mansongeの「ニッポン民俗学」

複合王朝としてのヤマト王権---葛城氏の正体



(一)

 この小論で試みたいのは、ヤマト王権のしっぽを捕まえることである。決して真正面から捉えた姿ではないことを、あらかじめお断りしておく。本稿を書こうと思ったのは、葛城氏の正体を垣間見たような気がしたからである。その正体とは何か。加羅(伽耶)連邦を構成する一国の王族である。日本列島のヤマト朝廷の重「臣」でありながら、朝鮮半島内の一国の王族でもあるという二重性格をもった氏族が葛城氏である。もちろん、全くの夢想でそう言っているわけではない。

 葛城臣氏はその名の通り、大和国葛城地方の豪族である。その葛城氏の祖は葛城襲津彦(そつびこ)であるが、彼にはもう一つの根拠地があった。半島の加羅、特に金官国である。書紀に記された襲津彦の事績を見るがいい。彼自身の国内の記事なぞ全くない。わずかに、仁徳天皇に嫁いだ娘・磐之姫が登場するくらいである。彼に関する記録はすべて半島での行動であり、かつそれらはとてもじゃないが「活躍」と呼べるような代物ではない。

 そういう人物が、神功皇后・応神天皇・仁徳天皇三代に仕え、一族は後ちの蘇我氏もうらやんだという大権力を朝廷内で振るっていたのである(崇神帝の前までは「葛城王朝」だったという説もあるが)。実に不可解なことである。実際、「平民」の娘が正妃となるのは、崇神天皇以降ではこの葛城氏が初めてである。このことは奈良時代の聖武天皇が藤原氏の光明子を皇后に迎えるために、わざわざ「歴史的先例」として言及しているくらいに異例なことであったのだ。

 襲津彦は半島で何をしていたのか。書紀によれば、新羅へ人質を返しに行ってだまされ、腹いせに新羅から捕虜を連れ帰り(神功紀五年)、新羅征討を命じられたが、その新羅から美女二人を贈られて、かえって加羅王を討って百済へ追いやってしまい、皇后の怒りを買っている(同紀六二年「百済記」引用文)。また、加羅から弓月の民(秦氏に近い渡来民)を連れてきたり(応神紀十四・十六年)、無礼があった百済王族を連行したりしている(仁徳紀四一年)。

 ここから分かることは、朝廷の駐韓軍事大使のような役割を果たしていたことと、天皇の命令を重んじてはいかなったことだ。葛城氏は仁徳朝以降数代にわたり、皇后の家となり「大臣」ともなる。領地も狭くてろくな活躍もしない葛城氏を、なぜ外戚とせねばならなかったのだろう。それは、葛城氏が加羅の王族であり、その支持がこのときどうしても必要だったからだ。そして、葛城氏は天皇家と対等の氏族であったのだ。

(二)

 話は遡る。前稿「古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン」で述べた通り、朝鮮半島南部の古代韓民族とは中国・江南から山東半島を経て移住してきた「倭族」であった。そしてその第二波が、すでに「韓人」として自らのアイデンティティーを確立した先着民とは区別される「倭人」であった。わが列島での「弥生文化」は紀元前三世紀頃に始まるとされるが、おそらく直接的にはこの倭人の活動によるところが大きいと思われる。

 倭人は、先着の韓人が比較的少なかった弁韓地域の沿岸地帯を中心に、対馬、九州北岸などで舟から降りたものと想像する。彼らはもちろん「海人」の一派でもあり、日本海と瀬戸内海沿いに拡がっただろう。一派だと言ったのは「海人」には少なくとももう一つ別派が明らかにいるからだ。それは台湾、琉球列島伝いに南九州に至り、さらに南四国、紀伊半島を経て、房総半島へと伸びる太平洋岸・黒潮ルートだ(これは「逆流」すれば、ポリネシアに至る流れである)。

 弥生時代の「邪馬台国」についてはここでは留保させて頂くが、例の金印の奴国は倭人のクニ(地域小国家)に間違いない。倭人たちは日韓海峡に小国家群を作ったのである。紀記伝承の「天下り」とは「海下り」に他ならないが、それはこの地域(主として半島南岸)から列島へ下る(起点から遠ざかる)ことである。神武東遷に先立つニギハヤヒの天下りが語られているように、海下りは幾度もあっただろう。これが「渡来」である。

 経緯はともあれ、後ちの「天皇族」は大和盆地南東部に進み、そこの多重的な先住民たちを支配する。ここに興されたヤマト王権とはもちろん微少なものであり、列島内に並立する多くのクニグニの一つにすぎなかったが、結果的にはどんなにその血が薄められ、あるいはたとえ別の血に取って代わられたとしても、名としては生き残りいまも生き続けている「万世一系」の王家である。要するに倭人こそがヤマト王権の中核となったと筆者は考える。

(三)

 再び葛城氏である。紀記に雄略天皇の事績として、葛城山で天皇一行とそっくりな一言主神一行と出会い、対峙したという話がある(「一行」とは軍列でもある)。これについて様々な解釈がなされているが、天皇族の現人神と葛城氏の神との対峙であり、時の葛城氏の威勢を物語るものだする説がある。そうだとしても、その説明には何かが欠けている。それは、葛城氏は決して「臣下」なぞではなく、天皇族とは独立・対等の「王族」であったという視点である。

 実際にはこの雄略朝のとき、葛城氏は没落する。雄略天皇はヤマトタケルのような活躍をした征服王であるが、この大王に時の葛城円大臣は、これまではそれで通ったからであろう、帝に反逆した眉輪王を無造作にかばい立て、帝の逆鱗を買って眉輪王とともに殺されたのであった。そして倭国との、葛城氏という直接的なつながりを失った加羅は「連合」を捨て、宋に替わり南朝に479年新成立した斉に、初めて独自で朝貢使を送っている(その後、統一成った新羅に加羅は併呑される)。

 ニッポンの名となった「倭国」は「倭人の国」の意味ではあるが、初めは特にわが列島を指す名ではなかった。しかし少なくとも加羅南部と北九州(それに両者に挟まれた島々も)には「倭国」のいくつかはあった。謎の卑弥呼時代を生き延び、この日韓海峡にまたがるクニは、より広義(あるいは狭義と言うべきか)の倭国すなわちヤマト王権連合の一国を成した。葛城氏はそのクニの半島部で代表者として振る舞えるだけの地盤と権力を持った氏族だったのである。

 なぜ半島渡来民の仲介者のような役割を果たすのか、また出来るのか。神功紀六二年の記事によれば、新羅から美女二人を贈られて加羅王を攻めているが、ここには葛城氏の正体が現れている。一つは女を贈るのは王(族)たる者への処遇だということだ。もう一つは加羅を本拠としているはずなのに、その王を攻め立てていることだ。これは軍の精強さだけではなく、その神聖を冒すことができる資格があるということでもある。そしてこれが同時に、ヤマト王権の命を軽視できる理由でもある。

(四)

 核心に入らねばならない。「未来を前にした現実」と「過去を総括する歴史」とは当然のことながら違う。紀記などの「歴史書」とは勝ち抜いた「大王」の記録に他ならない。もう一方の「未来を前にした現実」として再現しようとすると、ニッポン各地に王なり大王なりがいたと言わざるを得ない。一連合としては相対的優位が揺るがない畿内ヤマト王権も、その内部では天皇族と並立する別系の王族群、またそれぞれを支持する豪族があり、複合的な力学によって「大王位」があったのだろう。

 古墳時代とはそういう王や大王たちの群居時代である。国とはクニの集まりである。つまり連合の連合、あるいは連合の連合の連合が、例えば「倭・ヤマト」であった。「民族」とはあるレベルに自らのアイデンティティーを定めることである。古代人のアイデンティティーは多様であっただろうが、多くはより小単位のものであっただろう。すなわち、クニ=氏族(部族)こそが第一に「民族=国」であっただろう。

 わが国で言えば、畿内ヤマト連合、瀬戸内の吉備連合、山陰の出雲連合、東海の尾張連合などはそれぞれ別国であるし、それらはさらにクニに分解可能である。半島でも百済・新羅・高句麗の三国という枠組み以上に、それ以前の南の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)という枠組みがより重要である。三韓はさらに分解できる。例えば金官国などのクニ単位が最も遅くまで生き残ったのは弁韓であり、これが後ちの加羅である。

 そういう眼鏡のかけ直しをして、四〜五世紀(古墳時代前期)の日韓状況を「未来を前にした現実」として理解しなければならない。金官加羅すなわち狗邪韓国はヤマト王権と連合を構成する一つのクニだったのだ。ここを根城に半島攻略が試みられ、また高句麗などとの闘争が行なわれた。一方では列島は未だ統一されず、三つのクニに分かれていた辰韓(後ちの新羅)の諸部族はさかんに日本海側に渡来していたはずだ。また、建国(征服)された百済からも権力闘争のたびに列島へ渡来があったはずだ。(注)

(注)渡来氏族(部族)には、韓人や倭人という倭族だけではなく、高句麗や百済王族のツングース族系の者たちもいたことだろう。どれがどの氏族や王族だとは解明しがたいが、ヤマト王権中枢に非常に近いところでツングース族の血が流れ込んでいたとしても何の不思議もない。

(五)

 六世紀、古墳時代後期に入ってもヤマト王権の連合的性格は変わらない。継体天皇は天皇族とは明らかに異族(別系統)である。ご承知の通り、七世紀中葉の「大化改新」によってこの状況は一変し、ついに八世紀初頭「日本」が宣言される。その契機となった大化改新の真の主役は、他ならぬ蘇我氏である。葛城氏も蘇我氏も、武内宿禰を始祖とする(正しくは、紀記にはそう規定されている)。武内宿禰は、この他、紀・巨勢・平群の各氏の始祖でもある。

 これら五氏は「臣」の姓(かばね:古代的身分)をもつ。葛城氏の日韓双方での待遇とそこから推察される出自、また悪意に満ちた記述ではあるが蘇我氏が大王のごとき振る舞いをし、ついには「誅殺」されたことを「大事件」として紀記がわざわざ書き述べたことなどから勘案すれば、これら臣をもつ氏族とは、天皇族と同じく、倭族の王族の血を引く者たちであろう。つまり「臣下」という意味に直結する「臣」とは、天皇族と同格だっただからこそあえて与えられた姓なのである。

 「倭・ヤマト」とは「倭人」だけの国ではなく「倭族」たちの国である。新羅成立の六世紀ごろ、「韓人」意識は強まり、日韓海峡に隔てられた加羅は韓に属することを決意するが、呼応して倭国でも「倭人」意識が高まっていく。しかし現実は倭族連合でしかなかった。倭人など倭族の諸氏族の列島内統合こそ、「日本」への道であった。こうして、葛城王族の打倒、蘇我王族の謀殺などが断行され、天皇族以外の並立王家は滅ぼされたのだ。

 そして、他に二つの王家があった辰韓(注)領域内を制圧し、統一「新羅」の王となった金氏智證王と同じように「ニッポン統一王」となったのが、西日本統一戦争である壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇であった。彼が新国号「日本」を宣言したのはそういう意味だ。直前の天智天皇と大友皇子らの天智王朝、さらに蘇我王朝などは並立王朝だった。天智と天武を兄弟としたのは、もちろん「万世一系」と自らを規定した「過去を総括する歴史=勝者の歴史」から創り出された虚構である。

(注)『三国史記』新羅本紀では、朴・昔・金の各氏族が交互に王位を継承し、ついに金氏がそれを独占するようになったと記されている。しかし鳥越憲三郎氏はこれを明快に解き明かす。それによれば、三氏は時間ではなく空間によって並立していたのだ。後ちの新羅の都で聖地の慶州に存したのは朴氏であった。


[主な典拠文献]
(参考)
head
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved