mansongeの「ニッポン民俗学」

天皇の信仰に見る日本人と仏教



 この小論の目的は、天皇および皇統は自らの出自である日本の神(特に天照大神)ひとすじに古来仕えてきたとの日本人の思い込みを正し、天皇のありのままの仏教信仰を通じて、日本人の信仰を探ることにある。

▼仏教伝来前の日本の神

 葦原(あしはら)の中つ国、すなわち日本には、天孫降臨(天照大神の孫ニニギ命の降臨)以前から八百万(やおよろず)の神々が棲(す)んでいた。日本書紀には、日本を指して「彼の地には、多(さわ)に蛍火(ほたるび)の光(かがや)く神、また蠅声(さばえな)す邪(あや)しき神あり。また草木ことごとくに能(よ)く言語(ものい)ふことあり」とある。火山、森や草木、動物など、自然そのものが神だった[注1]
 さらに、仏教伝来前の日本人の信仰は、「神を崇める」と諡(おくりな)された崇神天皇の事蹟に見ることができる。崇神は天照大神と倭(やまと)大国魂神を祭り、八十万群神(八百万神)を祭った。また、三輪山を神体とする国つ神の代表であり祟(たた)る神、大物主神を丁重に祭っている。それから、大和の東西境の神である墨坂神と大坂神を祭っている。日本の神とは自然や土地の神々であり、祭らなければ祟る神であった。

▼仏教による新しい死生観と霊力

 記紀によれば、天皇(当時は大王)と仏教の関わりは6世紀の欽明天皇に始まる。いわゆる「仏教の公伝」であり、百済の聖明王が使いを遣わして仏典・仏像を献じた(「私伝」は当然これを遡るだろう)。ここから、若き聖徳太子もそこに巻き込まれた、後ちの物部・蘇我両氏の神仏闘争に至る。仏は日本人にとっては外蕃の神であった[注2]。それは、自然的な日本の神とは違い、文明の神であり、一つの総合的なテクノロジーであった[注3]
 神仏闘争が崇仏派の勝利に終わった後、仏教に深く帰依し仏教による宗教国家を構想する皇子さえ現れる。聖徳太子である。太子は日本人誰もが認める偉人であるが、彼が第一に神道ではなく仏教の信仰者であったことにはもっと注意されなければならない。ただし、日本人の太子信仰が彼自身を、日本の神として、仏菩薩の生まれ変わりとして、また儒教的聖人や道教的仙人として描き出し、それらに何ら違和感を感じないということに、私は日本人の信仰を見出す。

 ともあれ、聖徳太子に代表される当時の皇族が出会った仏教は、日本人に新しい死生観と霊力をもたらした。それを媒介したのが罪と死の穢れである。古墳に埋葬され、やがて浄化されて他界へ旅立っていくものと信じていた魂が、自ら犯した罪によって地獄へと追い落とされ、そこでもがき苦しんでいたことを初めて知ったのだ。しかし、同時に仏教の霊力はこの魂を地獄から救済し得ることも知った。

▼大嘗祭は仏教の火葬によって確立された

 天武天皇とともに、壬申の乱を戦い、国号「日本」と王号「天皇」を定め、さらに皇祖神天照大神を祭る伊勢神宮を尊崇した持統天皇は、穢れなきはずの「天皇」天武が祟りに倒れ、崩御したとき、深く苦悩し、日本の神の無力さをつくづく感じたことだろう。天武の魂を浄化する殯(もがり)は二年二か月続いた。殯は死者反生(甦り)のためとも鎮魂のためとも言われるが、結局白骨化した遺骸が御陵に葬られたことだけは間違いない。

 問題は、殯の庭で腐敗し異臭を放つ天皇の肉体から、いかに天皇霊を救い出すかということにあった。殯宮に参集した僧たちは、穢れを火葬によって速やかに浄化することを勧めただろう。死の穢れを離れることなくして、天皇霊を新帝に移す大嘗祭はあり得なかったからだ(大嘗祭は天武帝に始まる)。結局、持統は偉大なる先帝の葬礼には旧例に大幅な変更を加えることなく、天武崩御の約五年後に自らの大嘗祭を行なった。

 しかし持統自身は違った。孫である文武へ初めての生前譲位を断行し、そのまま大嘗祭で穢れなき天皇霊を継承させた。そして自らの死に際しては火葬を命じたのであった。それでも、崩御した持統には約一年の殯が施されたが、遺命通り火葬に付され、夫帝が待つ大内山陵に合葬された。以後、例外はあるが、皇位継承として、生前譲位→新帝の大嘗祭→先帝崩御→火葬→埋葬、あるいは先帝崩御→新帝即位→先帝の火葬→埋葬→新帝の大嘗祭、という流れが定まった[注4]
 注目すべきは、神道の大嘗祭と仏教の火葬がワンセットになったということだ。これにともない、殯の期間が大幅に短縮され、文武の次の元明天皇ではわずか一週間となった。大嘗祭は火葬によって確立されたとも言える。実は、仏教こそが日本人に死の穢れを意識させたのだ。火葬による霊肉の分離はやがて日本人に遺骨信仰を生む。火によって浄化された白骨は、日本人にとっては故人の魂の化石となり、今に至るのである。

▼平安以降は仏教こそが「国教」であった

 平安時代となり、空海と最澄が唐に渡り、密教という霊的呪術を日本に導入した。天皇以下貴族はこれに入れ込み、加持祈祷(かじきとう)が天皇と日本を防衛することになる。宮中では毎年正月、神道による前七日(第一週)の節会の後、八日からの第二週、今度は空海ら密教僧による「後七日御修法」が行なわれ、玉体(天皇)の安穏を祈願していた。また、最澄の延暦寺でも、国難など大事の際は「安鎮国家法」という法会が催されていた[注5]
 平安京大内裏には、空海の進言によって真言院が建てられた。それは陰陽寮や神祇官(神道の役所)の建物よりも内裏に近い位置にあった。ここで、玉体の代わりに玉衣が「後七日御修法」による加持を受け、外部の邪霊・悪霊から天皇を守っていた。それは、毎秋の新嘗祭(真言院のすぐ横にあった中和院で挙行)で神と新穀を食すことで、内部から玉体と天皇霊を賦活(ふかつ)する神道呪法とちょうど対になっていたのだ。

 天皇に愛された最澄は伝教大師、空海は弘法大師と尊号を賜った。ますます皇統の仏教への傾倒は続き、出家した上皇を「法皇」と呼ぶように、僧職は皇族や貴族たちの隠居後の仕事ともなった。門跡寺院が次々に誕生し、そこはいつしか皇族たちの菩提寺となる。鎌倉時代に入り、公家方が敗れた承久の変の後ち、受け手がなかった天皇葬儀を引き受けた京都の泉湧寺が以後、皇室の菩提寺となり「御寺」(みてら)と呼ばれ、明治に至ったのである。

 中世における天皇と仏教との関わりの象徴に後醍醐天皇の例を挙げておこう。後醍醐天皇の肖像は、まさに神仏に守られた天皇として描き出されている[注6]。中国皇帝風な衣の上に僧が着る袈裟(けさ)をかけ、両手には密教呪具を持っている(その所作は金剛サッタの変化身であることの表現)。さらに、仏菩薩が乗る壇上に坐しているのである。背後には「天照皇大神」などの神名が掲げられているが、それも本地仏である大日如来の威光の表現かも知れない。
▼明治以降の「神道」は創り出されたもの

 明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた。まず儒学者の仏教批判に始まり、仏教を排し復古神道を唱える国学者がこれを受け継いだ。水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩で実行されていた。慶応四(1868)年三月十三日、有名な「五か条の誓文」発布の前日であるが、いわゆる「神仏分離令」が布告される。

 宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開される。ところが、その一年半前の孝明天皇の葬儀は僧侶によって執り行なわれ、泉湧寺に埋葬されていた。皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からである。それまで天皇葬儀への仏教関与は、実に約千二百年にわたって続いた(もっとも、玉体の火葬自体は1654年の後光明天皇のときから取り止めとなり、以後は儀礼的に火葬しての土葬に改定)。

 宮中には長らく「お黒戸」(黒戸御所)と呼ばれた言わば「仏壇」があり、そこに仏像を安置し、歴代天皇や皇后の位牌が祭られていた。これが排されたのはようやく明治四(1871)年のことで、やがて泉湧寺に移された。同時に泉湧寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が没収され、宮内省に移管された。また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃された。

 一方、神道神殿の整備がなされる。明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。かつて神祇官八神殿に奉斎され、その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、宮中三殿として今に至っている。同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。
*

 以上、足早に天皇と仏教の関わりを見てきた。明治以降、皇室は常に国民生活のお手本としてあった。それは洋装や肉食、さらには大正天皇ご成婚に始まる神前結婚まで多岐にわたる。しかしながら、信仰生活においてはそうではない。葬式仏教と揶揄(やゆ)されるが、国民の多くは葬儀はなお仏式で行なう。本来、日本人の信仰は形式を問わないものなのだ。今さら引き返しなぞ出来ないのだが、国民生活と皇室の乖離を残念に思う。
[主なネタ本など]
(参考)「神仏分離」「廃仏毀釈」について
top
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of AnthropULogy,All rights reserved