mansongeの「ニッポン民俗学」

『古事記』とは何か---和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」



▼近代日本の聖典『古事記』

 近代以降の日本史学・文学界には厳然としてタブーがあり、それは今なお存続している。タブーとは、この近代日本国家を成立させている「日本」そのものを疑い反証することである。例えば、日本民族や日本語、また天皇を疑うことがそうである。戦前の神話史とは敗戦により断絶したように見えるが、「縄文文明」史と取り替えることによってむしろより巧みに強化されさえしている。日本人の神話として広く受容されている『古事記』も侵してはならない「近代日本の聖典」の一つである。

(注)筆者の立場は、日本民族主義でも反民族=国際主義でもない。また、天皇主義でも人民主義でもない。つまり、日本とは誰のものかと問うているのではない。ここで批判してみたいことは、それらいずれにも通底する「過去にも未来にも永遠に続く日本および日本人」という近代の神話である。

 戦前は君主、戦後は象徴として日本国の真ん中に天皇が坐すように、近代日本は「古代」復興(ルネッサンス)としてある。これを準備したのは江戸後期の国学であり、その頂点に屹立する大人(うし)が本居宣長である。宣長が大著『古事記伝』で周到に腑分けして『古事記』から摘出したものとは「日本人」であり、それは「和心」(やまとこころ)となって幕末日本に降り注ぎ、神仏分離と廃仏毀釈に代表されるような神道主義でもって明治日本は船出した。

 明治政府はその後、神祇官を廃止して極端な神道主義を改め、神道諸派以外のキリスト教や仏教諸派は宗教として容認するが、宣長の和心は昭和前期には大和魂に化けて暴走した。やがて身勝手な大日本主義は潰え、価値反転の時代となる。『古事記』は歴史としてではなく、神話として読まれるものとなった。『古事記』は日本語で書かれた最古の現存書物で、日本人の神話や歌謡、また歴史伝承が詰まったものである、と一般には信じられている。

▼『古事記』を疑うことは今もタブーである

 『古事記』とは「712年すなわち和銅五年、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習したものを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録した書物である」と、一般に流布している日本史年表や歴史・文学書は愚か、教科書にまで記載されている。この何の疑いもないようなことが実は虚偽であり、この方面を専門とする学者ならとうに感づいているとしたらどうだろう。これを「古事記偽書説」というが、その疑いは賀茂真淵に始まり、近代における嚆矢は中沢見明(けんみょう)氏の『古事記論』であった。

 中沢氏は親鸞論で著名な、浄土真宗本願寺派の伊勢・暁覚寺の僧侶で、異論を提出したのは昭和初期のことであったが、学会挙げての凄まじい袋叩きに遭い沈黙せしめられた。戦時中には憲兵に「国賊」呼ばわりされたそうである。中沢氏の運命は、戦後の批判者に至っても基本的には変わっていない。数多くの根本的な偽書説が提出されてきているにもかかわらず、「今日これらの偽書説を是認する人は殆どないと言ってよい」(倉野憲司氏による岩波文庫『古事記』解説)とけんもほろろである。

 嘘だと思われる方もいるだろうが、戦後左翼歴史学こそが「日本史」を完成させたのである。『日本書紀』と『古事記』を脱神話化(「紀記批判」と言う)し、中国史料で解きほぐすことで、弥生時代、大和・飛鳥時代などが復元・再構成されてきた。さらに、明治以降、時には神話的にしか扱えなかった先史・古代史を、考古学などを用い「科学的」に縄文時代などを復元・構築してきた。彼らはそうして日本国とその国民たる日本人の歴史を作り上げたのだ。

(注)戦前と戦後の史学をつないだのは、「左翼」だと誤解された「右翼」津田左右吉の学業であった。戦後左翼歴史学は彼の「紀記批判」を継承することで、表向き戦前と絶交し、かつ裏では明治以来の戦前史学と野合しており、ともに「日本」という舟に乗る者であることをいみじくも露呈している。

▼日本神話とは『古事記』のことである

 「紀記」と、そう私たちは『日本書紀』と『古事記』を合わせ呼び、その神話部分を一括して「紀記神話」や「日本神話」と言って憚らない。しかし、その日本神話には食い違いがかなりある。例えば、「高天原」や「大国主神」の名は『古事記』の称で、『日本書紀』の「本書」にはなく「一書」に登場するのみである(『日本書紀』は「本書」部と「一書」部から成り、後者は前者の異伝承を列挙している注釈部分)。また、同「本書」ではイザナミは死なず、黄泉国の話もない。

(注)私たちが「日本神話」と呼ぶとき、すでに「日本」の呪縛の中にある。なぜ「日本神話」と言うことができるのかというと、一つの「正しい」神話があり、それを様々に写し取ったものが『日本書紀』や『古事記』であるという倒立を疑うことなく、あらかじめ信じ込んでいればこそなのである。事実は逆である。様々な、食い違う神話がまず作られてあり、それらを私たちが「日本神話」になるように縒(よ)り合わせてきたのである。実に「日本神話」の完成とは「近代日本」での出来事である。

 詳しくは後で述べたいが、他にも重要な相違点がある。奇妙なことに『古事記』は、後ちに成立した『日本書紀』の「一書」に登場する重要なエピソ−ドをほぼ網羅している。つまり、私たちが紀記神話あるいは日本神話と言うとき、実はむしろ『古事記』を基にしているのである。それに『古事記』は『日本書紀』のような二段構成ではなく一本の物語にまとめられている。さらに、いかにも漢文調に飾られた『日本書紀』と違い、日本語で訓読したものを漢文として記述したように書かれてある。

 いま少し述べたことだけででも、素人目にも何やらおかしいと思うはずである。そうである。内容、構成、日本語など、どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。こんなことを学者たちが気づかぬはずがない。事実、気づいてはいる。しかし誰も本当のことを語り出そうとしない。なぜか。戦前であれ戦後であれ、右翼であれ左翼であれ、ともに乗って立つ舟の底板たる「日本」を踏み抜いてしまうからである。

▼宣長による『古事記』の再評価

 『古事記』は、紀記と並び称されるものでは長らくなかった。『古事記』が価値を高めたのは全く本居宣長のお陰なのである。それまではもっぱら『日本書紀』が古代の聖典であった。ただし、中世には神仏習合によって、例えば天照大神は大日如来であるなぞと本地垂迹的に読み替えられていたが。宣長の企図はここにある。「日本」を救出するために『古事記』を再発見し、そこに描かれた「日本」こそ固有の「日本」であると脱構築したのである。それは国学による「民族」の発見であった。

 意外にも『古事記』そのものは奈良時代の和銅五年・712年ではなく、それから百年後の平安初期に忽然と姿を現す。では、何が「712年成立」を保証していたのだろうか。それは『古事記』自身の「序」なのである。そしてもう一つ、平安初期・弘仁三(812)年の『日本書紀私記』(以下『弘仁私記』)の「序」である。順序から言うと、『弘仁私記』序によってそんな書があったのかと皆は気づいたのである。それでも、その扱いは今も述べた通り、宣長までは副次的な書物であった。

 『弘仁私記』というのは、弘仁二年から翌年にかけて朝廷で行なわれた『日本書紀』講書(訓読と講釈)の記録である(『日本書紀』講書はこのときが初めてで、以降約三十年おきに計六回行なわれた)。それが書物としてまとめられ、そこに付けられた序に初めて現存『古事記』の名が現れる。それまでその存在は世に知られていなかったのである。『古事記』より少し遅れて成立した『日本書紀』にも、それを継ぐ797年成立の『続日本紀』にも、不思議なことにたったの一言も触れられていなかった。

▼『古事記』は多人長がまとめたものである

 実は、この講書を行ない『弘仁私記』をまとめたのが多人長(おおのひとなが)という人物である。氏(うじ)名の通り、オホ(太・多)氏の一員であり、百年前に『古事記』を撰録したと言う太安麻呂の子孫である。オホ氏は雅楽寮大歌所という宮廷歌、宮廷神事の歌舞音曲を職掌とする所を司る雅楽の家であった。思えば『古事記』は歌物語であるとさえ言えるものだ。そして多人長は、難解な『日本書紀』を訓読し講釈できるほどの当時随一の言語学者だったのである。

 話は複雑だ。と言うのも、この序は『弘仁私記』がまとめられた812年の多人長の筆になるものではないらしい。当時の嵯峨天皇に関して、後ちに上皇となったときの呼称を用いているからだ。そこから、820年代あたりにこの序は書き加えられたものと推察される。それにしてもこの序の内容が面白い。『日本書紀』講書の序であるにもかかわらず、太安麻呂が『古事記』を撰上したとか、『日本書紀』撰録にも安麻呂が関わっていたとかとあり、まるで安麻呂と『古事記』の宣伝文になっているのだ。

 ここらで種明かしをしよう。712年の『古事記』撰上はなかったし、『古事記』は勅撰でもない。天武・持統朝期に成った「原-古事記」がオホ氏に伝わっていて、これを平安期になって、ある動機からオホ氏の主張を盛り込んで最古の書物として仕立て上げたのが多人長で、『古事記』の有名な序も彼の手になるものである。ただし、『弘仁私記』の序は講書に関する具体的事実についての誤りからも人長ではなく、オホ氏に連なる別人が最終的に画竜点睛したものと思われる。

▼『古事記』は『新撰姓氏録』への反発から生まれた

 いろいろと説明が必要であるが、まずは勅撰『古事記』をでっち上げた動機から行こう。直接的な動機は、弘仁六(815)年に万多(まんだ)親王(桓武皇子)らが『新撰姓氏録』を撰上したことだった。『新撰姓氏録』とはその名の通り、千二百弱の氏族の出自や家系をまとめたもので、そこにはそのころ時めいていた茨田(まんだ)氏の祖がオホ氏と同じく、神武皇子である神八井耳(かみやいみみ)命だと書かれてあった。

 『弘仁私記』序が説明してくれるのだが、万多親王にも関係する茨田氏ら百済系氏族の系譜がデタラメだと断じてある。それもそのはずで、オホ氏は秦氏に極めて近い新羅(もしくは加羅)系氏族なのである。それを一緒くたにするとは言語道断というわけだ。「序」にはこうある、こんなデタラメを書くのは「旧記を読まないからだ」と。そして「旧記」に注して、『日本書紀』『古事記』(「原-古事記」であるとの理解も可)等と書くのである。ともあれ、以降は『日本書紀』研究者はこの序を目にし、『古事記』に注目するようになる。

 『古事記』は、第一にオホ氏が自らの系譜に関して勅撰『新撰姓氏録』に異議を唱え、正すために書かれた。対抗上、勅撰されたという物語を『古事記』序に付け、『日本書紀』にも先んじる和銅五年に秘かに挿入したのである。動機の背景には、百済派が重用された平安初期という時代がある。多人長の他にも多入鹿という人物が、この頃に活躍していた。しかし810年、薬子の変という政変が起きる。多入鹿が属する平城上皇派の藤原仲成・薬子兄妹が、嵯峨天皇派に敗れた事件である。

(注)平安朝を開いた桓武天皇は百済を明確に意識した王であった。生母は百済王の子孫であり、その血を受け継いでいることを自覚し、「同族」の百済系氏族を重用した。平城・嵯峨・淳和天皇は桓武の皇子たちである。

 薬子の変の結果は上皇を出家させ多入鹿も左遷され、百済系氏族を寵愛する嵯峨天皇の独裁となった。そしてあの『新撰姓氏録』が編まれたわけである。没落しつつある名族オホ氏は、飛鳥時代に常世神の信仰を興し秦河勝に掣肘された大生部多(おおふべのおお)が姿を見せ、その後は天武天皇を実現した壬申の乱で、太安万侶の父多品治(ほむじ)が勝利に貢献している。太安万侶は民部卿などとして活躍していた。『古事記』序の天武天皇への讃美は、新羅系氏族興隆の時代を懐かしんでいるようにも筆者には思える。

▼『古事記』序は明らかに平安期の偽作である

 次に『古事記』が平安期の書物である主な理由を述べていこう。まず形式だけからでも明らかな四点を示そう。
  1. 先述したが『日本書紀』や『続日本紀』に引用も記録もないこと。
  2. 太安万侶の事績はあるが『古事記』撰上だけは記さず、また天武天皇すら激賞した才人稗田阿礼について全く記録がないこと。
  3. 「序」たる上奏文に阿礼の聡明ぶりや自らの苦労話を記すのは不自然であり、序を上奏文形式にするのも平安期以降のスタイルであること。
  4. 勅撰書にもかかわらず、安万侶に官名がなく、阿礼についても「稗田」は姓ではなく氏でありそれしか示されていないこと。また、勅撰書に正五位者の単独署名は不可思議であること。
 以上で、少なくとも「序」は後世の偽作であることは明白であろう。そしてもちろん「本文」についても、平安期の完成でしかあり得ない。しかしである。確かに「和銅五年撰上」はでっち上げであるが、『古事記』本文は一からの創作ではないし全くのデタラメでも決してない。「原-古事記」というようなものが存在した。そもそも「古事記」(ふることぶみ)は普通名詞であったのだ。

▼「ふることぶみ」と「原-古事記」

 いくつかの「ふることぶみ」があった。特に歌物語としての「ふることぶみ」は雅楽の家・オホ氏に多く伝承されていた。平安初期の成立とされる『琴歌譜』(きんかふ)は万葉仮名で書かれた大歌を和琴(わごん)譜とともに記した書であるが、そこに「日本古事記」や「一(ある)古事記」と言う書物からの引用がある。これらの引用内容は現存『古事記』と合わないのである。つまり、別の「ふることぶみ」群があったことを証拠立てている。

 他にも、鎌倉中期の『万葉集』注釈書である『万葉集註釈』(仙覚抄)中に『土佐国風土記』逸文があり、その中に「多氏古事記」からとして三輪山伝承に関する引用があるが、やはり現存『古事記』とは異同がある。さらに『万葉集』(90、3263番歌)左注にも別「古事記」からの引用がある。二首は木梨軽太子(允恭皇子で、同母妹と密通)に関わる歌だが、3263番は現存『古事記』とは異同がある歌である。

 『古事記』序は確かに後世の偽作であるが、それでもそれは何かを物語っている。おそらく「原-古事記」は、それまでの「ふることぶみ」群を基にして天武・持統朝期にまとめられたのだろう。それは後宮(なぜかは後述)でまとめられた歌物語で、本来、勅撰書であることを要求するような性質のものではなかった。それがオホ氏に伝承されていた。それを勅撰書であるが如くに手直ししたのが元明天皇の「和銅五年」ではなく、その約百年後であったのだ。

▼氏族系譜、そして仮名遣いの造作

 では、手直し部分とはどこか。氏族系譜、仮名遣い、それに神話体系が主要な改訂点である。氏族系譜についてはすでに述べたが、その主張を盛り込んだ『古事記』にはこうある。神武皇子には神八井耳命の上に日子八井命という兄があり、その日子八井命の子孫が茨田連や手島連(ともに百済系氏族)だ、と。神八井耳命とよく似た名の日子八井命という兄を立て、あえて区別したことが分かるだろう。この命は『日本書紀』に存在しない人物である。

 この系譜が最古でなければならない。今度はそのために仮名遣いが古風に整えられねばならなくなる。当代最高の訓詁学者・多人長が奈良時代以前に遡る上代特殊仮名遣いを完璧に再現した。『日本書紀』や『万葉集』よりも古い書だとする証拠として、「モ」音の甲類(毛)と乙類(母)の使い分けがよく取り上げられる。ところが、完全過ぎて、かえって不自然なのである。わずか八年後に成立した『日本書紀』や同時代頃の成立と見られる『万葉集』巻五では、自然にも誤って混用されている。

 さらに、たとえそういうディテールにおいては古風を擬装できたとしても、マクロには隠した尾がどうしようもなく現れているものである。いわゆる万葉仮名と呼ばれるどの漢字をどの音訓に用いるかという用字において、『古事記』は平安初期段階の整序を明示している。『日本書紀』や『万葉集』の時代はまだまだ不整序であったものが、しだいに安定した用字法となってくる。もし『古事記』が和銅年間のものであるなら、日本語は一度後退したことになる。

▼『古事記』の神話は新しい

 『古事記』を「完成」させた動機はたとえ私的なものであったにせよ、時代の潮流を受けたものであったことも間違いない。ただし、それは時の流れに対して抗うものであった。すなわち『古事記』は反時代的な書である。あるいは後ちの「和風」という干潮を先取りする先駆の書であった。平安初期と言えば、最澄と空海らが遣唐使船に乗り日中を往来し、また嵯峨・淳和天皇の勅撰漢詩文集として『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』が編まれている、唐風文化が満潮を迎えた時代である。

 そんな時代に、実は深く中国文化を吸い込んだ上であるが、反中国・反唐風とも言える日本風の先駆が『古事記』の神話体系である。「原-古事記」や『日本書紀』以降、百年が経ち、明らかに日本人の神話思考は進化・深化していた。これを受けた形で『古事記』の神話はある。『日本書紀』(以下「紀」と略)の神話は一言で言えば、陰陽二元論で出来ている。それに対して『古事記』(以下「記」と略)の神話は「ムスヒ」の一元論である。

 紀記は冒頭から違う。紀の神は「国常立尊」から、記の神は「天之御中主神」から始まる(紀「本書」に天之御中主神はなく、国常立尊は記では六番目に現れる)。次に先にも述べたが、紀には「高天原」はなく、記では冒頭に「高天原」がありそこに最初の神々が現れる。そしてこれも述べたが、「大国主神」といわゆる「出雲神話」のすべて、またイザナミの死と黄泉国も記の物語である。これは何なのか。

 紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。

(注)「ムスヒ」の三神とは、天之御中主(あまのみなかぬし)神、高御産巣日(たかみむすひ)神、神産巣日(かみむすひ)神である。ムス-ヒとは「うむす」(生む・産む)の「ひ」(霊)であり、「日本」という国が生成し、また国を生成する霊力である。高天原に初めて誕生した神が「天つ神」と呼ばれたとき、地たる葦原中国の「国つ神」の代表者を「大国主神」と呼ぶことが可能になったのである。

 記は、紀の「一書」群を総括した上で、「天つ神」が「国つ神」の「日本」を支配する正統性の神話を物語っている。そして、そこには実は、仏教の世界観と天の思想が取り込まれているように思われる。記は、紀の古典的な陰陽思想を踏まえた上で、「天」と対になる「地」の向こうに神々の死の国である「黄泉」(黄泉国は死んだ人間のための場所ではない)を置き、また一元論を可能にする「天」の思想で「ムスヒ」の神々(その代表者が天照大御神)を物語っている。

▼『古事記』の親新羅性

 オホ氏が「完成」させた『古事記』の特徴として、その親新羅性についても指摘しておかなければならない。紀においては新羅への愛憎両方あり、その憎の部分では新羅を徹底的にけなしているが、一方の記では憎の記事は無視、あるいは目立たぬ程度に抑制されている。さらに新羅に都合のよい記事については、紀に載らないことまで詳しく述べている。

 紀では、新羅王子・天之日矛(あめのひぼこ)は垂仁三年に渡来し、天皇に神宝を献じたとある。ところが、記では応神朝に記事があり、渡来の理由を日光で身籠もった女が生んだ赤玉から生まれたアカル姫を追ってやって来たとある。そして息長帯比売命(神功皇后)は天之日矛の後裔だと述べている。神功皇后は新羅征伐を行なうが、もちろんその際の新羅の対応の描写も紀記では様子が違う。神功皇后は大王応神天皇の母であるが、言うまでもなくこの母子は「神母−神子」である。

 それから、紀になく記に登場する「大年神系譜」というものがある。大年神はスサノヲ命の御子神であるが、そこに載るのは大国御魂神を除き、新羅の神々なのである。別稿でも述べたが、韓神、曾富理(ソフリ)神、白日(シラヒ)神など名だけからでもおよその察しがつくであろう。ソフリ神は新羅の京城(首都)守護神であり、それを平安新京の守護神として勧請したのだとしたら、『古事記』成立は平安遷都後のことでなければならない。

 また、新羅・加羅系渡来人の太秦(うずまさ:長者)である秦氏の氏社・松尾社には、大年神の御子神・大山咋神を祭るが、日枝社から勧請し創建したのは701年のこととされる。それから、たった十年ほど後ちの勅撰書『古事記』にこんな神社が載る。しかし、地元の『山城国風土記』には全く触れられもしていない。『古事記』成立の時期への疑義とともに、オホ氏ばかりではなく秦氏を代表とする新羅・加羅系氏族が『古事記』成立に関与したとせざるを得ない。

▼稗田阿礼とは誰か

 話は大詰めである。宣長にとって『古事記』は「日本語」の物語であり、「古言」を求めるテキストであった。「古言」とは当時話されていた日本語のことであり、それは序にある「稗田阿礼の“誦習”による」ということから来ている。誦習とは暗誦である。例の『弘仁私記』序に、稗田阿礼は「天鈿女(あまのうずめ:天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰めたという女神)命の後」とあり、紀には天鈿女命は猿女(さるめ)君の祖とある。猿女君とは、雅楽のオホ氏に大変近しい、歌舞や神楽つまり神事芸能に関わる「神話」(かむがたり)の氏族である。「稗田」とはそういう姓である。

 次に「阿礼」とは何か。「アレ」とは、秦氏の深く関わる賀茂祭(葵祭)に御阿礼(みあれ)神事があるように、神の降臨に関わる言葉である。そして新羅や加羅の「アル」(巫女への神の降臨)と同じ言葉と思われる。神妻は「阿礼乙女」と呼ばれる。すなわち「阿礼」とは、神母あるいは神妻のことである。つまり「稗田阿礼」とは、神楽に関わる女性を強く示唆しているのである。先に「後宮」での伝承と述べた由縁である。

▼『古事記』とは何か

 『古事記』は、栄光時代の太安麻呂に仮託された、オホ氏や秦氏など新羅・加羅系氏族の栄光の原拠であり、それは彼らを寵愛し「日本国」を興した天武天皇を頌栄する書であった。そしてそこにある「神話」とは、実は「天皇が日本を支配する正統性」を語ることだけを目的とした物語であった。それを前提にして、オホ氏などの系譜が書き直されていたのだ。

 そういう『古事記』を現在のような『古事記』とした読んだのは本居宣長である。『古事記』は漢字仮名交じりの書き下し文なぞではなく、立派な漢文である。いまの『古事記』は、彼の『古事記伝』中に初めて出現したのである。宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。この「日本語」とは、わが「日本」の固有性であり「日本人」であり「日本民族」である。つまり、宣長が定立したものとは「日本」の底板であった。こうして宣長は、どうしようなく天皇と結び付いている「永遠の日本」を作り上げたのだ。

 近代国家には「国民」を定義することが常に求められている。「日本人」とは何かを定義しなければならないのだ。このとき、近代日本は宣長の定義を採用したのだ。これが今も続く私たち日本人のアイデンティティー(自己確認)である。『古事記』は確かに「永遠に天皇とともにある日本国」を定義はしている。そしてこれが『古事記』が「近代日本の聖典」である由縁である。しかしそのどこにも「人間」の誕生も「日本人」も描かれてはいないのである。


(蛇足)
 改憲論議で、もはや誰も触れようとしないが、第九条以上に根本問題であるのが第一条から第八条までを占める天皇に関する箇条である。これは「天皇」の存在に関する問題ではなく、実は「日本国」とは何であり「日本人」とは何か(私たちは何者か)という問題なのである。


[主な典拠文献]
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