「新宮」と呼ぶこと。那智大滝神には「結」(ムスビ)という名を与えて、観音補陀落浄土とした。さらに、社殿や祭神を相似形にし、主祭神を相互に祭り合うことにした。

 実は、三浄土の割り当て順序は逆だ。述べてきたように、那智の観音浄土化が最初だ。浄土思想の広がりが、那智の北東に位置することから、新宮を薬師浄土にしたのだ。本宮も那智から見て、北西にあることから、阿弥陀浄土と決まった。那智の法華観音信仰なくして、「熊野三所権現」はなかったのだ。その代償ではないだろうが、本宮・坐社の名「ムスビ」が、那智社に譲られている。こうして、三社とも仏格・浄土と神格を調えたわけだ。

 神格の記録を見ておくと、天平神護二(766)年、速玉社とムスビ社(本宮)に封戸(所領)が与えられたという記事(『新抄格勅符抄』)が熊野の初出である。次いで位階の記録として、天安三(859)年、すでに従五位上にあった二社が、一気に従二位にまで進められたとある。常世(浄土)信仰の高まりがこの急上昇を呼んだのだろうか。それからこのとき以降、ムスビ社はイマス社と呼ばれ、ムスビの名は忘れられていく。

 貞観五(863)年、ちょっとした異変が起きる。速玉社が正二位に進められ、イマス社は従二位に止まったのだ。その後も、それぞれ従一位、正二位と、1ランクの開きがあり、天慶三(940)年にめでたく共に正一位に至る。同体からしだいに別神格として整い、それでも速玉神の先行性や主導性が認められ、最終的に同格とされたのだろうか。いずれにせよ、那智の神は登場せず、「熊野三所権現」の一つとして現れたときには「結」神と呼ばれ、坐神は「家都御子」(けつみこ)という名で流通している。

本宮・熊野坐神社新宮・熊野速玉神社熊野那智神社

▼記紀神話と熊野

 ここで、記紀神話と熊野という問題に入らねばならない。天皇神話が記紀としてまとめられると、日本の神々は天神地祇に、つまり支配する「天つ神」と支配される「国つ神」に分かたれることになった。天つ神の主神は天照大神、国つ神の主神は大国主である。国つ神とは、天つ神が天下る(あまくだる)以前から日本国土(葦原中つ国)に坐したすべての神々である。この分類からいくと、熊野三神も当然、国つ神である。

 しかしこれはずいぶんとおかしな話なのである。なぜなら天つ神なぞ、このとき創られた神々なのだから。逆に言うと、国つ神とは創られなかった神々すべてである。それでもまだまだ話は複雑だ。現実の国つ神はほとんど登場しないからだ。例えば、出雲に「大国主」なぞという神はいない。その子「事代主」もいない。紀記神話には、先述の方位学などのもと、各地の神々の名を象徴的隠喩的に用い、天皇神話として統合しようとする意図が強く働いている。

 さて、天孫ニニギ尊が日向の高千穂峰に降り立つ前に、天下った天つ神がいる。饒速日(にぎはやひ)命(物部氏の始祖とされる)だ。ニギハヤヒは河内高安山から大和(奈良盆地)に入り、そこでナガスネ彦の妹を妻にした。そのナガスネ彦は大和に入ろうとするイワレ彦(後ちの神武天皇)たちの東征軍を撃退し、遠く熊野回りを強いた張本人である。イワレ彦の長兄・五瀬命はこのときの傷がもとで、熊野への迂回中に亡くなっている。

 すでに述べたように、イワレ彦は新宮あたりで難渋し、そこでも別の二人の兄たちを失っている。その危難を救ったのは神倉社に祭られる高倉下命(「高倉」とは立派な倉を言うのであろう。中国江南・弥生倭族の血を感じさせる)であった。この高倉下は、実はニギハヤヒの子である(『先代旧事本紀』)。そして高倉下は熊野にではなく大和葛城地方にいたと思われるのだが…。

 その後、イワレ彦は、大和に向かい山中で迷っていたが、天照大神・タカミムスビ神が遣わした八咫烏(やたがらす)に導かれ、大和の宇陀へ抜けることができた。そして大和を平定したということになっている。この記述を信じると、イワレ彦は熊野山中を越えて行ったとしか思えない。しかしこれは本当に可能だったのだろうか。

▼熊野と葛城

 イワレ彦の自然な進軍ルートを考えよう。大和西方からの進入が失敗したら、南回りをすること自体は不思議ではない。しかし紀伊半島最南端まで行くことはない。紀伊国北端部を東西に流れる紀ノ川をさかのぼればよい。大和に入れば、そこは葛城の南方であり、さらに進めば吉野である。

 『先代旧事本紀』に従えば、高倉下の二人の息子は共に葛城氏の姫を妻とし、また孫の一人も姫を葛城氏の妻としている。それから、日本書紀には神武帝即位後の論功行賞に際し、剣根を葛城国造に、また八咫烏を賞したとある。剣根は高倉下の次男の妻の父である。八咫烏については、書紀に山城国の鴨(かも)県主の祖と記し、『新撰姓氏録』では鴨建津身命が烏に変化し神武帝を導いたのだとある。鴨氏は葛城が出自の豪族であり、その分枝が山城の賀茂氏である。

 それに、第十代崇神天皇以降の王宮が東の三輪山寄りに築かれたのに対し、神武帝と「欠史八代」とされる九代の天皇の王宮は西の葛城山寄りに築かれ、書紀によれば第六代までの歴代天皇は葛城の豪族の姫を皇后に迎えていることから、一名「葛城王朝」と呼ばれている。つまり、イワレ彦は紀ノ川をさかのぼり葛城の南方に至り、北方への山越えの際、鴨氏の八咫烏によって導かれ、高倉下たちがいる葛城にたどり着いた。そこで、葛城の豪族たちに助けられて即位。その論功行賞を行ない、しばらく「葛城王朝」を営んだ。と考えるとスムースなのである。

 長々と、熊野ならぬ葛城の物語をしてきたが、こう問うためだ。では、なぜイワレ彦、いや神武帝は熊野から大和をめざしたのか。まず、神武帝自身が説明している。「自分は日の神の子であるのだから、日に向かうのではなく日を背にして戦おう」と(古事記では長兄・五瀬命のセリフ)。これは紀記編纂時の天武-持統帝の日輪信仰に多くを負っている。天皇号や日本国号、日の神・天照大神の創造や伊勢神宮の成立は、道教を信奉した両帝によるところが大きい。

 次に、この南という方位は常世(霊的エネルギーの源)の方向だ。持統帝の藤原京は、京城自体では霊的には完結していず、南方の吉野山に支えられていた。女帝は霊的エネルギーを、絶えず吉野山に求めた(道教では「南」は再生の方位である)。これは聖なる神は南方の常世より来たるという信仰、とも解釈できる。そうであれば、聖なる「初国(はつくに)治(しら)す天皇」は、確かに最南端からの北上がふさわしい。
(注)
日本人にとっての「南」と「東」の特異性は、太陽の方位であるとともに、無限の海にある。南方および東方の海の果てしなさが永遠の常世の属性だ。
▼出雲神話と熊野

 記紀神話の出現は、一方的に「国つ神」と規定された各地の神々に甚大な影響を及ぼしただろうことは明白だ。例えば、葛城鴨氏の神「事代主」は出雲神話の中の神となってしまった(しかし神武帝の即位後の后は事代主の姫であるが)。また、熊野のイマス(ムスビ)は神、古くからの神であることを自ら証するため、出雲の熊野大神・櫛御気野(くしみけぬ)命(『出雲国風土記』に載る実際に祭られていた国つ神)と同体となった。
(注)
クシ-ミケ-ヌとは「霊験あらたかな-神饌(ミケ:御食)の-主(神)」の意味で、本宮の「家都御子(けつみこ)神」とはこれの転訛(なまり)、もしくは「食(け)の神の子神」ということだ。要するに、御食津(みけつ)神とは、古事記のオオゲツ姫神のような穀物神、大地母神的な存在で、ムスビ(霊産)と習合するにふさわしい。
 「熊野」という地名は、熊野人ではなく都人が呼んだものでなければおかしい。伊勢に対する「負の国」とされた出雲にもこの地名が存したことは、都から「ずっと遠い地」という意味の上に、紀記が「出雲」にかぶせた意味とイメージをダブらせることになっただろう。もちろん、その受容には熊野の常世性が大いにあずかって余りあることは言うまでもないが。かくして熊野の「常世」は、天つ神の天下り以前の「神代」世界と習合し、紀記の「始原の時空間」として認識される。
(注)
伊勢が「生の国」であり「高天原」なら、これと対になる出雲は「死の国」であり「黄泉国」「根の国」ということになる。これが「もう一つの出雲」として、「熊野」が「死」の臭いが漂わせることとなったのだろう。
 紀記に登場する出雲に縁の深い大神と言えば、スサノヲ命であろう。この神は実に不思議な役回りの神だ。黄泉国に去った妣(はは;亡母)神のイザナミ命に会いたいと泣き叫び、天つ神でありながら高天原から追放され、根の国に住んで国つ神の王・大国主の国造りを媒介することになったことはご存知の通りだ。それから、天つ神と言えども黄泉国に行き、再び戻った(死と再生をした)神は、イザナミの夫神であるイザナギ命ただ一神だ。

 これら黄泉国に関わりのある三神が熊野三社に関係づけられている(本宮はスサノヲ、新宮がイザナギ、そして那智はイザナミ)。また、これにとどまらず、花の窟がイザナミの墓とされていることなどはすでに述べた。これはなぜなのか。まず一つには、黄泉も常世(あの世)の一つには違いないからだ。黄泉を「地獄」と考えることはない。「極楽」でもない。日本人の思う「あの世」がちょうどよいだろう。いま一つは理屈だ。熊野の神は天つ神ではない。しかも「神代」に国つ神はいない。しかし熊野の神は「始原」の神でなければならない。そこで、比較的これに親和性をもった三神が習合したのだ。

▼熊野とは何か

 本ツアーの目的はほぼ達した。中世の熊野御幸や「蟻の熊野詣」の姿についてはここでは述べない。その次の時代について若干だけ言えば、伊勢参宮がしだいに盛んになっていき、熊野と伊勢の同体説(天照大神)なぞも現れる。参詣者たちは、伊勢参宮のあと熊野に詣でるようになる。そしてついに熊野は、那智の青岸渡寺を西国三十三所観音巡礼・第一番札所とする巡礼地へと変質していく。

 クロージングに入ろう。最後につけ足しておきたいことが二点ある。一つは一遍上人に絡めてのことだ。上人は本宮・証誠殿(坐神)から夢告を受ける。このお告げによって、上人は「時宗」と呼ばれる奇特な捨身の巡礼を始めるのだが、夢告自体はまことに日本的(あるいは普遍的)なもので、聖徳太子の「夢殿」以来の伝統でもある。

 興味深いのは、『絵伝』にちらと残る、神の陰にちらつく「演出スタッフ」たちである。すなわち、巫女・童子・山伏(長床衆・神倉衆・滝籠衆)だ。彼らこそが「熊野三社権現」だったのだ。十二権現と呼ばれるうち、三主祭神以外の神々たちの出自は、実はたいへん怪しい。彼らの神格化が十二権現の正体なのかも知れないのだ。

 最後に、もう一つだけ。あらためて熊野とは何か。黄泉国、浄土、いや、やはり日本人の常世である。清浄なる山々の世界、森の世界。水が湧き出で、流れ出すところ。流れは川となり、あるいは滝になり、低きに向かい流れる。流れは山や森を抜け、やがて海に注ぎ出る。さらにさらに南へ東へ。熊野灘を越え、黒潮の流れに出会い、その先はまさに常世…。熊野は日本人の魂が生まれ死ぬ「あの世」(への入り口)である。
(了)

(短いあとがき)

 言うまでもなく書き足りないことは多々ある。が、「旅」とは終えねばならぬものである。また、補遺(ほい;追加)として述べることもできよう。ひとまず、これにて「了」とする。


[主な典拠文献]
(参考) mjf-037「天王寺・天王、八王子・王子、そして権現」

[特別公開] 「クマノ・マジカル・ミステリー・ツアー」のための制作メモ
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