mansongeの「ニッポン民俗学」

日本人と神事としてのオリンピック



 シドニーでオリンピックが始まった。早速のニュースとして、柔道の田村亮子選手がついに金メダルを獲得したという吉報が飛び込んできた(この他にも多々あるが、ここでは割愛)。誠におめでたいことである。八年間の不屈の精進を讃え、心から祝福したい。さて、今回考えてみたいことは、日本人とオリンピックというか、日本人とスポーツ大会という問題である。

 以前からの読者の方なら、筆者が甲子園の高校野球大会について書いた文章をお覚えかも知れない。そこでは確か「神事としての甲子園」という主旨を述べたはずだ。では、世界スポーツ大会としてのオリンピックとは、日本人にとっていかなる「神事」なのであろう。


 マーティ・キーナートという人がいる。「MSNジャーナル」というメルマガでスポーツ記事を書いている方なのだが、日本人のスポーツ観を厳しく批判されている。例えば、甲子園については「高校野球の投手の酷使は時代遅れだ」という文章で、連投に継ぐ連投が優秀な高校生ピッチャーのその後の野球人生を壊していること、それを日本人は「容認」し大会中だけのそのひたむきな姿に酔っているのだ、と厳しく指摘されている。

 シドニー・オリンピックに関しても「日本のオリンピック報道はファンをバカにしている」と題して、日本のスポーツ報道の未熟さを、それは人気タレントや女性アナウンサーを臨時スポーツ・キャスターに仕立て上げ、本格的にスポーツを分析できるような人物を起用しようとしないということなのだが、これを批判されている。

 そうそう、そういう「日本人とスポーツ」論としては「千葉すず選考騒動」も忘れてはなるまい。さすがにキーナート氏は忘れずに「本当の勝者は千葉すずだ」という記事で、日本スポーツ界の旧弊や閉鎖性を厳しく指摘されていた。

 筆者が思うにであるが、おそらくキーナート氏は日本人が嫌いでそういうことを書いているわけではない。むしろ善意で、言わば親心(スポーツ文化「先進」国)から、(スポーツ文化「後進」国の)日本人の「蒙昧」を解き放つべく書かれているのだと信じる。読者から返された感想を見ると、氏に「啓蒙」されたり氏の意見に共感される読者も数多いように見受けられる。

 しかし筆者は、キーナート氏の有り難いご忠告にもかかわらず、「空間は曲がっている」と表明する者である。キーナート氏の指摘は、無論ごもっともだ。合理的には、将来を嘱望される高校生ピッチャーは一時のために肩を損なうべきではないし、オリンピック報道は専門家によってこそ真の意味が伝えうるのだろう。また、選手選考も客観的に選べば、何の不平不満もないのだろう。

 にもかかわらず、日本人が高校生ピッチャーを酷使し、スポーツは分からぬかも知れぬが「身近な」キャスターをシドニーに送り、数値結果だけに依拠しない派遣選手の選考を行なうことを「許す」のはなぜか。これこそが問われなければならないことである。キーナート氏は「日本人は遅れている」と批判されているだけである(そういうご主旨なのだから至極当然ではあるが)。筆者は批判ではなく、現にある「事実」を問い解明したいと思う。


 先程「空間は曲がっている」と述べた。これは聖と俗、非日常と日常といったものに対する感覚である。日本人は、浅薄に言えば、実に呪術的である。「客観的」時空間の感覚を長くは維持できない。そもそも「客観的」時空間は欧米から教わった感覚で、意識しなければ元の日本的(すなわち「歪んだ」)時空間にまたすぐに戻ってしまうのである。日本人は「客観的」時空間に棲んでいない。

 欧米人(特にアメリカ人)は言う、日本のスポーツはスポーツではないと。いわゆる「野球」と「baseball」の違いだろう。あえて問いたい。なぜ、同じでなければならないのか。実はスポーツとはグローバル・スタンダードの一尖兵である。キーナート氏らに代表される日本文化「後進」論は、文明文化の発展段階説を前提にしている。自分たちに都合のよい社会進化論がその正体である(「IT革命」もそうだ)。

 この際、ついでだから言っておくが、日本「異質」論は、そういう社会進化論に取り込めないから持ち出された例外排除論である。理屈に合わなければ、その現実が間違っていると主張しているのである。日本「後進」論、日本「異質」論のいずれにせよ、次のことが彼らのドグマとして隠されている。すなわち、欧米の文明文化が発展段階の最高点に立ち、社会進化の最先端にあり、欧米のそれこそが人類の「普遍」的(グローバル・スタンダード)な文明文化である、と。

(断わっておくが、そこに当てはめる国名は「日本」でなくともよい。例えば「中国」とか「北朝鮮」とか「ユーゴ」とか「イスラム」とか。それから、日本「異質」論を浴びせられて逆上し、開き直って「日本は特別だ」と言う論客も見かけるが、これも相手の思うツボだ。ハンチントンらは「文明の衝突」論で、わざと仕掛けているのである。乗せられてはいけない。少なくとも、日本の精神文化は「異質」でも何でもなく、広汎な環太平洋「神道」ネットワークやアルタイ・モンゴリアン文化グループの一員に属するものであり、これらもまた別の「普遍」文明なのだから。)

 無論、彼らの主張には、環境保護や人権擁護、それに民主主義など、学ぶべきそして真に普遍的たり得ることも多い。しかし、日本人にとって理解しやすい具体例として挙げれば「クジラ保護」問題を見ても分かるように、総論では理想主義だが、各論ではすり替えがあることに注意しなければならない。

 環境や人権や民主主義も、他の文明文化に対しては一度たりともそれだけのために主張されたことはない。必ず対外戦略の中で、自分たちの社会進化論が駆け引きの手段となる文脈の中で持ち出されている。早い話が「それって、野蛮じゃない!」と脅迫しているのである(私はアメリカが嫌いな訳ではない。文明文化の相対論、並立・共存を主張したいだけである)。


 失礼した。話が「吉外井戸のある村」的な所に大きくそれてしまった。元に戻そう。おっしゃる通り、日本人にとってスポーツはスポーツではないのである。

 少し注釈が必要だろう。千葉すずさんに代表されるようにスポーツをする当人たちの方は、近年多く「普遍」的スポーツに目覚め、これを志向している。なぜなら、選手個人からすれば、その場限りの使い捨てなぞまっぴら御免だからだ。当然であろう。それに対して、スポーツ「大会」だけを「見る」観客の方は違う。この観客にとって、スポーツはスポーツではないのである。

 「和魂洋才」という言葉をご存知だろう。これをスポーツに当てはめると、姿形やルールは欧米スポーツであるが、そこで発生し解釈されている意味は日本的な別物だということだ。日本でなされていることで、そういうことは珍しくない。同じものが別のものに見えるということだ。正に「空間は曲がっている」のである。

 そういう観客にとって、甲子園やオリンピックというような「スポーツ大会」は「神事」なのだ。巷間ささやかれるようなナショナリズムでもないだろう。この時ばかりは、陣営を越えて憚られることなく日の丸が高揚され君が代が斉唱されるのだから。では、いかなる神事なのかが問題である。

 一番ピッタリ来るのは「お祭り」という言葉だろうか。日本の年中行事として表現すれば「運動会」である。日本人にとってオリンピックとは、「日本という町内」の「子どもたち」が出場する大運動会に他ならない。運動会はもちろん神事である。そもそもオリンピックの起源が神事である。古代ギリシャ人や日本人は、神に競技(スポーツ)を捧げたのである。相撲も然り。そしてそれは神占いでもある。

 勝利への奮闘は祈祷の汗である。誰が勝つかは町や村の豊穣を掛けての神占いではあるが、それ以上に重要なのは競争による高め合いを通じての祈祷の高まり(深まり)である。実際、私たちが感動するのは、勝利に向けてのライバルとの激しい競争そのもの(プロセス)であるはずだ。これが神へと捧げられている。その応援もまた、神への祈祷である。神は競技者とそれを応援する者たちの強度を楽しまれているのだ。お祭りで神輿の熱狂が祈祷の高まりそのものであるように。

 甲子園の高校生ピッチャーは、観客から見れば、スポーツ選手なぞではなく神に祈りを捧げる「巫祝」(ふしゅく、かんなぎ)や「行者」そのものであろう。だからピッチングは非合理な「苦行」でなければならないのである。我が身をすりつぶす程の苦行によって、神は初めて微笑まれると信じられているのだ。申すまでもなく、「YAWARAちゃん」こと田村亮子選手がこれだけ称賛されるのも、彼女の「巫女」(ふじょ、みこ)としての八年間の「苦行」を知っているからだ。

 オリンピックが「町内」が参加する大運動会であるなら、それを応援する「町内に住む人々」つまり「日本人」の見物席はどこか。それは現実には「テレビ桟敷席」であるが、その「心」はロープで設えられた運動場の一隅に他ならない。

 であるが故に、運動会のアナウンサー役の「オリンピック・キャスター」には、町内で誰もが知っていて身近で親しみが持てる人や人気者が務める。そしてその人が、出場する「町内の選手」(日本選手)と応援席にいる「町内の人々」(日本人)との仲介者となるのだ。伝えるべきことは「スポーツ」ではなく、生い立ちまで知っている町内の選手たちの「活躍ぶり」(神事への精励ぶり)なのである。

 お互いに生い立ちやふだんの行状まで知っている町内の若人の中から、来るべき大運動会(オリンピック)の選手を選び出す。これまでの記録やチームワーク精神の如何はもちろん重要な判断要素だ。しかし大運動会という神事での競技には、それだけでは勝てない。これがお祭りを何度も体験してきた町の「長老」たちの経験知である。

 町内チームが希求する「勝利」とは何か。それは神占いであり、勝利によって豊穣をもたらす神を町に招き入れることだ。よって、選手選考の最終判断要素は「巫祝」や「巫女」としての能力となる。神は誰を愛でるかだ。その資質は、その人となりや日常の所作の観察から推断される。これはもちろん「スポーツ選手」の選考ではない。

 以上で予定した問いに答え終えた。善悪の問題ではなく、日本人はあまり変わっていない。実際の運動会が町内行事として奮わなくなったら、テレビを通じて「ヴァーチャルな町内会」が出来ており、そこで「大運動会」まで挙行されていたというわけだ。

 最後にどんでん返しを。空間は曲がったままだが、こちらから見ればあちらの空間の方が曲がっているとも見えるが、どうだろう。所詮は相対論なのだ。


(2000.09.23追記)余録として「インテルメッツォ」
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