mansongeの「ニッポン民俗学」

宇佐八幡神は新羅の神だった


〈宇佐八幡宮本殿〉

(一)香春の外来神・八幡神

▼宇佐八幡神は新羅の神だった

 八幡神は、いささか奇妙なところがあるが、間違いなく偉大な神である。「八幡大菩薩」と神仏習合名で呼ばれ、古代国家の大事にははるか九州宇佐の地から飛来した。朝廷からは伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神であり、その一方では武士政権の最大の守護軍神にもなっている。現在も、全国に約二万四千という日本第二の分社を数える人気神である(第一位は約三万五千の稲荷社)。

 ところが、この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神だったのである。別稿(日本人および日本の誕生)で述べたが、鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。ならば、守護神を八幡神とするのも至極当然である。源氏の「白旗」とは実は八幡の「素幡」(しろはた)だったということになる。そう言えば、「八幡」太郎義家と名乗った者もいる。また、明治維新の元勲・西郷隆盛が育った薩摩藩では、幼少からの藩士教育が盛んだったことが有名であるが、その作法が八幡神経由の新羅由来のものだったとしたら、どうだろう。

▼中国人が住むという「秦(はた)王国」

 『隋書』倭人伝である。608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。

 さて、この秦氏というのが、ものすごい。論者がそれぞれに主張することを合わせれば、半島の文明文化のすべてを運んだと言ってもいいくらいだ。例えば、畑作とは実は「秦作」であり、秦氏が畑作を広めたという主張がある。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長けていたと言う。後述するが、仏教や道教の普及者でもあり、日本最多の社数を誇る「神社」稲荷ももとは秦氏の信仰である。

 確かに秦氏は相当の多数で渡来し、豊前に留まらず山背国南部(太秦:うずまさ)など日本全国に拡がり、様々な活躍をしたことは間違いない。しかし、ここでは秦氏の神・八幡神の変貌を中心に記述し、彼らの信仰がいかにニッポン人の信仰へと流れ込んでいったのかを考えるための「補助線」を何本か引いてみるばかりである。

▼八幡(やはた)とは神の依り代であるハタのこと

 神名「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名である。「八」は多さを表し、「幡」は後ちの「旗」である。旗とは単なる目印ではなく、神の依り代(:ヒレ)であり、そのはためく様子は神が示現する姿そのものであり、鳥に化身した神が飛ぶ様子でもある(神使としての鳥、神の乗り物としての鳥が、より古形である)。八幡とは文字通り、多数の幡を立てて祭る神なのである。

 「宇佐八幡」とは、八幡神の「分神」後の呼称で、当初は単に「八幡」(やはた)であった。現宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、それに宗像の三姫神である。「もちろん」これは、虚偽であり剽窃(ひょうせつ)である。延喜式(905〜927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とある。最後の姫神とは宇佐地方・御許山の神である。そして大帯姫神が息長(おきがな)帯姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果として八幡大神は神功皇后の御子・応神天皇とされる。

 秦氏の神山は、南豊前(いまの大分県北部)に属する宇佐地方にはなく、その北西、筑紫に近い北豊前(現福岡県南東部)にある香春岳(福岡県田川郡)である。香春は「かはる」と読むが、もとは「カル」である。カルとは金属、特に銅のことである。飛鳥の天香具山の「カグ」も「カル」のことであり、ここの銅から鏡(カガミ)や矛を作ったのである。香春には古い採銅所があり、ここの銅から八幡宮の神鏡が作られており、そこには元宮八幡宮がある。

▼元宮八幡宮と、秦氏の新宮・香春社

 ところが、元宮八幡宮の「新宮」が宇佐八幡宮ではない。秦氏の新宮は香春社である(709年造営)。その神々は、延喜式によれば、忍骨命、辛国息長大姫大目命、豊姫命である。しかしここには、藤原不比等主導の新神祇政策に従う潤色がすでに混じっていた。新宮への遷座も、中央の指示による太宰府の命によるものだった。新羅の神のニッポン化への第一歩だ。

 忍骨命(オシホネ-ノ-ミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(みこがみ)である天忍穂根命(アメ-ノ-オシホネ-ノ-ミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。しかし屈折がある。「オシホネ」は「大-シホ-根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称)。つまり中核は「シホ」で、これは古代朝鮮語の原語「ソホ」よりの転訛、そしてその神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(こじつけ)と思われる。ソホとは「ソフル」(聖地の意:大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。

 次に、辛国息長大姫大目命(カラクニ-オキナガ-オオヒメ-オオメ-ノ-ミコト)である。「辛国」とはズバリ、新羅治下に入った「加羅国」に相違ない。「息長大姫」は息長帯姫(神功皇后)を強く示唆している。神功皇后は古事記によれば、新羅の「王子」アメノヒボコの後裔である。紀記伝承でアメノヒボコが立ち寄った地には、必ずと言ってよいほど息長氏の跡が残っている。「大目」とは、「秦王国」に六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。結局、朝鮮と日本の和合名である。

 豊姫命は紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つである。その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要は母神である。実は、秦氏の八幡信仰は母子神信仰である。そしてその御子神は「太子」と呼ばれる。ニッポン人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすだろう。そう、八幡神信仰には聖徳太子から、何と最澄や空海にまでつながっていたのである。

▼秦氏は新羅系加羅人だった

 秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。

 香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族である。後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。

 香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨(くじ)峯に降臨した。

 上は香春の神が新羅・加羅より渡来したことを語るために述べたのだが、せっかく神武天皇まで登場したので紀記の降臨神話にも少々触れよう。それは明らかに朝鮮神話の影響を強く受けたものである。書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を「日向の襲(そ)の高千穂の添(そほり)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(くしふる)峯」と記している。また、古事記は「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。

 もう一言だけ。朝鮮の降臨神話では王は卵から生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。実はこれが聖山より重要なのである。その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点がある。ただし、命が包まれていたという「真床追衾」(まとこおうふすま)には、卵の王たちを温めた布の温かみがかすかに残っている。

▼宇佐での八幡神祭祀は辛島氏のもの

 秦氏は香春地域から、南方の宇佐地方へも広がっていた。八幡宮で創始されたという放生会(仏教法会)は、その神仏習合ぶりをよく示すが、この祭事の巡幸路が「秦王国」の領域であった。それは、香春岳の銅で作られた神鏡を、元宮八幡宮から宇佐八幡宮を少し通り越した和間浜まで十五日間かけて、豊前各地を経巡る神幸であった。まさしく「八幡」が立てられての、にぎやかな朝鮮風巡幸であったと思われる。「秦王国」の両端に二つの八幡宮が置かれたのだ。

 宇佐の地での香春八幡神祭祀は秦氏一族の辛島氏に担われた。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(844年)によると、宇佐八幡神は「宇佐郡辛国宇豆高島」に天下ったとされる。これは香春とのつながりこそ失われているが、辛島氏の香春八幡神祭祀を証明している。「辛国」とは「日本の加羅国=秦王国」であり、ここでは辛島氏の本拠・宇佐郡辛島郷のことである。「宇豆高島」の宇豆(うず)とは「貴・珍・太」などの美称で、高島は「辛国の城(き)」と同じで峯や山のことである。

 つまり、辛島氏の神山に天下ったと書かれてあるのである。辛島氏の神山とは、本来は香春岳以外にはない。あえて、宇佐における辛島氏の神山を探せば「稲積山」である。実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」をつづめた称である。ちなみに、山背の「太秦」(うずまさ)の「うず」とは「宇豆」であり、「まさ」は「勝」で「すぐり」(朝鮮の「村長」)の意である。だから太秦とは、秦氏一族の勝(すぐり)の統領(が住んだ地)を表している。

 辛島郷には、辛島氏が祭祀した鷹居社や鷹栖山の山号をもつ寺があった。この「鷹」とは、実は香春の八幡神である。香春社のある香春岳は別名「鷹栖山」であり、田川郡とは「鷹羽(たかは)郡」を読み替えたものである。平安初期(814年)の「太政官符」に、六世紀末、八幡神が鷹に成り化して人を殺したので、辛島氏の神女(これが先の「オトメ」)がこれを鎮め、鷹居社として祭ったとある。おそらく、これが香春八幡神の最初の「分社」(宇佐地方での八幡神祭祀開始)である。


(二)国家神・宇佐八幡宮と大隅「正」八幡宮

▼国家守護神「宇佐」八幡宮の誕生

 五世紀末のことと思われる。雄略天皇が病いに倒れたとき、和泉国大鳥(鳳)郡(現大阪府堺市)から、物部氏に従う「豊国の奇巫」が呼ばれている。豊前(秦王国)出身の、ニッポン流ではない「巫医」のことである。そのおよそ一世紀後の587年、書紀には用明天皇の病いに蘇我馬子が「豊国法師」を呼んだとある。この間には「仏教公伝」が挟まれているが、医術を含む文化先進の「秦王国」は朝鮮風道教シャーマニズムの地であり、仏教も公伝以前から信仰されていた独特の習合信仰のメッカであった。

 そのことは、わざわざ「豊国」の奇巫や法師が内裏に呼ばれているように、また小野妹子らが「秦王国」の存在を隋使にもらしたように、中央政権でも承知のことであった。仏教を国家鎮護の要に据えようとする(そしておそらく神祇神道の革新も目論んでいた)馬子は、六世紀末に大神(おおが)比義という人物を「秦王国」に送る。大物主の大和国・大神社を「おおみわ」と読むが、大三輪氏(おそらく渡来人)と同根である。大三輪氏の祖である大田田根子の出身地・河内国スエ(加羅のスエ式土器にちなむ名)は、分国後の和泉国大鳥郡に属した。

 663年に白村江の戦いがあったが、これには日本軍として宇佐の辛島氏も従軍した。白村江での敗戦は、ニッポンの「日本」化を加速させた。おそらく712年、辛島郡鷹居社の八幡神は、中央の意向を汲んだ大神氏領導のもとに、土豪宇佐氏神域の小山田に移った。同年の古事記、続く720年の日本書紀の撰上は、古代ニッポンの神祇体制の完成を告げるものである。これを受けるように、725年、ついに八幡神は小山田から現在地の小倉山に遷座した。今に続く宇佐八幡宮の誕生である。

 国家神への転換は、720年の大隅隼人叛乱に際し、大伴旅人率いる征伐軍に、おそらく大神氏に教唆されて八幡宮禰宜(ねぎ)「辛島」ハトメの神軍が参加したことで、はずみがついたことだろう。737年には、朝廷は伊勢神宮などと共に八幡宮にも奉幣し新羅の無礼を報告、740年には藤原広嗣乱の平定を祈願し、翌年は乱平定の報賽(ほうさい)として金字の最勝王経(神様にお経!)などが奉納されている。745年、聖武天皇のご病気に際しては平癒祈願があり、翌年には三位に叙任される。749年、大仏造立のための黄金出土を託宣(見事に的中!)、次いで東大寺鎮守・手向山八幡宮として堂々の入京となる。

▼八幡宮の三神職と宇佐氏の姫神

 奈良時代末期以降は、宇佐八幡宮の大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜(ねぎ:祈ぎ)・祝(はふり)は辛島氏に一応固定し、各氏が世襲した。ただし、その力関係は単純ではなかった。前述のように、新参の大神氏は土着の宇佐氏を抱き込みながら、辛島氏の八幡神を徐々に奪取していった。先住の宇佐氏の信仰は磐座(いわくら)によるものだった。宇佐氏の神山・御許山(馬城峯)の姫神とはそういう神だ。

 辛島氏、そして香春岳の神は母子神だった。辛島氏は香春の姫神(母神)と太子神の二神を祭ったのである。それが大神氏の領導で、733年、姫神は宇佐氏の姫神に替わるとともに、それは神功皇后なのだということになった(このとき、八幡大神は応神天皇となる)。ところが、823年、神功廟とされる筑紫・香椎宮から大帯姫神が分遷され、宇佐八幡宮の祭神は三柱となる。幸いな(?)ことに、姫神は「もとの」馬城峯の姫神に戻ったのだ。

 それから、宇佐氏は海部出身だとも言う。八幡宮の姫神がいまの宗像の三女神にいつどのように替わったのかは筆者の不識だが、同じ海部でかつより著名な宗像の三女神が同体だとされたのであろう。馬城峯の磐座が三神から成ることや、「うさ」に通じる「スサ」の名を持つスサノヲの娘が宗像の三女神であり、スサノヲ自身も新羅出身との伝承もあることがそうなさしめたのだろう。

▼八幡宮の最高神職「禰宜」をめぐる争奪

 大神氏は、八幡神が国家神となっていく過程の中で主導権を掌握していった。そもそも、大神氏が中央から送り込まれたのはそれが目的であった。東大寺の大仏が完成した際、辛島氏を差し置いて、八幡宮「禰宜」大神杜女(コソメあるいはモリメ)と主神司(大宮司)の大神麻呂が上京し、朝臣姓を賜っている。奈良時代も末、道鏡事件が起きる。例の「道鏡を皇位に」と託宣したのは大神氏の巫女だ。結局、和気清麻呂が宇佐に参宮し再度託宣を受け、託宣は覆る。こちらは辛島氏の巫女が下したものだった。

 八幡神の降神秘儀と託宣は、本来秦氏の巫女の専儀であり、それが八幡宮の禰宜だった。だからこそ、八幡宮の三神職のうち、禰宜が最高職だったのだ。ところが、この頃までには大神氏がその禰宜職まで襲うようになっていた。和気清麻呂は道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還されるが、773〜4年には何と豊前国司に就いている。実はこのときに清麻呂が決めたのが、八幡宮の三神職の世襲なのだった。

 ここで、巫女に注目しておきたい。神懸かりして託宣するシャーマンが八幡宮の巫女である。誰かに似ていないだろうか。そう、紀記中最大のシャーマン・神功皇后である。巫女に憑依しているのは母子神である八幡神だ(八幡神は「太子神」として現れるが、そのとき巫女は言わば「母神」である)。母神の神格にぴったりなのが神功皇后なのである。大神氏はこうして「太子」たる応神天皇を持つ「大帯姫神」を持ち込んだのである。神功皇后が討伐に向かう中でもらす新羅への「愛憎」のうち、愛の方は「望郷愛」だったのかも知れない。

▼秦氏の移住と大隅国の成立、そして隼人叛乱

 平安期以降、辛島氏は八幡宮の中でしだいに劣勢に立たされ、鎌倉時代の『宇佐託宣集』に至る。そこには、八幡神は「宇佐郡の(宇佐氏の神山)馬城峯」に降臨し、先述の鷹に化身した八幡神を「大神比義が鎮め祭った」という縁起が臆面もなく語られている。ただ、ここにも八幡神自身が発した「辛島の城に始めて八流の幡を天降して、我は日本の神となれり」という言葉の中に「辛島の城に」という語句が、消しようもなく残ってはいるが。

 宇佐八幡宮の大神氏支配と辛島氏排除、また八幡神のニッポン化(つまり脱「加羅・新羅」化)が進展した平安後期以降、突如として「正八幡宮」を名乗る者が現れる。鹿児島社(大隅正八幡宮)である。なぜ鹿児島に八幡宮なのか。また、宇佐八幡宮をニセモノ呼ばわりする理由は何であり、自身の正統性は何をもって主張するのか、というような疑問が起こる。時代を遡らなければならない。

 太宰府の命で「秦王国」の人々の一部は、七世紀頃から日向南部に移住したらしい。そこは未だ朝廷に服さぬ「隼人」たちの国であった。699年に「稲積」(辛島氏の神山の名)城が築かれ、713年には日向国から大隅国として分立されるが、隼人の叛乱が相次いでいた。『続日本紀』には、714年の記事として「豊前国の民二百戸(五千名ほどか)を移して」とある。秦氏は曽於郡とそこから分けられた桑原郡に多く住んだ。「曽於」はソホであり、新郡名「桑原」とは豊前香春にある地名である。そして、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられたのである。

 720年の隼人叛乱に際しては、先述したが宇佐から辛島ハトメ率いる「神軍」が出動している。太宰府の命や大神氏の督促もあっただろうが、大隅に住む一族の危難の救済に向かったものと思われる。実は例の「放生会」とは、このときの隼人征伐に縁を発している。八幡宮の神軍が隼人を殺生したので、放生供養せよとの八幡神のお告げによるものなのだ。事実は、それまでの八幡神の神幸に「放生会」の意味に基づく仏教的儀式が付け加えられたということであろうが。

▼大隅国における秦氏

〈韓国岳〉

 大隅八幡宮(鹿児島社)は708年の創建と伝わる。香春新社や宇佐八幡宮造営も含めて、この八世紀初めの動きはただ事ではない。南九州での薩摩・大隅国設置=隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで遂行されたのである。もとより南方だけのことではなく、北方の蝦夷へも征伐軍は進んでいた。「日本」によるニッポンの制圧は政治・軍事面と並行して、紀記神祇神道による各地の外来神および「国つ神」の鎮圧として遂行された。晩年に入り辣腕を振るう藤原不比等の執念の影を感じる。

 さて、大隅国府(桜島北方、鹿児島湾北奥。現国分市)を中心に移住秦氏が多く住む地域の、西に大隅八幡宮、東に韓国宇豆峯社があった。あたかも豊前の香春社(ないし元宮)と宇佐八幡宮のように。韓国宇豆峯社の名の意味はもう読者諸氏には判明であろう。「辛国の(宇豆=大いなる)高島=城=峯」である。少し注意を願いたいのは「韓国」の用字である。「辛」ではなく「韓」の字が用いられている。これは「正八幡宮」の主張に通じる、自らの出自を明示しようとする用字・命名なのだ。

 ここから北に霧島山峰が望まれるが、その最高峰は天孫降臨の「高千穂峰」ではなく「韓国岳」である(「高千穂」は日向北部にもある)。ここには強い主張がある。例の『宇佐託宣集』は「日州(日向)の辛国城(辛国宇豆高島)、蘇於峯(そほだけ)これなり。蘇於峯は霧嶋山の別号なり」と記し、『続日本紀』は、788年の霧島山の噴火記事を「大隅国贈於(そほ)郡曽乃(その)峯」と呼称・記述している。朝鮮風の「ソホリ」とは本来誰のものかは言うまでもない。

▼「正八幡宮」を名乗る大隅八幡宮

 鹿児島社である。いまでは「鹿児島」と言えば、旧薩摩国に属し桜島に西から対峙する鹿児島市を中心に考えがちだ。しかし秦氏が住んだ鹿児島社あたり(もと日向国曽於郡、次に大隅国曽於郡、さらに桑原郡、現姶良郡隼人町)こそ「鹿児島」だったのである。「カゴ」とは、天香具山の「カグ」と同じであり「カル」(金、銅)である。霧島山にも宇佐・稲積山にも銅は出ない。ただ、香春岳のみである。「島」とは高島と同じで山と言っていいが、地域でもよいだろう。ヤクザの言う「シマ」もこれを受ける。

 大隅八幡宮は、もと隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に発する。神仏習合ならぬ「神々習合」である。大隅国隼人の地主神に、新住民・秦氏の八幡神信仰が架上されたのだ。平安末期の記録には、その神官は辛島氏出自の漆島・酒井氏とある。なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。

 860年、「大安寺」僧・行教が石清水八幡宮を勧請する。これが平安期における八幡信仰流行の一大契機となった。が、12世紀初頭成立の『今昔物語』には「初め大隅の国に八幡大菩薩と現われましまして、次には宇佐の宮に遷らせ給い、ついに、この石清水に跡を垂れましまして」と記される。13世紀後半の『百練抄』には、大隅八幡宮に突如として出現した石に「八幡」の銘が浮き出した(隼人神の影が残る「石体垂迹」)が、これを偽りだとして焼いた宇佐八幡神の神官が致死の天罰を受けたという話がある。

 要は、同じ八幡宮の鹿児島と宇佐との対立なのだが、これはいったい何なのだろうか。前述のように大隅の神官は辛島氏系であったが、宇佐の辛島氏本家は、平安末期までに禰宜職は大神氏の巫女に奪われ、宇佐神宮寺の権検校職へと冷遇されていた。さらに、検校職からも排除されようとしていたのだ。これへの抗議が、大隅の辛島氏に「正八幡宮」を名乗らせ、宇佐八幡宮を無視する八幡神伝承を語らしめたのだ。

〈国分市より桜島を望む〉

▼日向国周辺の「天孫降臨パラノイア」

 鹿児島社は、元官幣大社、大隅国一の宮で、現主祭神は天津日高彦穂穂出見尊と豊玉比売命である(相殿には、仲哀天皇とその后・神功息長帯姫、その御子・応神ホムタワケとその后・中姫の四神を祭る)。例の、山幸彦の彦ホホデミ命と豊玉姫である。もちろん、これも付会である。香春社の主神も天照大神の御子・天オシホネ命に似たオシホネ命であったが、改めてそのあたりの天つ神の系譜を示そう。

  アマテラス大神−天オシホネ命−ニニギ命(降臨)−彦ホホデミ命(山幸彦)−ウガヤフキアエズ命−イワレ彦命(初代人皇・神武天皇)

 紀記の「日向にニニギ命は降臨した。イワレヒコ命は日向から東遷した」などの記述から、日向国を中心に九州には「天孫降臨パラノイア」が蔓延している。どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。

 九州での「降臨」伝説は、新羅・加羅から秦氏が八幡神とともに持ち込んだとも考えられる。豊前の秦王国から日向へ、そして大隈となった現鹿児島県東部から西部の薩摩へと、秦氏の移住先には八幡神信仰が移植され、その降臨伝承がニッポンの天孫降臨神話に置換されていった。降臨神話のすべてとは言わないが、少なくとも、もと八幡神信仰のあった地でのそれは置換されたものに相違ない。

 正八幡宮には「降臨」伝承の他に、次のような「漂着」伝承もある。「大隅正八幡宮縁起」は云う。震旦国(中国)の陳大王の娘・大比留女(おおひるめ)は、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る。(…)大隅国に留まりて、八幡宮に祭られ給えり」。母は「筑前国(…)香椎聖母大菩薩と現れ給えり」と。

 この「漂着」伝承は、新羅などの朝鮮王神話とまったく同型の「倭族」神話である(たいへん原型に近い)。八幡神が南朝鮮の神であることをこれほど明白に語るものは他にない。ここにも八幡神は「太子」(童神)であることが述べられている。「オオヒルメ」は天照大神の造型の際、モデルとなった神格である。母神は香椎宮に現れたとあるが、つまり息長帯姫(神功皇后)であるということだ。


(三)新羅、秦氏、八幡神の信仰の広がり

▼島津氏が継承した新羅の民俗

 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。

 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行なわれたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

 その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。

▼「太子」信仰とは何か

 『宇佐託宣集』には八幡神の様々な伝承が収められているが、年齢に関する記述を拾うと「天童」「三歳の小児」「五歳」「七歳」などが見つかる。要するに、八幡神は童神なのである。「聖徳太子」なぞと言うときの「太子」とは何であろう。これは、王の子、王子という意味でふつう理解されているだろう。しかし八幡神の「太子」とは、誰それの子という意味ではなく、子どもであること自体が重要な神格である神を言う。

 「太子」とは朝鮮の巫女が降神させるある神霊への呼称であり、その巫女は「太子巫」と呼ばれた。ここにも「母子」のセットが見つかるが、朝鮮の神王は卵から生まれる。だからその卵(アル)は太子なのだが、生まれた太子もアルなら、生んだ卵たる母もアルなのだ。紀記神話の天照大神と天オシホネ命、神功皇后とホムタワケ命も「アル」だと分かる。しかしニッポンではしだいに母神が欠け落ち、太子だけの信仰となる。

 思えば、アメノヒボコはなぜ新羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか、ツヌガアラシトはなぜ大加羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか。彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。

 聖徳太子にまで線を引いておけば、彼の童子形の画はただの子ども時代の画ではない。わざわざ「童子形」で描かれたものだ。すなわち「太子」とは皇子という意味ではなく、やはり「アル」(童神)の「太子」だったのである。もしそうではないのなら、彼は「聖徳皇子」と呼ばれて然るべきだろう。いまに続く聖徳太子信仰には、八幡神と同根である、はるか朝鮮・新羅のアル信仰が流れ込んでいたのである。

▼鍛冶神としての八幡神

 秦氏の仏教や神仏習合、さらに修験道などに進みたいのだが、少し寄り道をさせて頂く。東大寺大仏造立に八幡神が登場するが、これは必然的なものであった。大仏の鋳造には、八幡神の助力が欠かせないものだったからである。聖武天皇が大仏造立を発意されたのは河内国大県郡の知識寺で大仏をご覧になったのが機縁だったが、その知識寺とはこの地に住む秦氏が造立したものだった。豊前からの動員も含めた秦氏の金知識衆(鋳造技術者)なくしては、大仏の完成はとうてい叶わぬものだったのだ。

 この河内国大県郡に高尾山(現高安山か。新羅系ニギハヤヒ命の降臨地だとの説もある山)がある。別名鷹尾山、鷹巣山である。そしてそこには高尾社(鐸比古鐸比売社:たくひこ-たくひめ社。実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。

 放生会では香春山の銅で神鏡を鋳造し、神幸の旅はそこから宇佐・和間浜で終わる。和間浜とは八幡神が鍛冶翁神として顕現した聖地であった(三歳の小児として正体を現す)。ずばりここは宇佐・辛島氏の、もと鍛冶場だ。鍛冶とは、神と交わり、火と風と水と金属を制御する秘術であり、シャーマン(巫覡)の業だった。そしてとりわけ火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであった。それが秦氏の場合、鷹であった。

 神職・禰宜の古体は「祝」である。「ハフリ」と読むが、これまでは罪や穢れを「放る」(ハフル)という意味で解されてきた。しかしこれを鍛冶鳥の「羽振り」と解したらどうだろうか。巫祝のトータルな姿が見えて来る。神の依り代(シャーマン)であり、神の言葉を預託し、神の業である鍛冶や鋳造を司り、神である鳥のしぐさをまねる。鍛冶のふいごをタタラと言うが、紀記中の「タタラ」姫は巫女である。「トトビ」姫も巫女だが、トトビとは「鳥飛び」であり、ここでも鍛冶-巫女-鳥の連鎖が見られる。

▼和気清麻呂と秦氏

 前述の、河内秦氏の鍛冶・鋳造神、高尾社のヌテシ「ワケ」命は、実は和気清麻呂の和気氏の始祖でもある。ヌテシワケ命は河内国高尾山に葬られ、そこに高尾社として祭られていたが、後ちに和気氏が備前国に遷座し、氏神和気社を創ったとされる。和気清麻呂とは通称で、本名を「磐梨(いわなし)別公(わけのきみ)」と言う。つまり、イワナシ氏というのが、和気(ワケとは「別」で、石と鉱石を分けること)氏の本姓であり、備前国石生(いわなし:石が金属に成り変わること)郷がその本拠地である。

 イワナシ(和気)氏も鍛冶・鋳造に関わる氏族であったが、高尾社の因縁からも分かるように、秦氏と深く結び付いている。清麻呂がなぜ宇佐八幡宮の託宣を確かめに派遣されたのか。また、それで称徳天皇のご勘気を蒙ったが、なぜ大隅に流されたのか。さらに、召還後すぐになぜ豊前国司に任ぜられたのか。いずれも秦氏の縁地であった。清麻呂はその後、山背秦氏の「高尾」山寺(後ちの神護寺)の復興にも関わった。

▼新羅の常世神信仰と太秦・秦河勝

 話を次に進める前にもう一つだけ、布石でもある「常世神」にお付き合いを願いたい。書紀644年条にその事件のことが記されている。富士川(駿河国)近くで、大生部多(おほふべ-おほ)という男がカイコに似た虫を、富と長寿の「常世神」として祭ることを始めた。当地の巫女もこれに加担して、ご利益を求める人々で一時は評判になったのだが、すぐに化けの皮がはがれた。見かねた秦河勝が、大生部多を打ち懲らしめた、というものである。

 この秦河勝こそ、山背国に太秦(秦氏の長)としてそこに本拠を構え、広隆寺を建て、聖徳太子に仕えた大立者である。富士川あたりは、実は秦氏が多く住む地の一つであった。そして何と「常世連」と名乗った秦氏族もいた。それは河内の赤染氏(香春社の神官家と同族で、常世岐姫社を祭る)である。結局、大生部氏とは秦氏一族、もしくは縁戚関係にあったも者だと思われる。新羅の常世信仰を歪曲して広めようとする大生部多と巫女に、一族の太秦たる秦河勝が掣肘(せいちゅう)を加えたのである。

 事件は書紀中に一エピソードのように語られているが、これはニッポン宗教に大いに関わる、新羅の民俗宗教の一突出譚であった。養蚕は秦氏が持ち込んだ一大所産であるが、実に香春郡の「桑」原、大隅の「桑」原郡などの命名は、秦氏自身にとってのその大きさを示している。カイコは幼虫・繭・蛾と三度変態する。すなわち、死と再生のシンボルで、新羅の常世信仰を象徴するものだったのである。この常世信仰が仏教と習合し、弥勒信仰となる。


(四)秦氏の仏教・神仏習合・修験道

▼新羅の「神仏習合」と秦氏の「私宅仏教」

 新羅には、海から漂着したアル(卵)の母子神信仰があった。これに山上降臨型の神信仰が習合したのが、太子と巫女(依り代)のシャーマニズム信仰である。太子信仰はいつか、死と再生の常世信仰を含んだ道教系山岳アニミズム信仰とも習合していく。山岳遊行する者は、神もしくは神の依り代と見なされ、それが伝説の「花郎」や「源花」となる。これらは鍛冶のための鉱脈探しなどの中で、山中や洞窟において互いに出会い、結び付いていったものだろう。さらにそれらは仏教、特に弥勒菩薩信仰とも習合し、太子=花郎(山岳修行者)=弥勒という変換式がやがて成立する。

 仏教は、新羅に高句麗から五世紀前半に民衆ベースで流入している。それは「私伝」であり、寺ではなく各家で礼拝された「私宅仏教」である。「公伝」の方は六世紀前半のことであった。こちらは仏のための施設=寺が用意された「伽藍仏教」である。わがニッポンにもこのように仏教は入ってきたのだろう。事実、秦氏は「公伝」前に、半島で複雑に習合した「私宅仏教」を豊前に持ち込んでいた。

 五世紀末に雄略天皇の許に医者として呼ばれた「豊国奇巫」は、587年に用明天皇の病床に呼ばれた「豊国法師」につながっている(呼んだのは蘇我馬子で、この年、神仏闘争が起きて、物部氏が滅ぶ)。前者の「奇巫」という呼称は中央政権が仏教を認識する以前だったからそう呼んだにすぎないだろう。後者の「法師」とは僧集団が豊前に居て、その中から「法医」として優れた者がわざわざ召し出されたと解すべきだろう。それに対して、当時、都の飛鳥にいた法師は高句麗僧・恵便ただ一人であった。

 伽藍仏教が盛んになるのは、神仏闘争決着後、聖徳太子の「三宝興隆の詔」以降のことである。秦王国でも、それまでは「私宅仏教」のスタイルで崇仏が行なわれていた。それは家に「窟室」というものを設け、そこに仏像や経典を祭るものであった。「窟」とは洞窟や石屋などのことである。山岳の窟が家の中に擬して取り込まれていたのだ。

▼法医・弥勒・花郎としての法蓮

 飛鳥の法興寺を嚆矢に、日本に伽藍が建ち始める。豊前では白鳳時代を中心に、いずれも新羅様式の虚空蔵寺、天台寺、垂水廃寺、椿市村廃寺、豊前国分寺などの建立ラッシュとなる(他に百済様式の寺もある)。この頃、前述の「法医」の系譜につながる豊前僧に法蓮という者がいた(『続日本紀』703年および721年の文武紀条)。法蓮は、辛島・宇佐氏の虚空蔵(こくうぞう)寺の座主、次いで宇佐八幡宮神宮寺・弥勒寺(725年創建)の初代別当となった僧である。

 彼は香春山中で修行したというが、そこには医術で、例えば「龍骨」という薬となる石灰岩があった。文武天皇に名医として褒賞された法蓮には、道教の練丹術につながるような石薬術があった。これが豊前の「巫医」や「法医」たちの秘密の一つであろう。また『宇佐託宣集』は、英彦山の窟で修行した法蓮を弥勒の化身と書いている。弥勒寺は正しくは「弥勒禅寺」と言い、その「禅」とは山中修行を指している。山中の弥勒とは花郎でもある。

 窟とは岩穴であるが、そういった所を聖所とするのは後ちの修験道を強く思わせるだろう。この窟信仰は新羅の民俗である。窟は「穴」とも縁が深い。大和の穴師兵主(あなしひょうず)社は新羅の王子アメノヒボコを祭り、かつては穴師山(弓月嶽・巻向山)にあった。ここは秦氏始祖とされる弓月君に関わる地である。アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。ここは新羅系息長氏の本拠地である。

▼秦氏のもう一つの聖山・英彦山

 781年頃、朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、さらに783年に「大自在王菩薩」を追号している。これで、名実ともに「八幡大菩薩」となったわけだ。この「菩薩」とは何か。神宮寺が弥勒寺であるように、弥勒菩薩である。そして、秦王国にはもう一つの聖山があった。豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。

 英彦山は、後ちに役小角が開山とされるが、九州随一の山岳道場、修験道の霊場である。『熊野権現御垂迹縁起』(以下『熊野縁起』)は、熊野権現は唐の天台山から飛来し、まず英彦山に天下り、そこから伊予・石鎚山、淡路の遊鶴羽岳、紀伊・切部山、そして熊野新宮の神蔵山を経て、ついに本宮に顕現したという。本邦における山岳宗教・修験道の系譜は英彦山に始まっている。

 『彦山流記』によれば、英彦山の鷹栖の窟に鷹が来て住み、この鷹が英彦山の神の化身となったとある。またしても秦氏の「鷹」である。『彦山流記』(1213年成立)は、震旦国の王子晋(弥勒の化身)が英彦山の磐窟の上に天下り、四十九窟を開き、そこに天童(金剛童子)を置いたとする。今度は「天童」(太子)である。次に『彦山縁起』は北魏僧・善正が開山と記す。先の『熊野縁起』には、熊野権現は北魏渡来とも書かれている。これらは、南朝-百済ルートではなく、北朝-高句麗-新羅ルートを示唆する。

▼役小角の新羅修行

 役小角は本邦修験道の祖とされるが、奇妙な伝承がある。『日本霊異記』だが、道昭(百済系渡来人で、唐から帰国後、元興寺にいた高僧。日本法相宗の祖)が、唐で三蔵法師・玄奘に法相を学んでの帰国途上、わざわざ「新羅」に立ち寄り、そこの山中で修行中の役小角に出会ったというのである。なぜ「新羅」に役小角が居らねばならなかったのか。修験道の新羅出自を暗示するものである。

 そう言えば、役小角の弟子には「韓国」連広足という渡来人もいた。大峯山南峰には「朝鮮が嶽」と名付けられている山もある。実際、新羅の花郎は道教仙人のように山川遊娯し、山岳の窟や岩石に信仰を持つ修験者そのものである。彼らは洞窟に籠もり修行したが、そこは「弥勒堂」と呼ばれた。花郎とは童子(熊野権現にも童神が多くいる)であり、弥勒である。それは神・仏・道教の習合宗教であり、法蓮も典型的な習合僧であった。「役小角」という伝説の人格とはこのようなものであった。

▼弥勒信仰と聖徳太子

 書紀603年条に、太秦の秦河勝が、新羅使から贈られ聖徳太子が所有していた弥勒半跏思惟像を賜り、広隆寺(蜂岡寺)を創建したとある。新羅-聖徳太子-秦氏が弥勒像・弥勒信仰によって結び付けられている。弥勒信仰には、弥勒菩薩が棲む兜率天(とそつてん)内院(注)に往生する上生と、五十六億七千万年後に人間世界に下生する弥勒と出会う下生の信仰がある。

(注)内院には四十九院ある。言うまでもなく、英彦山四十九窟に投影している。また、東大寺二月堂のお水取りは、笠置山の龍穴の奥から参入した兜率天内院での法要を模したものと言うが、山中の穴や兜率天内院など、ここにも新羅の菩薩信仰の影が濃厚である。

 上生した者も弥勒とともに下生する。つまり、弥勒信仰とは死と再生の常世信仰である。しかも、上生往生には、出家・仏道修行の僧でなくとも、在家・煩悩のままで叶うという。私宅仏教向きである。筆者なぞは、ここで親鸞を思い起こさずにはいられない。弥勒菩薩が阿弥陀如来とはなっているが、上生・下生とは親鸞の往相回向・還相回向に他ならない。

 弥勒は下生し修行するが、これが洞窟に籠もる花郎や童子である。下生した弥勒を写したのが、弥勒半跏思惟像とされる。弥勒は第二のシャカであり、それは出家前(在家)のシャカ、シッダールタ王子(悉達「太子」)像である。聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。

▼豊前と加賀の白山信仰

 英彦山を始め豊前の修験の山々には、必ず白山神が祭られている。これはどうしたことか。白山信仰は元来、満州のツングースのもので、そこには「白山部」という部族もあった。白(パク)信仰である。花郎が聖山として登る、朝鮮の金剛山の頂は「白峯」で、そこは死と再生が行なわれる常世・冥界との出入口だった。神仏習合で「白山権現」と呼ばれる豊前の「白山・小白山」信仰は、古朝鮮の始祖・檀君の降臨神話につながる中国や朝鮮の「太白山・小白山」信仰である。

 富士山・立山とともに「日本三霊山」とされる加賀白山でも同じで、「白山・小白山」信仰である。これは日本海を介した山岳修験信仰であることに注意したい。加賀白山の開山は秦澄(たいちょう)であるが、姓字のとおり彼も「秦氏」なのだ。その父は越前国の渡し守で、そこの敦賀港にはもちろん秦氏が居住してした。『元亨釈書』にはご丁寧にも、秦澄の母は「白玉」が体に入る夢を見て、身籠もったとある。彼の出自を明示する、朝鮮の卵生神話である。

 実は、加賀と豊前の白山信仰に一つだけ違いがある。豊前には白山に付随してある天童信仰が、加賀にはないのである。朝鮮に最も近い対馬の白山には、天童信仰が付随している。繰り返しになるが、英彦山の「ヒコ」は「彦」であり「日子」である。つまり英彦山とは「アル山」なのである。一方、加賀・白山姫社は白山姫を祭るが、これは「アル」のもう片方の母神に他ならない。

 なお、白山は原型では、聖なる金属の山、すなわち鉱山でもある。鉱山神や鍛冶神が棲む山である。豊前ではそれは英彦山ではなく、香春岳ではあるが。秦氏の故地・加羅や新羅は鉄の産地であった。例えば、青森・秋田両県にまたがる白神山地は鉱物が豊かな地である。そして白山はアジール(世俗法が無効になる宗教聖地)であった。空海が寺院建立の適地を求めて、高野山周辺を巡った意味は秘教的だ。傍らには水銀豊かな丹生川が流れる。鉱物は金属や薬となる、神仏との回路を開く物質であった。密教の護摩も何だか鍛冶に似ている。


(五)最澄と空海、そしてニッポンへ

▼最澄と円珍の弥勒信仰

 平安仏教の両雄、最澄と空海も八幡神と秦氏に縁が深い。平安時代に入って、聖徳太子信仰を広めたのは最澄である。最澄は、法華経を通じて弥勒を強く信仰し、その始祖として太子を深く崇めた。思えば、ニッポン宗教にとって法華経とは実に偉大である。広汎な観音信仰もこの中にある。

 最澄が延暦寺を建てた比叡山は、おそらく先住の山背秦氏の聖山であった。それを譲り受けたのだ。平安遷都の794年、王都鎮護の法要が最澄を施主として行なわれているが、ここに秦氏出の勤操、護命という二人の僧が招かれているのも、平安京が山背秦氏伝来の地であったからだ。最澄の唐留学も、秦氏と関係が深い和気清麻呂の子・弘世と真綱が桓武天皇に勧めたことで成ったものである。

 804年、最澄は入唐に先立って、和気氏や秦氏出の僧勤操の勧めもあってか、弥勒信仰の盛んな豊前に立ち寄り香春岳に登っている。唐留学を終えて無事帰国した折りも再訪し、香春社に神宮寺・法華院(法華経を通じての弥勒信仰という意。神宮院)を建てている。そして帰京後は、和気氏の高尾山寺に日本最初の灌頂道場を設けている。

 延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である。そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。

▼空海に伝授された虚空蔵求聞持法

 前半生に不明な点が多い空海であるが、八幡神と秦氏を補助線にしてみると意外にも空海の別の相貌が見えてくる。若き空海は長岡京(平安京の前都。ここも秦氏の土地)で、前記の僧勤操から虚空蔵求聞持法(こくうぞう-ぐもんじほう)を学んだという。これは広大無辺の福徳・智慧を授かる秘法であった。その元は、帰国後に大安寺を開く僧道慈が入唐中(702〜718年)に、インド僧・善無量三蔵から口承伝授されたものである。これを大安寺の善議−勤操を経て、空海へと伝授されたのだ。前記の僧護命も大安寺に居た。

 道慈は大和国額田氏の出である。氏寺の額田寺を額安寺とし、手ずから造った乾漆虚空蔵菩薩半跏思惟像(現存)を祭ったという。額田氏は手工業者の熊凝(くまごり)氏と同族であり、その氏寺・熊凝寺は聖徳太子が発願したという。これが後ちの大官大寺の前身であり、道慈によって平城京に移されて、大安寺となった。虚空蔵菩薩と言えば、山背国法輪寺(秦氏出の道昌が開祖)のそれは漆器業や工芸職人の守護仏である。虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造にも結び付き、山岳や弥勒信仰にもつながっている。

 虚空蔵求聞持法の神髄は、錬金術にも似た神薬などの「製造法」にある。このことが手工業の守護仏であることにつながっている。インド僧・善無量は造仏などの天才であったと言い、道慈も菩薩像を造った。豊前の法蓮が「法医」として作った神薬もここに通じている。その法蓮は「虚空蔵」寺の座主であった(寺名には秦氏の手工業=非農耕民性もうかがえる)。大安寺は雑密(空海以前の密教)化した寺であり、八幡神につながっている。宇佐八幡神を石清水に勧請したのも、大安寺僧の行教であった。

▼空海、和気氏の高尾山寺へ入る

 空海は806年に帰朝するが、すぐには入京せず、しばらくは九州に留まったらしい。807年、最澄が空海の師・勤操に遊行を止めて比叡山に戻るように言っているが、これは九州の空海の許へ向かったものらしい。二人は香春岳や英彦山などの秦王国を「山野遠遊」したのだろうか。その後、空海は勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移りここで受戒し、さらに山背国の高尾山寺へ入る。

 高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祭る例の高尾社近くにあった、和気清麻呂が八幡神の託宣により創建した神願寺(一名、高尾寺。高尾社が鎮守)を、子の真鍋と仲世が山背国の高尾山寺に移したもので、後ちの神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の寺である。愛宕社の神宮寺・白雲寺の開祖は役小角と雲遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・泰澄のことである。

 どおりでか、愛宕山は「白山」権現でもある。多少遡るが、桓武天皇即位の781年、山背国への遷都を前にして愛宕権現で祭祀が行なわれている。このとき、「大安寺」僧・慶俊を本願主、和気清麻呂を祭祀奉行としている。桓武天皇の長岡・平安両京への遷都造営大夫は和気清麻呂だった。山背国の地は、秦氏の神地だったのである。和気氏は朝廷と秦氏の間を取り持つ役割を終始つとめていた。

▼東寺の鎮守は八幡社と稲荷社

 空海は816年に高野山を開いた後、823年になって東寺(教王護国寺)を与えられる。空海の入京までの十余年に及ぶ「潜伏」は何なのだろうか。筆者は、桓武王朝の百済アイデンティティーの強さへの恐れを思う。裏を返せば、空海の新羅への近さだ。讃岐の佐伯氏の出というが、その実体は不明だ。以下に述べるが、空海こそ、法蓮の「嫡子」であり、ニッポン習合宗教の祖であった。

 伏見稲荷社の創祀は711年である。にもかかわらず、『弘法大師伝抄』によれば、空海は筑紫(九州)で稲を荷った大夫に出会ったあと、その大夫が再び東寺に現れて稲荷山に去った。そして823年頃に空海が伏見稲荷社を造ったという。これを何を意味しているのか。九州・豊前で秦王国のイナリ信仰に出会い、すでに山背秦氏によって祭られていた稲荷社を東寺の鎮守としたということであろうか。

 東寺の鎮守は二つあり、内鎮守が八幡社、外鎮守が稲荷社である。『高野大師行状図画』と『稲荷記』は、稲荷大明神は「魏国の大臣」と記す。どこから「魏」が出て来るのか。すでに述べたが、『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかあるように、「魏」は方位磁石の針のように秦王国を指し示している。

▼空海に「秘密」とはあったのか

 空海は、門外不出の秘法・虚空蔵求聞持法を讃岐秦氏出の僧道昌に伝授している。道昌は、828年に例の神護寺で空海から両部灌頂と虚空蔵求聞持法を受けて、翌年から秦氏の松尾社北麓の葛井寺に参籠する。百ヶ日の虚空蔵求聞持法を修して、ついに虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を刻して虚空蔵像を安置し、寺号を「法輪寺」と改めた(『源平盛衰記』)。法輪寺とは、聖徳太子追善のため大和国斑鳩に建てられた法輪寺(飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像がある)の借名である。道昌は、836年には山背太秦氏寺・広隆寺の別当職に就いている。

 空海の遺言『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には「必ず兜率天に往生し、五十六億年の後、必ず弥勒慈尊とともに下生する」とある。空海は高野山を、弥勒の兜率天へ上生往生するための聖地としたのだ。「即身成仏」の空海とはずいぶんと違う。しかし後ちには、高野山そのものが兜率天内院に擬せられ、空海も弥勒の化身とされていく。これは、英彦山が兜率天とされ、法蓮が弥勒の化身とされたのと同じだ。

 こうして見ると、空海の密教とは、自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰から成るものだったことが分かる。弥勒信仰は聖徳太子(タイシ)信仰となって普及していった。この信仰は、なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかもお分かりだろう。

 最後に、法蓮の「嫡子」たる空海の習合宗教「密教」をもう一度考えておきたい。彼は何のために山野遊行をしたのか。アルの母子神を求めて、日子=太子=弥勒を求めて、常世=兜率天の出入口を求めて、神仏との回路たる鉱物を求めて…。シャーマニズム、アニミズム、道教、仏教、神道、朝鮮宗教などの坩堝(るつぼ)…。それが仏像による立体曼陀羅であり、護摩などの加持祈祷であった。秦氏の八幡神「雑密」信仰は、空海によって「純密」と姿を変えたのである。それはすでにニッポン宗教であった。しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。


[主な典拠文献]
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