▲
mansongeの「ニッポン民俗学」
日本人および日本の誕生
★〈付属年表〉はこちら ★
はじめに
孤立した言語・日本語を有する私たち日本人が、また日本という国がいつどのように形成されてきたのか。それらはまだまだ謎のままです。もとより、筆者ごときにこんな大問題を論じ切れるわけがないことはよくわかっています。しかしそれでも何事かを言いたい誘惑に勝てないのが素人の浅ましさです。
イマジネーション(想像)を高めすぎ、ところどころ言わば「空想古代史」を「創造」するところまでいっていますが、モチーフさえお楽しみいただければ、それで結構です。予期せず長くなってしまい、細部を叙述しなければならない仕儀となっただけのことですから。「常識」と異なる部分につきましては、筆者の「妄想」とどうかご笑覧ください。
▼天武帝らによって「日本」は創られた
いまに続く「日本」が完成したのは、平安前期である。すなわち、吉田孝氏の言われる「ヤマトの古典的国制」がそれであり、次の五つを柱とする。明治以降の新「日本」も、これらにわずかを付け加えたものにすぎない。
(イ)天皇を核とし、摂政・関自、院(上皇)、征夷大将軍などがその権力を代行する。
(ロ)五畿七道諸国(大八州)を領域とする。
(ハ)イエ(家)の制度。
(ニ)ヤマト言葉(母音は五つ)。かな文字と漢字の併用。
(ホ)宗教意識の基層としての神仏習合。『古今集』に代表される自然観・美意識。
今回はここに至るまでを跡付けてみたい(実際には散見程度)のだが、この手前で画期となったのは天武〜元明朝期である。この歴代帝の間に、「国法=律令」「都城=藤原京・平城京」「神統・王統譜・国史=古事記・日本書紀(以下「紀記」)」が整えられ、国号「日本」や称号「天皇」、それに最初の年号「大宝」なども定められた。
言うまでもなく、これらは「日本」の成立にとって非常に重大なことがらであった。なぜなら、紀記は中華帝国に対峙する国家としての「日本」意識のもとに編纂され、その表れとして国号もそれまでの「ヤマト」(倭・大和)にかえて自ら選び取った「日本」としたのだからだ。この白鳳〜奈良時代初期以降、前述の平安前期までは、天武帝の「国家成立宣言」を受けてその内実を錬磨・形成した時代とも言える。
このことは同時に、そのときまではいまに続く「日本」はなかったことを意味する。天武帝らによって「日本」は創られたのだ。それまでの「大和朝廷」とは二重国籍者たちが作る、内紛の絶えない連合政権にすぎなかった。では、それまでの「日本」とは何だったのか。坂口安吾流に言えば、それは「毛虫」だ。そして「日本」という「蝶」となって舞い上がったのだ。
▼「倭」と「ヤマト」は似て非なるもの
「日本」は古来「倭」と呼ばれてきたと思われているが、実は「倭」と「ヤマト」は似て非なるものだ。「中国人」(中国人とは何かというのも非常にやっかいな問題ではあるが)は「倭」や「倭人」をどのように認識していたのか。これは時代によって変遷しているが、基本的には中国東方の「海人」(海の民)を指している。
『山海経』(前漢以前)には、「蓋(平壌付近か)は燕(北京が都の国)の南、倭の北にあり、倭は燕に属している」とある。つまり、「倭」は朝鮮半島中部(ソウル付近か)にあると記述されている。次に、『漢書』(一世紀)には「楽浪海中の倭人」の記述が登場する。「楽浪海」(注)とは楽浪郡の西の黄海北部を言う。遼東半島や朝鮮北部沿岸などに住む海人のことだ。
(注)「楽浪海」とは、当然ニッポンが浮かぶ海を指して「楽浪郡のある半島の向こうの海」の謂いだとする、何の屈託もない「常識論」があるが、安直に過ぎると言わざるを得ない。もしそこを指すのなら「東海」と表記するのが当時の常識である。
その次が『魏志倭人伝』(三世紀)となるが、ここには「倭人」と「倭の水人」がいる。「倭の水人」と言うのは、入れ墨をしている云々と書かれている例の人々である。この「倭の水人」とは、実は『漢書』に出てくる「東テイ人」のことで、そこには「江南、会稽海外」にいるとある(会稽は呉と争った越の故地)。先の「楽浪海中の倭人」と対の記述で、楽浪海より南海にいる海人を指している。これが『倭人伝』にも引き継がれていて、「倭の水人」は「会稽東冶の東にいる」とあるのは有名である。
ここまでをまとめると、倭がもともとヤマトを指す言葉ではないことははっきりしている。しかしこうも言える。ヤマトが倭を引き受けるのは、自らが海人であるということだ。ところで『倭人伝』中の「邪馬台国」だが、記述を鵜呑みすれば、それは奄美から琉球諸島あたりにあったことになる。が、これも「倭」が黄海から東シナ海までの中国東海にいたのならふさわしく、何の不思議もないとも言えよう。
▼モンゴロイドと東アジアの姿
さて、時間を少しさかのぼってみよう。日本人ばかりでなく、お隣りの朝鮮人も、謎の民族である。ともに、少なくとも中国人とは異なるもので、アルタイ・ツングース系に連なるものではないかとも言われている(このわからなさの一因は、民族や言語の把握モデルがヨーロッパのためのもので、その系統時間軸や民族概念がアジアに適していないことだ)。
東アジアの「新人」(ホモ・サピエンス)は、モンゴロイドと呼ばれる。約三万年以上前のインドシナ半島に起源を持ち、太平洋や中国・シベリアへ、さらには北米・南米大陸にまで拡がった。ところがその後、中国北部やシベリアに長く住んだことで、寒冷適応した新モンゴロイドが生まれる。その新モンゴロイドも拡散し、一派はまたもアラスカへ渡り、後ちのイヌイット(エスキモー)となる。東アジア人種はこの新旧モンゴロイドの混合で成り立っている。なお、新モンゴロイドと区別するため、前のモンゴロイドは古モンゴロイドと呼ばれる。
わが日本列島は、氷河期の終了つまり温暖化によって、紀元前一万年頃(今から一万二千年前)にようやく大陸と離れ、紀元前八千年頃、ほぼいまの列島の形を成した。そうして縄文時代が始まるわけだ。それまでは、極東アジアは大陸と一体であった。北は樺太(サハリン島)・北海道・千島列島・カムチャッカ半島は地続きで、オホーツク海は大湖であった。
北海道と本州北部はもちろん、本州西南部も四国や九州、さらに対馬も朝鮮半島とつながっており、日本海は大湖であった。朝鮮半島と中国を隔てる黄海はまだ陸地であり、南九州は沖縄列島、台湾、そして中国大陸につながっていた。東シナ海も湖(大半は陸地か)だったわけだ。一説によれば、黄河河口は鹿児島あたり、揚子江は沖縄本島あたりで、太古の太平洋に注いでいたという。
▼古モンゴロイドが「縄文人」や「倭人」となった
古モンゴロイドの移住を想像してみよう。インドシナ半島から彼らは新天地を求めて移動していく。ある者たちは南方に向かい(インドネシア周辺は陸地だった。インドシナ半島・ボルネオ島・インドネシア列島などを含めた「スンダランド」と呼ばれた大陸)、また他の者たちは北方に向かった。上述のように、北には大陸が大きく広がっていた。中国やシベリア、満州、やがて朝鮮半島や日本列島となるところにも、古モンゴロイドは居住していっただろう。そして幾世代も経て、やがて地球の温暖化が始まるのだ。
オホーツク海、日本海、黄海、東シナ海が湖だったころ、付近にいた古モンゴロイドはどんな生活をしていただろうか。おそらく舟を造り、自由に行き来していただろう(同じころ、南方へ向かった古モンゴロイドは太平洋へ漕ぎ出していったことだろう)。それがしだいに海となっていく。わが縄文人はそういう末裔である。そして倭人も。
縄文人は東日本に多く住み、またそこで大いに文化を発達させたと言われている。最近、青森県の三内丸山遺跡など新発見が相次ぎ、狩猟採集を中心にしながらも、これまでの想像以上に豊かで進んだ文化を築いていたことが明らかになってきている。
自然人類学の研究によれば、縄文人は現代日本人にではなくアイヌ人や琉球人に似ていると言う。まさに、北方では縄文人、南方では倭人という構図ではないか。筆者の想像では、倭人はやがて東シナ海となる大湖周辺にいた古モンゴロイドの末裔である。そうすると、湖の西岸に江南地域が、東岸に奄美・琉球諸島が浮かび上がってくる。
南の「倭人」が日本人ではないように、北の「縄文人」も日本人ではない。四辺が海に切り取られることによって、またそこが後ちに「日本」となったことで、日本人にとっての「縄文人」となったわけで、決して「日本人」ではない。そのことを忘れないようにしなければならない。それは「倭」が朝鮮の一部を指していたことがあるように、そのころ朝鮮半島にいた人が「朝鮮人」でないこともまた同様である。
▼新モンゴロイドの拡散は日本列島にも及んだ
古モンゴロイドの出現と移動は、旧石器と呼ばれる時代の出来事だ。紀元前五千年前ごろに始まる新石器時代は、次の新モンゴロイドによる「文明」である。全東アジアに広がった古モンゴロイドのうち、北方で形質に変異を起こした「新アジア人」、つまり新モンゴロイドは主として南下し、東西に広がる。古モンゴロイドを時には追いやり、時には彼らと融合・混血しながら広がる。
新モンゴロイドはまず中国系とアルタイ系と南北に分かれ、北方のアルタイ系はトルコとモンゴルとツングース(中国満州地域)と東西方向に分かれたようだ。最後のツングース系の流れに、古代では高句麗につながる扶余(ふよ)族や靺鞨(まっかつ)族がいる(靺鞨は後ちに渤海国を作り、さらに後ちには金や清を建国した)。
ツングース系の新モンゴロイドは満州から南下するように広がったと思われる。朝鮮半島にも、初め古モンゴロイドがいたであろうが、国家形成を始めたのは新モンゴロイドだった。新モンゴロイドは順に朝鮮半島に入り南下したように思われる。だから、半島最南端の部族が最も早く南下を始めた部族なのだろう。
当然、古モンゴロイド系の倭人とも接触しながら、一海を越えて日本列島にわたり、日本海側や九州北部に、さらには瀬戸内海などにも新モンゴロイドは広がっていったことだろう。特に、新モンゴロイドによる北部中国での国家形成は、南部の江南古モンゴロイド系諸国家をも巻き込んで、深刻な動乱を各地に引き起こした。こうして、主として南朝鮮経由の倭人ルートを通じて、日本列島への移住が促進された。
▼朝鮮半島と日本列島のクニグニ
朝鮮半島であるが、古モンゴロイド系の「倭」がいたところへ初めて乗り込んだ新モンゴロイドの記録は、殷の遺民が造った国、箕子(きし)朝鮮である。その次が、前漢初期の衛氏朝鮮ということになる。しかしこの「朝鮮」は朝鮮半島を指すものではない。朝鮮は十四世紀、李氏朝鮮が定めた国名であり地域である。だから、この二つの「朝鮮」は半島のごく北部かと割り引いて考えておかなければならない。
その衛氏朝鮮を滅ぼした前漢武帝が置いた植民地が楽浪郡など四郡である。やがてそこへ高句麗が殴り込みをかける(中国と高句麗との対立は後者の滅亡まで、断続的だが、実に約七百年にわたり続く)。馬韓・辰(しん)韓・弁韓の三韓の名が登場するのは、漢帝国の衰退が始まるまで待たなけれならない。それまでどんなことが進行していたのか、表面的にはわからないが、先述の「倭人」の活動があり、他方、新モンゴロイドの部族ごとの南下とそれぞれのクニ造りが着々と進んでいただろう。
いまだ朝鮮も日本もない。あるのは数多くの部族国家(クニ)である。朝鮮半島では三韓というように、それがやがて地域ごとの国家連合となる。日本列島では北九州連合や日本海連合、瀬戸内連合や畿内連合などが作られていった。そしてそれは半島と列島を混ぜ合わせた合従連衡でもあった。後ちの百済や新羅という新国家は、単に半島の支配権を争う名ではない。列島の支配権を争う名でもある。タテにではなくヨコに切って見なければ、見えないこともある。
わが列島に三世紀になって忽然と現れた前方後円墳とは何か。国家連合同士の大連合の成立である。前方後円墳は方墳と円墳の結合であるが、それぞれの起源が何かを物語っている。方墳の原型である方丘墓は、弥生初期の北九州に多くあり、その後東海以東の地域に広がった。円墳の原型である円丘墓は、瀬戸内沿岸に多くあり、その後近畿地方に広がった。朝鮮半島につながりを求めると、方丘墓の原型である方形周溝墓は朝鮮各地に見つかるが、円丘墓の方は、南西部(後ちの百済地域)および中国の江南に見つかる。
さらに、以上とは別形式の四隅突起墳丘墓という変わったものがあるが、これは出雲と北陸(越)地域に特有の墳墓である。そしてその原型と見られるものが高句麗の故地にあるのだ。
▼百済、加羅、そしてヤマト
そろそろ百済の秘密の解明に入ろう。ご存知のように、三韓は順次「国家」としての産声を上げる。四世紀中葉、馬韓地域のクニ連合は百済によって、同様に辰韓地域は新羅(旧名は「斯盧」しろ)によって統一される。残る弁韓地域は都市国家のまま「加羅」(伽耶)連合となる。
満州にいた扶余族は何波にもわたり南下したはずだ。高句麗部族より先行して、朝鮮半島に向かった部族がある。その末裔が三韓勢力となった諸部族だ。中でも、南西部は倭人が多く住む地であった。馬韓・弁韓地域、それに西日本のいくつかの小国家群はその扶余人と倭人の融合国家だ(おそらくこれが「弥生人」の主体である)。百済・加羅(任那)・ヤマト(「日本倭」をこう呼びたい)の近さはここに発する。
それを臆断して、もう少し伝説的に語ればこうだ。百済王族とヤマト王族はともに加羅の中の王族の出で、同族である。紀記の「天下り」とは、天(あま)から山に下ることであり、海(あま)を「故地」から新天地にわたることでもある。ちなみに任那(みまな)とは朝鮮語では「ニムナ」と読み、王の故地を意味している。
▼ヤマト王たちの「領土」探し
ここで「倭の五王」と称されるヤマトの大王たちの自己意識を取り上げたい。珍王は438年に中国南朝の宋に、自ら
「使持節、都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」
と称している。次に、雄略帝(ワカタケル)だともっぱら世評の高い武王は、478年に
「使持節、都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」
と自称している。ともにそのままでは受け容れられなかったが。
ここにはヤマト王たちの故地を含めた領有意識が隠されている。二者の違いは、珍王が「任那」としているところが、武王では「任那・加羅」となっていることだけだ。これは前者の「任那」が広義で、後者ではそれが狭義で用いられているということだろう。もちろん、そう呼び分けた方が適切な事態が進んでもいたのだろうが。
さて、後者に従えば、計七国がヤマト王の領土だ(あるいは「だった」「であるはずだ」)と言う主張である。七国のうちの秦韓と慕韓は、すでに百済に組み込まれた小国である。だから、ヤマト(西日本)と三韓(全南朝鮮)がその「領土」ということになる。この意識はどこに由来するのか。おそらく、かつて朝鮮南端に先着し、加羅を中心にその周辺(対岸の西日本も含めて)を「支配」した記憶だ。
加羅の優越の一つの理由は、かつそれは非常に重要なことなのだが、希少な鉄産地であったことだ。五世紀までの朝鮮南部と日本列島で、鉄が得られた地はこの加羅と新羅の慶州の二カ所だけであった。ヤマトにとって、加羅は故地であるばかりでなく、国運を左右する生命線でもあったのだ。
▼朝鮮情勢とヤマト内乱
ヤマト王権は加羅を出身地とする王族が組織した政権である。同族王が支配する百済とは兄弟国・同盟国関係にあり、故地も任那として保持していた。しかしその一方では、列島支配は不完全なものであった。例えば、出雲には高句麗系のオオクニがあったし、南九州には純倭人系と思われるクマソ(隼人)がいた。東日本のほとんどは未「征服」のままである。地方豪族は、上部団体としてのヤマト大連合に属するも、支配地では自由にふるまっていた。
畿内で政権を構成し、臣・連として登場する氏は、渡来の早い遅いはあるものの、ほとんどが加羅人(あるいは百済人)であったと思われる。王を中心にした畿内豪族の連合がヤマト政権である。これに対し、出雲・北陸、東海・関東地方、それに北九州の一部には高句麗または新羅の地を出自とする諸部族が多くいたと思われる。彼らは、朝鮮半島の情勢を見守りながら、出身同族国家と連動しての自立や政権奪取の機をうかがっていた。
そんな折り、475年のことだが、高句麗が百済を深く攻め、蓋鹵(がいろ)王を捕斬する。王を失った百済は都を南の熊津に遷都する。当時、高句麗の影響下にあった新羅も、百済と加羅を攻めた。
この情勢変化を受け、列島内の豪族も動きを始める。吉備、播磨、伊勢で反逆が起き、関東では上毛野(群馬)などがそれに加わる。畿内連合内でも深刻な事態となっていた。武王以降、600年の遣隋使まで「消息不明」状態となるのもこうしたことがなせる業だ。そして、王統譜に継体帝となるオホド王が現れる。オホド王は息長(おきなが)氏が支配する越(北陸)から忽然と姿を現したが、息長氏とは紀記中の新羅王子・天日矛(あめのひぼこ)を守り来たった者に他ならない。
ヤマトの大王に新羅王族の血を交ぜることで妥協が成ったのだ。オホド王を支持した有力豪族には、神武帝に先行する「もう一つの天下り神話」をもつニギハヤヒを祖とする尾張氏などがいた(なお、物部氏もニギハヤヒを祖とする)。しかしそれでも納得しない豪族もいた。527年、北九州で親新羅派である筑紫君・磐井が、火(熊本)・豊(大分)勢力を味方にしての大反乱を勃発させる。これを大連・物部麁鹿火(あらかい)が翌年鎮める。
並行して、朝鮮半島でも百済-加羅-ヤマト連合と新羅-高句麗連合の戦いが進んでいた。このとき、派遣されていた六万の軍を指揮する近江臣毛野の行動は失敗に終わり、新羅に加羅を削り取られている。そして532年、ついに新羅は加羅にあるヤマト任那の重要拠点・金官を奪取する。
さらに、いったん収まったかに見えたヤマト王権の内紛の火も消えてはいなかった。継体朝の晩年より、これが噴出する。尾張氏の娘を母とする安閑・宣化帝と、武烈帝の姉を母とする欽明帝との後継争いである。親新羅と親百済-加羅との争いであることは言うまでもない。それからこの頃には、ヤマトと百済は同王族と言っても、国家政権としては王の私物ではなくなり、場合によっては国策路線が異なる段階に入っている。
結局、安閑・宣化帝の崩御(いかなる事由か不明だが)という早々の退場により、欽明帝の世となる。この時、540年だが、何と28年前の外交問題(加羅の一部を百済に割譲する件)の責任を取らされて、大伴金村が失脚し、長年の大連・大伴氏が力を失った(大伴氏は間違いなくヤマト王とともに加羅から天下ってきた豪族だ)。おそらく、大伴氏は何らかの事情で安閑・宣化帝を支持する側にあったのだ。この失脚を仕組み、欽明朝を支えたのが、物部氏と蘇我氏である。
▼仏教公伝と加羅全土の喪失
再び親百済-加羅の欽明朝体制が整い、金官を奪われた任那復興のために国際会議が招集される。百済と新羅の和議も成った。ちょうどこの頃、百済・聖明王から仏像と経論が伝えられている。これは何か。政治的連帯の系譜である。四世紀、中国北朝から高句麗に、また南朝からは百済に仏教が伝えられている(倭人ルートだ!)。百済は南朝仏教を同盟国ヤマトに伝えたわけだ。
蘇我氏はすでに公伝に先だって氏寺を造っていたと思われる。蘇我氏の出自はどうやら百済王族のようだ。ならば、ヤマト王族と同格ではないか。一説によると、馬子は用明帝自身であり、その皇子の聖徳太子も馬子もしくは蝦夷や入鹿の投影だと言う。確かにこの辺りは何があってもおかしくはない。蘇我氏は大化改新で抹殺されることを前提に、紀記に叙述されていることは間違いないからだ。しかし、彼らはなぜ抹殺されなければならなかったか。
蘇我氏の話の続きの前に、風雲急を告げる朝鮮情勢を見ておこう。このころ、高句麗に内紛が生じ、それまでの半島の勢力バランスが崩れ始める。ようやく新羅も自立傾向を示し、高句麗・百済・新羅の覇権争いも最終段階に入っていく。551年には、百済・加羅、それに新羅の連合軍が高句麗と戦い、勝利した。しかし新羅は返す刀で百済を攻め、黄海に出られる半島中西部をついに奪い、554年には宿敵・百済の聖明王を敗死させている。
そして562年、新羅は大加羅の高霊(こうれい。高皇産霊神・タカミムスビをイメージさせる名だ)を滅ぼす。これで、ヤマトは加羅・任那をすべて失った。故地は新羅に奪われたわけだ。この間、白村江の戦い・百済滅亡まで、加羅人そして百済人の渡来が続く。「韓」や「漢」と書き表される「カラ」や「アヤ」系の渡来人とは、加羅人(あるいは百済人)である。少しさかのぼるが、たとえば垂仁紀に登場するツヌガアラシトは大加羅の王子と名のっているが、「アラシト」とは加羅の一国「安羅の人」ということではないか。
▼武内宿禰から蘇我氏への系譜、そして新羅
紀記の記述は、新羅への愛憎に満ち満ちている。神功紀には、新羅を「金銀の国」と、また「宝の国」と呼んでいる。一方で、一貫して悪役を演じさせられている。何しろヤマト王の故地を奪い、兄弟国百済を滅ぼしたのだから、それも当然と言えば当然なのだが、まだ何かが隠されているような気がしてならない。
書紀にしたがえば、蘇我氏は神功皇后らに仕えた武内宿禰を始祖とする。系譜では武内宿禰は第八代孝元帝の曾孫に当たり、武内宿禰の子たちには葛城氏の葛城襲津彦を始め、蘇我・巨勢・平群・紀の各氏の祖がいる。ここに並べた各氏はすべて「臣」の姓を持つ。この系譜の通り、臣とはそれぞれ王族系の豪族たちではないのか。かつて葛城氏が大王を生んでいたように。ただし、武内宿禰に収束させられたのは、蘇我氏といっしょにして、これら多線的王族群を現王統から断ち切るためだったように思う。
それからこの武内宿禰の周りには、絶えず新羅との関わりがにおう。新羅征伐を行なった神功皇后とは新羅系と思われる息長タラシ姫だし、神功皇后とその息子応神帝を祭る宇佐八幡宮の神も新羅系くさい。葛城襲津彦は朝貢しない新羅を攻めたり、そこから捕虜を連れ帰ったりしている。なぜ神功皇后は突然新羅を攻めなければならなかったのか。それはかえって新羅との近さを表しているように筆者には思える。そこに蘇我氏の系譜が結びつけられているのだ。
▼崇仏闘争と隋の中国統一
蘇我氏と物部氏は仏教の受容をめぐって対立し、ついに武力衝突に至り、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたとされている(587年)。確かに宗教論争はあったであろうが、そういうことが直ちにこの対立の本質ではないだろう。先述のように、蘇我氏も一つの王族なら百済-加羅系となる。それに対して物部氏は、始祖ニビハヤヒの伝説のように明らかに別系(新羅系か)の出自だ。
すでに述べたように、当時、加羅はなく百済も窮していた。隋の中国統一への胎動も伝わっていただろう。ヤマトの仏教は百済からの南朝仏教である。すなわち、仏教受容とは百済との同盟問題に他ならない。蘇我氏はこの同盟のいっそうの強化を主張し、物部氏はその危険性を力説したのだ。ところで、この政争のとき、中臣氏が物部氏陣営として初めて姿を見せる。中臣氏は加羅のアマテル神を祭る神官の出だった。
蘇我氏の専権となった後、どうなったか。589年、ついに隋が約四百年ぶりに中国を統一する。高句麗、百済、そして新羅は相次いで入貢する。しかし隋-高句麗関係はすぐに悪化し、交戦状態に入る。呼応して百済の高句麗攻撃、ヤマトの新羅攻撃が行なわれ、間隙をぬうように、600年、ヤマトも武王以来の百数十年ぶりに中国に朝貢する。
書紀によれば、蘇我氏政権は崇峻帝を弑逆し、推古女帝を立てて、聖徳太子を「摂政」に就ける。馬子らは百済との同盟を軸としながらも、情勢変化を受けて現実的に多面的な外交を展開する。それが飛鳥の仏教文化だ。595年、高句麗僧・慧慈が渡来し、聖徳太子の師となる。また、同年、百済僧・慧聡もやってくる。二人は新しく成った法興寺(飛鳥寺)に、仲良く住んだという。602年、百済僧・観勒が来て、暦などを伝えた。また、新羅系・秦氏の広隆寺には、新羅風の弥勒菩薩像が安置されたという。
この間、百済援助のための対新羅征討計画は、諸事情で挫折している。これも不思議なことだ。蘇我氏政権の迷い、それに親新羅派の反対や隋帝国の動きを見極めようとする慎重派などがブレーキをかけたものと思われる。隋による南北中国の統一は、確かに高句麗の政策を変化させたようだ。僧・慧慈の派遣が何よりそれを物語っている。高句麗-百済-ヤマトの同盟軸が見え始めている。
▼聖徳太子の政治
聖徳太子の政治は、馬子の政治でもあろう。それは「仏教国家構想」とも言うべき、思想・精神的には仏教を背景に、いっそうの国内統合と政権強化をはかろうとするものである。太子摂政の翌年、仏教興隆の詔が発せられている。四天王寺に続き、法隆寺も建てられた(607年頃?)はずだ。法隆寺は百済系南朝仏教と高句麗系北朝仏教との融合の結晶だ。しかしその建立の記録はない。
太子の事績に「冠位十二階」や「十七条憲法」がある。前者は政権内への豪族序列づけ、つまり服属化・帰属化のための新位階である。後者の第一条に、有名な「和なるを以て貴しとし、さかふることなきを宗とせよ」がある。いかようにも解釈できるが、ずばり「日本人のすすめ」と取りたい。加羅人の故地はすでにないが、百済も新羅も高句麗もいまや「外つ国」だ。出自にこだわらず、いやそれを捨て、ともに団結協力して「日本」を造ろうではないか、と。
ともあれ、国内政治の方向性は見えている。問題は対外政策だ。実は書紀には、600年の遣隋使の記載が一切ない。それに607年の小野妹子を使わしての有名な国書について、内容の記載はなく、また、煬帝からの返書については帰路百済人に盗まれたとトンマなことが書いてある。国書の内容は『隋書倭国伝』によれば、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」云々である。
▼大化改新で封印された謎
大化改新に至る謎はこの辺りにころがっているような気がする。ここであらかじめ問題を提起しておくと、645年の「大化改新」は、律令制確立の序章としての諸制度改革とは別物である。645年の事件は「乙巳の変」と呼ばれるクーデタにすぎない。一臣下・蘇我氏本宗家の滅亡事件にすぎない。それが何故かくも画期的な一大事件とされ、律令制に向かう制度改革の始まりと位置づけられなければならないのか。そしてそういうふうに記したのは日本書紀である。
大化クーデタ、すなわち蘇我氏本宗家が滅亡することで一挙に清算された、あるいは真相がヤブの中に隠されてしまった主な謎を列挙しよう。
- 蘇我氏とは何者だったのか。
- 聖徳太子は実在したのか。なぜ即位しなかったのか。
- 法隆寺の建立や再建はなぜ隠されたのか。
- 遣隋使の記録がなぜ不明瞭なのか。
- 帝記や国記はあったのか(大王と豪族たちの出自)。わざわざ「蝦夷が焼いた」と記した意味は何か。
書紀によれば、大化改新の主役は、中大兄皇子(後ちの天智帝)と中臣鎌足(後ちの藤原鎌足)である。クーデタ後に即位した孝徳帝ではない。これもおかしな話だ。彼らはなぜ蘇我蝦夷を殺さなければならなかったのか。そしてそれが大功となるのなら、勝利者たち全員にとって蘇我氏がまともな手段ではとても対抗できない「正統・正当」の存在だったことをかえって反証していないか。
だいたい、蘇我馬子・蝦夷・入鹿への悪態と、同族である聖徳太子への称賛とのギャップの大きさは異常と言うしかない。馬子たちの名は、真実ではないだろう。悪人としての命名によるものだ。馬子の崇峻弑逆、葛城県所望、入鹿の山背大兄皇子殺し、蝦夷らの「やつらの舞」(大王の舞)挙行などには、すり替えや脚色が混入していると見てよい。
法隆寺は馬子と太子の存在に深く関わりすぎたものだろう。その建立を記すことは真実を語ることになるのだ。ただし、怨霊鎮魂というようなものではなく、むしろ馬子を称賛すべきことになってしまう大記念碑的な意味を持った建立だったという方向で解すべきだと筆者は思う。案外、「つつがなきや」の遣隋使につながっているようなことかも知れない。
想像をたくましくすれば、607年の国書は馬子によるもので、中華帝国と対峙するヤマト帝国の宣言、つまり対隋独立・非冊封という外交路線の選択を通知したものだ。これは高句麗の支持による、高句麗-百済-ヤマトの枢軸の成立を意味する。その記念碑こそが法隆寺(初の「大官大寺」?)だったのかも知れない。言うまでもなく、書紀の成立の頃には、高句麗も百済も存在しない。そして「ヤマト」も。あったのは「日本」一国だった。とうに蘇我氏が建てた同盟記念寺なぞ邪魔者だったのだ。
▼半島のクーデタ、そして大化クーデタ
失敗に終わった高句麗遠征は隋を疲弊させ、618年、中華帝国には唐王朝が座る。半島の三国は相次いで入貢し、冊封を受けた。わがヤマトは631年に初めて入貢した。これは舒明朝、蘇我蝦夷政権下のことであったが、唐に対しても、入貢しても冊封は受けない自主独立路線を貫いた。これは600年の遣隋使以来の外交方針だ。644年、臣下の礼をとらない高句麗に対して、ついに中華である唐の討伐軍が進む。
大化クーデタへの直接の引き金は、642年にまず百済で引かれた。百済は唐の属国化を嫌い、宿敵新羅との連絡路を断つべく、義慈王が自ら新羅を攻めた。呼応するかのようにその直後、高句麗では大臣の泉蓋蘇文が現王と臣下180名余を殺害し新王を立てるクーデタを起こした。ここに反唐・高句麗-百済同盟が成立する。
何とそこへ、百済に攻め込まれた新羅の重臣・金春秋が高句麗に救援を求めてやって来た。それを拒否された新羅は翌年、唐に走り、唐-新羅同盟へと向かう。同年、百済ではそれまでの皇太子が廃され、ヤマトへ人質として渡来した。この643年とは、入鹿が山背大兄皇子を死に追いやったとされている年だ。各国は対唐関係の路線選択を、国家の存亡を賭けて迫られていたと言える。
クーデタ側には二つの目的があったと思う。一つは蘇我政権の排除・抹殺、それと自分たちに都合のよい対唐関係の是正なり打開なりである。これらの目的には、旧加羅派と親新羅派なども同調できたと思われる。しかしクーデタ主体の目的は「王統」纂奪である。これに勇気を与えたくれたのが、泉蓋蘇文や義慈王の大胆な行動であった。
クーデタ前まで王位継承の最有力候補者であった古人大兄皇子は、入鹿殺害の現場に立ち会わせ、事件後あわてて帰宅して「韓人が鞍作臣を殺した」と言ったという。鞍作臣とは入鹿である。問題は「韓人」だが、素直に読めば「加羅人」だろう。蝦夷を守るべく、立ち上がろうとしたのも加羅系の漢直氏であった。これはどういうことか。百済系を含めた同族内の争いなのである。
今となっては詳しいことはわからない。しかし「蘇我王統」となることだけはどうしてもまずかったのだ。ともあれ蘇我氏本宗家はすべてを背負わされ、滅ぶ。それでもヤマト王権の迷走は続く。新帝・孝徳は難波に逃れる。唐から帰国した高向玄理や南淵請安、僧ミンらの知識によって、律令制に向けての諸制度改革が始まる。しかし外交政策においてはどうか。対唐・新羅関係の改善へわずかな努力は認められるが、政権を纂奪せねばならなかったようなものではない。
▼白村江の敗北はヤマトの自滅か
大化クーデタ後の国際情勢では、新羅について語らねばならない。647年、最高官・ヒ曇(ひどん)のクーデタ騒動が起きるが、金春秋らによって平定される。金は、唐との関係を認めつつも自立路線派であった。金は、先の高句麗に続き、ヤマトとの連携の可能性も模索して自ら来訪している。しかしこれもさすがに失敗に終わる。実は金春秋は併合された金官加羅の王族出身であった。金は翌年、宰相となって唐にわたり、唐風文化を取り入れることを決めた(友好同盟段階)。
新羅は651年以来、特別外交部を設け、執拗にヤマトとの提携を試みていた。一方のヤマトは高向玄理を新羅に送ったり、二十年ぶりの遣唐使を送ったりしている。しかし依然、百済との同盟を軸にした路線から、現実的には一歩も踏み出せなかった。これは孝徳朝を承けた斉明朝になっても同様であった。内実は、親百済派と親新羅派との反目がますます抜き去り難いものとなっていたのだろう。
655年、新羅はついに唐と軍事同盟段階に入り、高句麗・百済との交戦に突入した。この年に、金春秋は新羅・武烈王として唐から冊封され、唐にいた高向玄理が客死している。何か暗示的ではないか。659年、新羅はヤマトと断交する。そして660年、百済は新羅・唐の連合軍によって滅亡する。この間、同盟国・ヤマトは何をしていたのか。東北蝦夷の征伐や王位候補者・有馬皇子の粛正などをしていたのだ。
百済滅亡の報はさすがに衝撃だったと思われる。残存ゲリラの大将・鬼室福信の要請を受け、斉明帝自ら大軍を率い、西へ向かった。女帝崩御のアクシデントもあったが、中大兄皇子が引き継ぎ、大船団を半島に送った。663年、白村江河口で決戦となり、結果、ヤマト-百済軍は敗退した。この機に、百済人の流入が大挙してあった。
反省すべきは、ヤマト軍の不甲斐なさである。海人である倭人の伝統をひくヤマト水軍は強大であった。新羅・唐軍にまさると言ってもよいほどだった。それがなぜかくもあっさりと敗退せねばならなかったのか。その後の長らく続く中大兄皇子の「称制」と併せて、謎である。臆断すれば、ここでもサボタージュや不支持があったのだろう。金春秋の即位が加羅人や親新羅派にあらぬ期待を抱かせたこともあっただろう。意思分裂した政策はほとんど無効だ。
▼天智帝の虚脱と苦悩
歴史を知る私たちは次に何が起きるか知っている。672年の壬申の乱である。その前に、半島のその後だ。668年、唐はついに反中国の怨敵・高句麗の息の根を止める。同年、ヤマトと新羅との国交が回復する。ヤマトは敗戦後、唐侵入を恐れ、北九州中心に防衛ラインを築いていた。また、668年に即位した天智帝は、やっと「本気」で中央集権体制を整え始める。671年、新羅は百済を占領中の唐軍を攻め、676年には駆逐に成功し、半島を真に統一する。
ヤマトほど国境意識が遅れた国はない。以上のようにして、半島とのつながりを断たれて、ようやく半島と列島をさえぎる山城を対馬に築いた。ここにヤマトはようやく「日本」へと向かう。しかし亡霊は生きていた。いや「亡霊」なぞではない。大量の亡命百済人によって、天智政権は期せずして国内の政治バランスを崩してしまう。何のための大化クーデタだったのか、と思ったかどうかは定かではない。答えは、天智帝ではなく天武帝が下すことになったのだから。
思えば、天智帝即位前の七年にわたる称制とは、反勢力の大きさや多さを示していたのだろう。同帝は百済遺民の多くを移した近江に都を築き、そこに即位した。大化クーデタまではよかったのだが、何かが狂ってしまった。クーデタの大義だった「百済同盟路線から親唐・新羅路線への転換」は、思いがけず百済救援戦争に巻き込まれて、その二国と交戦する羽目となり、もみくちゃになってしまった。
さらに決定的なことには、永年の同盟国であり、言い方によってはもう一つの故国でもある百済を失ったことである。しかもその喪失の主因は、白村江戦前後のヤマト政権の無能と無気力にあったのである。天智帝も加羅-百済系王族であったろう。百済との同盟自体を捨てる気はなかったはずである。しかし「反省」もここまでだ。次は我が身か。唐軍は今度はヤマトに向かうとの情報がまことしやかに流れていた。
▼壬申の乱と「日本」の原型
一方の反近江派は、天智朝を敗北の戦犯として決めつけ、厳しく責任を追及していたはずだ。それどころか、百済遺民の身近での「抱え込み」を親百済派の総決起とさえ受け取っていただろう。そういう意味では、壬申の乱とは親新羅派の巻き返し戦である。つとに有名だが、大海人皇子(後ちの天武帝)は大化改新以前の記録には「存在」しない、かつ「年上の弟」である。その正体は不明ながらも、加羅-百済系ではなく、ずばり新羅あるいはこれに併呑された高句麗系だと思われる。
乱の経過は省くが、大海人皇子の勢力基盤を確認しておきたい。畿内豪族では、加羅系の大伴氏が反百済派となり合流した。吉野を発進した皇子はひたすら「東国」へと向かう。尾張・美濃地域だ。ここには誰がいたのか。ニギハヤヒの末裔・新羅系の尾張氏たちだ。昔からの勢力図は変わっていなかったのだ。ともかく、672年、反近江派は「正規軍」を打ち砕く。かくして、天武政権が成立する。
実際、それは親新羅政権だった。壬申の乱直前の669年に天智朝が送って以来、遣唐使は約三十年間途絶し、遣新羅使だけが送られてる。このことからもわかるように、天武-持統朝の白鳳文化は、中国北朝→高句麗→新羅と伝わった北朝仏教文化であり、中国文化も新羅経由で間接摂取したものだった。それが証拠に、694年に遷都された藤原京は欠陥都城で、天皇の住む大内裏が都城の北端に接せず、四方を宅地などに囲まれていた。
天武帝の後(686年崩御)、未完の「日本」造りを引き継いだのは皇后・持統帝ら女帝たちと、藤原不比等であった。689年、中国以外では初の本格法典である飛鳥浄御原令を施行し、その中で国号を「倭」から「日本」へ、大王の称号を「天皇」とすることも正式に定められた。令にもとづき、戸籍台帳「庚寅年籍」も作られる。694年には初の都城となる藤原京へ遷都。697年、持統帝は孫であり初の「皇太子」(このときまで皇太子制度はなかった)であった文武帝に譲位、自らは初の上皇(太上帝)となった。これは、平和裡に成った初の生前譲位である。
701年、対馬で金産との報(実は虚報)を受けて、初の継続する年号を「大宝」と定める。翌年、大宝律令を施行する(同年、持統上皇崩御)。710年、平城京に遷都し、712年に『古事記』が、720年には『日本書紀』が完成する。その年、これらを見取るようにして不比等が没している。
▼日本「誕生」
遣唐使は701年(文武朝・持統上皇期)に再開されたが、これには山上憶良が同行していた(吉田孝氏が、山上憶良は帰国後「日本」という漢字を用いた和歌を詠んだと記されている)。この遣唐使が「国号変更」を中国側に伝達したのだ。『旧唐書』には「日本国は倭国の別種なり。(中略)日本はもと小国、倭国の地を併す」などとある。これはどういうことか。「ヤマト」と「日本」は別国なのか。
柿本人麻呂は天武帝を「大君は神にしませば」と詠んだ。天武帝こそ「初代・日本国天皇」だった。これは天皇号を名のった初の大王ということではない。新しく王朝・王統を興した、新しく国を造ったという意味なのである。天武帝の「日本」が、旧「ヤマト」国を征服したということなのだ。実際、天武帝は、大王位を武闘で直接奪取した唯一の天皇である。
紀記は、最後は藤原不比等によって仕上げられたのだから、どこまで天武・持統帝の意思が貫かれているのかわからない。天武帝は、半島で高句麗・百済・加羅の領域を新羅が支配したように、列島の高句麗・新羅・百済・加羅の諸勢力を新羅(高句麗)系である自分が支配したのだと考えていたのかも知れない。そう言えば、「日本」や「天皇」の由来は確かに北朝系道教思想にあるが、「日本」という名の意味は「朝鮮」に似ている。どちらも「東の太陽」を崇めた言葉だ。
紀記の最高神・天照大神は加羅の「アマテル神」の流れにある神と思われるが、この神を伊勢に見つけて「神宮」として祀ったのは天武帝である。これは「東の太陽」の信仰に他ならない。ちなみに、この「東の太陽」に「天照大神」という神格をはめ込んだのは、神家・中臣氏としての藤原氏である。
しかし藤原鎌足と不比等の父子は、どうも少し別なことを考えていたように思われる。彼らこそ「日本」を造り出したのではないか。それは、聖徳太子が述べた意味での「日本」、つまり半島の出自は清算して新たな列島の国を造ろうとしていたということである。ただし、もう一つあって、豪族・氏姓制度の清算も行ない、貴族制すなわち官僚制を創始して、自らの権力を確立しようとすることでもあったが。
▼日本書紀が隠蔽したもの
思いがけず、ずいぶん長くなっている。先を急ごう。現在の私たちには、紀記(特に「天武紀」で終わる書紀)しかない。そこでこれをもう一度読み直すと、何がわかるか。蘇我氏と天智朝と天武朝の相似性である。多少の違いはあるが、同じようなことが三度繰り返されているのである。馬子は崇峻帝を殺したとあるが、後ちに天智帝となる皇子は入鹿を殺したし、天武帝は王位継承者・大友皇子を殺した。
三者が共通に目指したことは、実は「聖徳太子」にそのすべてが託されている(それは蘇我氏が行なったことでもある)。律令こそまだないのだが、仏教国家構想(その具現化が大寺建立)、新位階制、王統の直系相続など、原型がほぼすべて出そろっている。氏姓制度(豪族制)から官僚制度(臣下制)への転換も三者共通の理念であったし、中華帝国からの独立・自主路線もこの時代以来の国策であった。
大寺は、太子時代の法隆寺に続き、百済大寺が舒明朝に建てられ始め、それを天智・天武朝が引き継ぎ、高市大寺とし、さらに藤原京の大官大寺となった(この寺は平城京では大安寺となり今に至る)。それが、奈良時代の聖武期の東大寺建立とつながっていくわけだ。そして、前政権打倒は直系相続を行なおうとするとき、起きている。これも改革の一つだったのだ。各王権は王統の直系相続でもって、出自を清算した統合「日本」を造ろうとしていたのだ。
このように、担当「政権」としては蘇我氏に大きな「誤り」はなかった。むしろ「日本」の原型を築いたのは蘇我政権だとさえ言えよう。その「日本」プロジェクトを横取りし、自ら新「王統」の祖となろうとした一人目が天智帝であり、二人目が天武帝だ。おそらく「王統」はこの時点で三つあり得たのだ。蘇我王統、天智王統、天武王統だ。「大化改新」にあのように焦点を当てることによって、その二度の「王統纂奪と交替」の歴史を目くらますことこそが書紀の目的の一つだったと言わざるを得ない。
藤原鎌足と不比等は、冷静に「葛城氏」や「蘇我氏」であった。葛城氏や蘇我氏は、事実として王統であったかも知れないが、見方を変えれば「王の母の家」とも言える。王統にとってそれは絶対に必要なものだ。少なくとも不比等は「王の母の家」をめざしてこれに成功し、外戚・摂関家としての藤原氏の礎を築くのである。藤原氏は自ら王統なぞめざさず、藤の「つる」のようにいかなる王統とも和合し野合しからまり、一つの「日本」と一系の「天皇家」を造っていったのだ。
▼エピローグ
残したことにいくつかに触れて、この稿はそろそろ終えたい。まず、高松塚古墳およびキトラ古墳についてだ。玄室にはともに道教方位四神像が描かれており、七世紀末から八世紀初めに作られたとされている。高松塚古墳内の女性像は高句麗の古墳壁画に酷似し、キトラ古墳に描かれた星辰図は高句麗で観測された天空である。二つの古墳は藤原京中央のほぼ真南ラインにあり、天武・持統・文武帝陵もここにある。これらは天武帝の皇子たち(大津と草壁か)の墓であり、天武朝は新羅経由の高句麗文化で満たされていたことを証している。
この古墳ということについてもう一言。古墳の被葬者がなぜわからないのか。「日本人」は先祖崇拝の民ではなかったのか。このことも、まだ「日本人」はいなかったことを示している。王統の交替の度に「帝記」は失われ、前王統の墳墓はうち捨てられたのだ。わずかに残った記憶も紀記によってねじ曲げられ、最終的には前身を見失った「日本人」によって忘れ去られたのだ。
次に、道鏡事件に関する宇佐八幡宮の神託についてである。宇佐八幡は豊前に鎮座する古神だが、聖武朝のとき畿内に飛来する。東大寺大仏造立の難工事の際、天神地祇を率いて援助に到来したのだ。これが東大寺の鎮守神・手向山八幡宮である。新羅系の宇佐神が同系の天武王統の聖武帝を助けたということだ。このとき、中国から難渋を重ねて鑑真が渡来しているが、これは新羅勢の妨害で難路を取らされた結果だろう。
聖武帝の後、台頭する藤原仲麻呂は唐や渤海(高句麗遺民の国)と結び、親新羅の橘諸兄・奈良麻呂父子、吉備真備(僧・玄ボウと元コンビ)らと対抗する。結局、恵美押勝の乱として鎮圧され、道鏡の世となる。道鏡の出自は蘇我王統である。東大寺に対抗する西大寺建立も成り、769年宇佐八幡神はついに道鏡を皇位につけよとの神託を下す。しかしこれを和気清麻呂が宇佐で聞き直すと、全く逆で「天皇家以外の者を皇位につけてはならない」であった。
時の女帝称徳は激怒して清麻呂を遠流に処すが、女帝崩御とともに、今度は道鏡が配流され、清麻呂は召還された。この紆余(うよ)曲折は「その後」に答えがある。称徳帝で天武王統の血は絶え、天智帝の孫・光仁帝が即位したが、その子こそが桓武帝である。桓武帝の母は百済王の血を引く王族であった。新天皇は自らの血の出自に目覚め、またしても「新王朝」をめざしたのだ。それが遷都となって、また征東事業となって表出する。
ここから道鏡事件を再考すると、蘇我・天智・天武系三つどもえの王統争いであったことがわかる。それは一枚岩に成ったはずの「日本」の中の「朝鮮」であり、高句麗であり新羅であり百済なり加羅なりであった。
最後に再び、坂口安吾の言葉を聞こう。桓武平氏は百済であった。対する清和源氏はどうだったか。新羅三郎と名のった者がいると。確かに源氏の氏神は新羅系・八幡神であるし、平安の世に反旗をひるがえし「新皇」と称した平将門は宇佐八幡神と菅原道真霊を味方につけて、天智帝の血を引く中央政府と戦った。それもこれもいまは昔。日本という「蝶」に成ったいま、誰が「日本」や「日本人」を疑っていようか。かつて自分が「毛虫」であり「サナギ」であったことを誰が信じようか。
[主な典拠文献]
吉田孝『日本の誕生』岩波新書
西尾幹二『国民の歴史』産経新聞社
埴原和郎「日本人の形成」(岩波講座/日本通史/第1巻所収)
坂元義種「東アジアの国際関係」(岩波講座/日本通史/第2巻所収)
鈴木靖民「東アジアにおける国家形成」(岩波講座/日本通史/第3巻所収)
吉田孝「八世紀の日本」(岩波講座/日本通史/第4巻所収)
吉成繁幸『一冊でわかる古代史』成美文庫(成美堂出版)
坂口安吾『安吾新日本地理』(筑摩文庫/全集18巻所収)
head
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved