mansongeの「ニッポン民俗学」

日本近代史の中の日本民俗学−柳田国男小論


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柳田国男

(序)問題としての柳田国男と日本民俗学

▼日本近現代史の中で逆立された人物と学問

 戦後1970年ごろ、政治的には「平和主義」と「小日本主義」を後生大事に唱えながら高度経済成長を続ける列島国家は日本人論ブームに覆われた。この国は「大日本」となる時代、自分自身を問いたくなる。戦前の大東亜共栄圏の夢は軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権としてそのイメージが甦ったのだ。なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか、外部より内部に目を向けたがるのだろうか。この問いに筆者はいま簡単には答えられない。だが、この思考の原型を創ったのは柳田国男であるとだけは言える。この小論ではその柳田国男と彼が樹立した日本民俗学を、波乱の日本近現代史の中にしかと位置づけて考えてみたい。

 あらかじめ見通しを述べておくと、日本民俗学の祖・柳田国男という人物像も、彼が見出した常民としての日本人像も、日本近現代史の中で逆立された、逆投影された像ではないかというのが筆者の仮説だ。その屈折点あるいは反射鏡として立つのが敗戦であり明治維新である。柳田国男の生涯と思索の大半、そして日本民俗学の誕生と成長は、近代国家日本が創始され軍事大国・日本帝国であった大日本主義の時代の中の出来事だ。にもかかわらず、戦後日本人はそんなものはなかったかのように柳田を最初から民間民俗学者と見なし、また日本民俗学が見出した「日本人」とその文化や伝統も明治以前(さらには太古)からあったものと信じて疑わない。

 だが、事実は果たしてそうだろうか。柳田の半生は国家官吏であり自らも「民俗学者」であることを否定していたし、「国民」としての日本人は明治になって以降に形成されていったものに間違いない。さらに日本の「伝統」は失われたもの、あるいは失われつつあるものとして、柳田が組織した民俗学者たちによって断片的に採集されたが、あらかじめ失われたもの、忘れられたものとして「日本人」は近代に初めて作られたのかも知れないのだ。

▼沈黙する柳田国男の謎

 日本民俗学をほぼ独力で打ち立てた偉大なる柳田国男(1875〜1962年)。しかしその真実の姿は彼の民俗学とともに、未だ謎のままである。日本民俗学の古典とされる『遠野物語』(明治43[1910]年)を著した柳田国男が国民に広く知られるようなったのは意外にも戦後のことだ。しかも柳田は不可思議にも自らの学問を「民俗学」と呼ぶことに大正15(1926)年の時点でもなお躊躇していた。事実、柳田は長らく民俗学者ではなかったのだ。

 その柳田であるが、享年87歳の長寿である。民俗学的な著述はすでにいくつもあったが、柳田が自覚して民俗学に取り組み始めたのは国家官吏を辞めた44歳以降で、本格的には50歳前後のことと言えよう。そして日本民俗学を理論的にも組織的にも打ち立てていったのは還暦前後だ。終戦を70歳で迎え、有名な『海上の道』を上梓したのは死の前年の86歳のことであった。

 柳田より年下の弟子であった折口信夫が死を迎えたのが1953年、先輩の南方熊楠も1941年に没している。柳田の最期を看取ったのは年若い弟子ばかりなのである。柳田の伝記には謎が多い。しかし、そのせいもあろう、伝記の謎は一向に解明できていない。柳田は83歳になって『故郷七十年』という回顧録を自ら著したが、肝心な部分は沈黙あるいは韜晦で覆われている。未だに伝記はすべて本人が「申告」した材料からしか作成できていないのだ。

 柳田は、ひたすら民俗学者以外何者でもない者として死ぬことを願いながら回顧録を綴っていたはずだ。柳田にとって戦後とは何だったのだろうか。そんな感懐を筆者は禁じ得ない。彼は自分が違う者になってしまったことを痛いほど自覚していたはずだ。だからこそ沈黙することを決めたのだ。彼の民俗学には「現代」がない。戦争や植民地がない。また、朝鮮や中国もない。本来あるべきものが見事に欠落している。

 その事情は戦前と戦後では意味が異なる。戦前は自身の政治的な考えが政府とは違うために「現代」を語ることを自ら禁じたのだろう。しかし政治的な発言が自由になった戦後においても、柳田が自身の民俗学の秘密を明かすことはついになかった。それは彼の民俗学が実は民俗学ではなかったことを永遠に隠蔽するためだ。そして彼が作り出した日本と日本人を永遠に守るためだ。

 柳田は明治・大正・昭和前期という近代日本にとって疾風怒濤の時代を生き、その中でいま賛否交叉する日本独自の民俗学を樹立した。柳田が生きた時代と彼の学問は切っても切り離せない。柳田は東京帝大を卒業し、高級官僚となった当時最高のエリートである。そんなエリートの一人が近代日本のために打ち立てた理論と実践が彼の民俗学だったとは言える。以下、近代日本のメルクマールとなった戦争を節目に柳田の生涯と思想を追ってみたい。

(一)1875〜1904年 出生から日露戦争まで(0〜29歳)

▼故郷関西から東京への離郷

 「柳田」は元来の姓ではない。彼は松岡国男(國男)として、兵庫県神東郡田村村辻川(現神崎郡福崎町辻川)に八人兄弟の六男として生まれた(3人は早世)。そこは姫路市から北へ15キロほど入った農村である。父は国学の知識もある医者であったが、いつしか精神に支障を来たし家計は傾いた。国男は13歳の時、先に郷里を離れ茨城県で医師を開業した長兄の許に引き取られることになった(3年後には父母も上京)。この離郷体験は決して柳田だけのものではない。事情は様々だが、近代を生きる日本人一人ひとりの運命だった。

 その後、東京御徒町で開業医となった次兄通泰(本名は康蔵。通泰は郷里の富家・井上家の養子となっていた。後ちに歌人としても知られる)の許に移る。次兄の帝大同窓に森鴎外がいてその感化を受け、作歌を学ぶため、桂園派の歌人・松浦辰男(萩坪)に入門。そこで長く親交を結ぶ小説家田山花袋らと知り合う。一高に入学し、在学中は『文学界』に短歌などをしばしば寄稿する文学青年であった。

 この頃、近代国家日本にとっての最初の対外戦争、日清戦争(1894〜95年)があった。これは「近代国家」対「前近代国家」の戦争でもあった(この勝利から「後進国」中国への蔑視が始まる)。新国家建設から27年目、憲法に基づき国会が開設されて4年後のことである。未だ国家の基礎は盤石とは言えなかった。表面的には「近代」が着々と建設されつつあったが、まだまだ農業国である日本人の生活はそのつど軋みを見せていた。農民層の分解や都市への流入が進行し、「国民」の内面は安心の拠り所を求め揺れ動いていたのだ。

 戦争は「近代国家」日本の勝利で終わったが、列強の三国干渉に苦杯をなめた。それでも、初の海外領土・台湾を手に入れ、これが柳田の「民俗学」形成にも大きな影響を与えることになった。帝大入学の前年、母、次いで父を病に失う。縁戚が残るとは言え、柳田はこれで精神的には故郷を喪失したのだ。後年、何度か郷里に戻るが、ついに異邦人であることを免れなかった。柳田の民俗学とは、農村や漁村や山村という「故郷」を喪失した近代日本人の物語でもある。

▼養子「柳田」国男の誕生

 帝大では法科に進み、新しい学問・農政学を学んだ。柳田はなぜ農政学を選んだかは明確に語らない。それでも彼の関心の在り処はわかる。農政学とは農学というより政治学だ。国家の農業政策に関する総合学、農業を中心にした国家政策学なのである。後ちに柳田と深い交わりを持つ、「先輩」新渡戸稲造も農政学を札幌農学校で学んでいた。

 当時の明治国家は富国強兵を唱え、工業が主導する産業国家をめざしていた。それに対して柳田は、工業の重要性は十分認識した上で、農業を重視した国家づくりが日本には必要だと考えていたのだ(柳田の理想は戦後改革によってほぼ実現された)。その思考と実践は卒業後に官僚としていかんなく発揮されるが、これはそのまま彼の「民俗学」にも貫徹されていると言ってよいだろう。

 卒業後、農商務省農務局に勤務し、農政エリートとして活躍を始めた。毎週、早稲田大学で農政学の講義も行っている。翌年、大審院(最高裁)判事、つまりトップエリート柳田直平の養子となる。26歳、1901年のことであった(3年後、直平の四女と結婚)。ここでも柳田はこの縁組みの動機を語らない。友人田山花袋が立身出世のためではないかと推測するのみである。確かに「立身出世」のためであっただろう。彼には生涯の任務があったのだ。この婿入りは実は日本民俗学にとっても重要な意味を持つことになる。

 だが、農商務省では上司と折り合いが悪く、その翌年には内閣法制局参事官に「栄転」する。体の良い左遷であった。だが、柳田はその後も早い出世を続け、局長クラスまで登り詰める。これは次兄が大学の友人を通じて元勲山県有朋と親しく、柳田自身も山県派閥と見なされたことが大きいとされる。だが、果たしてそれだけか。柳田自身が「政治家」をめざしていたのだ。いや政治家と言うより、政策家と言った方が正しいだろう。

 官庁を移っても柳田は農政官僚であった。農商務省時代から産業組合問題に深く関わり、各地への講演旅行をくり返している。その方面の権威として『最新産業組合通解』(1902年刊)という著作もある。「産業組合」とは農協(現在のJA)などの前身だ。これをいかなるものとして組織するかが当時激しく論じられており、柳田は「産業としての農業」政策を主張していた。

 官僚となってからも、柳田の文学趣味は続いていた。ただし、この「文学」を以前の抒情詩の延長で捉えてはならないだろう。明治文学は近代思想として活動し展開していた。その空気を呼吸することを柳田は続けていたのだ。田山花袋や島崎藤村と親しく付き合い、文学者との会合(土曜会)を自宅で毎週開いた。『武蔵野』で知られる国木田独歩も参加したこの会は自然主義文学派を育み、後ちに柳田宅を離れて竜土会と呼ばれた。日露戦争勃発の前年(1903年)、柳田は田山花袋と『近世奇談全集』なるものを刊行している。怪談集である。これは何なのだろうか。

▼撲滅される幽霊と近代人の心

 近代は脱迷信の時代である。馬鹿馬鹿しいほどの合理主義の時代である。英国では1882年、心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research)が設立された。幽霊などの心霊現象を「科学的」に研究しようというものだ。しかしこれは近代人の心の反面でしかない。実は非合理を求めていることの裏返しなのだ。事実その後、英国ではスピリチャアリズム(心霊主義)という文学潮流が起こる。夏目漱石は1901〜02年の英国留学中にこの洗礼を受けている。

 当時随一の近代国家英国でさえこれである。にわか仕立ての近代国家、わが明治日本はどうであったろうか。浄土真宗出身の「近代主義者」井上円了が妖怪や幽霊についての蒙昧を盛んに批判した。確かに江戸時代からの遺習や迷信の類にすぎないものが人々を縛っていたことは事実だろう。が、定かならぬ由来の習慣や習俗、その奥に潜んでいる思考や意識。それこそが当時の明治「国民」が暮らしを送る生活価値であり、やがて柳田が出会う「民俗」であったのだ。

 民俗学「以前」の柳田は、この微妙な社会価値の転換過程を肌で感じていたはずだ。「近代化の反動」だとして切り捨てきれない、日本人の生活価値があることを。故郷を喪失した柳田個人に即して穿った見方をすると、父母の死の衝撃があるように思う。父母の魂はどこへ行ったのか。直接にそれが『近世奇談全集』編纂の動機とも思われないが、すぐに訪れる怪談ブームに先行した柳田の感性には鋭いものがあったことは確かだ。近代人の心は怪談を欲していた。

(二)1904〜1914年 日露戦争から第1次大戦まで(29〜39歳)

▼怪談ブームがやって来た!

 日露戦争は明治の外交政治史にとって最大の事件であることは言うまでもないが、「国民」史にとっても同等以上の意味があった。15万人の死傷者が出た。自分の身近な誰かが死んだのだ。単なる官製神社であった靖国はこの時、本当に「靖国神社」となった。当時日本中に徘徊した死者の霊は『遠野物語拾遺』にも登場する。この戦争によって、日本人は「国民」となっていった。旧い藩の枠組みや村落共同体を超えて、日本「国家」という幻想を実感として感じ始めたのだ。経済構造上も一気に工業化が進み、農村が急速に解体していく。

 文壇では怪談ブームとなり、あちこちで怪談研究会が作られる。たとえば、漱石の初期短編奇譚集「夢十夜」(1908年)、鴎外の「百物語」(1911年)はこの潮流の中でこそ初めて理解できる。柳田の前民俗学時代の代表作『遠野物語』も同様だ。「近代」が深まり身の回りに実感されていくことで、「近代」ではない領域がかえって露わになっていく。近代は近代と区別すべき境界を画定していく。しかしこれは画定ではなく、近代による創造ではないのか。

 事実、近代は「古代」を再創造していた。近代天皇制こそ、その第一の産物に挙げねばならない。古代の再創造とは実は「伝統」の創造に他ならない。「日本」は近代に創出されたのだ。国家も民族も国民も近代の産物であることを忘れてはならない。そういう意味で、戦後日本人が憧憬する明治時代の「日本」とは、古い伝統的なものではなく新たなものであった。それ故、怪談も江戸時代のそれとは似て非なる、自分たちの身近な死者が登場する近代日本人のための怪談であった。霊の世界は身近にこそ在らねばならなかった。

 この怪談ブームと併行して勃興したのが自然主義文学であったことにも注意が必要だ。彼らは同一の人々であった。怪談研究会にも属した文人たちが自然主義文学者であった。島崎藤村の『破戒』が1906年、田山花袋の『蒲団』が1907年に発表されている。近代社会に生きる人間をあるがままに描き出そうとする彼らは、もう一方で近代人の背後にある霊の世界を捨象した世界を表現したと言えるのではないだろうか。

▼天狗の正体は古代の山神か異民族の末裔か

 柳田は、新興国家日本の危機であった初の先進近代強国ロシアとの戦争下、何を考え何をしていたのか。これもわからないが、彼の内面に大きな変化がこの時生じ始めていたことは間違いないものと思われる。もとより柳田は明治国家の官僚として生きていた。だが、日露戦争は彼の精神に「帝国としての日本」を訓育する端緒となったのだ。それが彼を帝国主義者にしたということではないが、新たな、そして決定的な視点を柳田に与えたものと彼の「民俗学」から推断し得る。

 柳田の最初の民俗学的な著述は明治38(1905)年、ある雑誌に発表した「幽冥談」という文章で、天狗について論じたものだった。彼はそこで、一見仏教的な趣を持つ「天狗」を信じる日本人の信仰の源を探っている。また、そういう神秘を信じる日本人の「宗教」を「幽冥教」と命名している。論はドイツ詩人ハイネの、古代ギリシャの神々がキリスト教に駆逐され、今では田舎の山川に隠れ棲んでいるという「神々の流竄説」を引用しながら進められ、日本の天狗は仏教普及以前の「幽冥教」の残存と結論づけている。天狗は没落した古代の山神だったのだ。

 このようなお化け話に、いや日本人の「伝統」信仰にどこからなぜ柳田が関心を寄せていったのかは不明である。一つには自身の生い立ちや性癖、もう一つには怪談ブームが考えられるが、それだけでは足りないだろう。おそらく柳田は「日本」を考えていたのだ。彼は強く「日本」という国家と「日本人」という国民を意識し始めていた。「日本」の由来や成り立ち、その広がりを、精神において、また国土において。そして多様な文化、風土、風俗、そして信仰を持つ人々がなぜ同じ「日本人」なのかと。

 天狗の話はまだ続く。明治42年になって文字通り「天狗の話」が発表される。ところが柳田はここでとんでもないことを言い出した。「深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民」が今もいると。「天狗」は列島の先住民の末裔、「異人種」だと主張するのだ。「山人」の発見である。この直接の背景には、同じ年に『後狩詞記』を自費出版するきっかけとなった、前年の九州・四国旅行での見聞があった。山深い宮崎県椎葉村で、平地ではとうに廃れた古代の狩猟文化が今もなお生き残っていることを驚愕しながら知ったのだった。

 「天狗の話」には「奥羽六県は少なくも頼朝の時代までは立派な生蛮地であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線(あいゆうせん)より以内にも後世まで生蛮がおった」とある。アイヌを先住民、異人種と捉えている。「生蛮」とは帰順しない蛮族、「隘勇線」とは支配領域の境界線(フロンティア)を意味するが、これは当時植民地台湾で用いられた政治用語なのである。柳田「民俗学」の背景には帝国日本があった。

▼「山人」論への回路

 近代国家日本の歴史は大日本主義の歴史である。小日本主義の時代となった今でも意識されることは少ないが、現在の国土も「日本」固有のものとは言い難い。未開の蝦夷地であった北海道は、ようやく江戸末期にロシアとの角逐の中で初めて幕府直轄の属領とされたものだ。言わば、最初の植民地(外部)だった(北海道は長らく中央政府の直接統治が続き、地方自治体となったのは1947年のことだ)。そこは異民族であり異言語を持つが「国家」を持たぬアイヌ「民族」の土地であったのだ(ちょうどインディアンのアメリカに相当する)。

 それから、新井白石がそう命名した沖縄だ。中国王朝側からは琉球と呼ばれた南島弧の王国は、江戸初期に薩摩藩が実質征服したものである(奄美諸島はそのとき島津藩に組み込まれたので、版籍奉還後は直ちに鹿児島県となった)。そこは清朝領ではないが、明治に至るまで清を宗主国として仰いでいたことも事実だ(この両属を清との秘密貿易のため薩摩藩も認めていた)。

 日本ではなく「外国」であったが故に、明治政府は明治5年にわざわざ琉球藩を置き(「返礼」として「藩王」宗泰を華族として迎えた)、明治12年に版籍奉還させて沖縄県としている(宗泰は退位)。しかし、この時点でも清朝はこれを認めなかった。その決着(琉球処分)は15年後の日清戦争まで着かなかったのだ。「新領土」沖縄が日本人に親しい地になるまでには日本民俗学が大いに寄与しなければならなかった(日本人の沖縄人への蔑みは少なくとも敗戦まで続いた)。

 さて、日清戦争で台湾を植民地として獲得した日本は、実は相当長期にわたり抵抗に遭っている(その犠牲者数は何と日清戦争時を上回る)。大陸出身の中国人ゲリラ以上に、先住民の「山人」高砂族が難物であった。彼らこそ「生蛮」であり、その境界が「隘勇線」であったのだ。そういう台湾に柳田は繋がっていた。だからこそ、日本の「山人」を台湾で日本人が逢着していた先住民に喩える発想ができたのである。その回路の一つは柳田家であり、もう一つは農政学であった。

▼絢爛たる台湾人脈と農政学の展開あるいは転回

 養父柳田直平は自身も柳田家に入った養子であった。その実弟に安東貞美がいる。義理の叔父に当たる安東は日清・日露戦争に出征、後ちに第4代朝鮮軍司令官、陸軍大将となり第6代台湾総督を務める(男爵)。また、柳田国男と結婚した娘の姉が嫁いだのが木越安綱である。義兄の木越は安東と1つ違いでほぼ同じ道を歩んだ。すなわち、日清・日露戦争に出征、後ちに陸軍中将となって陸軍大臣を二度務める(男爵)。この二人が同時期に新生植民地の台湾での任務に就いていた。

 台湾は占領当初、住民の抵抗ばかりか産物も乏しく、不毛の植民地であった。フランスへの売却話さえあったほどだ。これを一変させたのが第4代台湾総督・児玉源太郎、民政局長・後藤新平の名コンビである。ともに偉人として名高い。児玉は総督在任中に陸相などを歴任、また日露戦争で満州軍総参謀長として指揮を執る(伯爵)。後藤は台湾後、満鉄初代総裁、内相、外相、東京市長などを歴任、関東大震災後の帝都復興にも尽力することになる(伯爵。思想家鶴見俊輔の祖父)。

 児玉・後藤体制は明治31〜39(1898〜1906)年であったが、その就任の年に安東は守備旅団長、木越は参謀長(当初は補給廠長)として台湾に赴任している。さらに後藤に招かれ、3年後に農政学の先輩・新渡戸稲造が総督府に入る。殖産課長として新渡戸が提出した「台湾糖業改良意見書」に基づく植民地政策によって、台湾経済は初めて軌道に乗る。新渡戸はこの功により精糖局長に就くとともに、京都帝大で教授として植民政策を講ずることになったのだ。

 新渡戸とは何者か。「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士が教鞭を執った札幌農学校(北海道大学の前身)に第2期生として学び、そこでキリスト教に入信している。実はこの札幌農学校とは、未開の旧蝦夷地を北海道として開拓するために、アメリカ農政学を移植しようと設置されたものだ。もっと厳密に言えば、前近代の植民地全般を開発・経営するための「開拓使」人材を養成するために置かれた学校であった。「農学校」であるのは、植民地とは未開の後進地であり、その経営とはまず農業政策に基礎を置くものと考えられたからである。

 少なくとも新渡戸にとっては、農政学は国内の農業政策と同時に、植民地での国家政策を担う学問だった。付言しておくが、移民と植民は違う。移民は他国主権の地に自国民が移り住むこと、植民は自国の属領となった地(植民地)に本国の国民が移住することだ。植民の場合、現地住民の抵抗を懐柔し本国民と調和させ、経済的振興ならびに社会的安定を図るための政治政策が必要となる。これが植民政策であり、学問としては植民地政策学であった。

 柳田が農政学を選択したとき、どこまで意識があったかはわからないが、日清・日露戦争ではっきりと帝国日本の射程で、つまり列島「内部」を越えた版図においてその学問を展開せざるを得なくなった。これが「外部」との出逢いとなる。「日本」以外のものと出逢うことによって初めて「内部」すなわち「日本」が問うことができるのだ。異質なものとの出逢いが自らのアイデンティティーを反問することになる。「近代」とは異質との出逢いによって同質としての「民族」の独自性を問う時代でもある。

 以上のような回路を通って柳田は「山人」と出逢っているものと思われる。

▼帝国日本の中から立ち上がった山人論「三部作」

 山人論「三部作」の『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』を刊行した明治42年から翌年にかけての2年間(1909〜10年)は、柳田自身が植民政策に公務としても直接関わらねばならない時期であった。朝鮮併合である。内閣法制局参事官・柳田は併合の翌年(1911年)、その功によって勲五等瑞宝章を授与されている。叙勲の高級官僚92名中46番目のランクづけであった。専門の農政学の学識を活かした貢献であったかどうかは不詳である(植民政策に直接関与はなかったとの反証もあるが、柳田の「民俗学」自体が「関与」していることは免れ難い)。なお、その翌年にも韓国併合記念章を授けられている。

 朝鮮を植民地化するに当たり、先例となったのが台湾であった。柳田の視野にも収められていたはずの日本帝国の植民地は、北海道(千島も含む)、沖縄、台湾、南樺太である。柳田は、明治36(1903)年の時点で台湾総督府の「旧慣調査報告」を閲読し、明治39(1906年)には東北・北海道、新領土・樺太を視察している。彼の「三部作」は、決して「民俗学」ではなく、こうした植民地政策構想のための調査活動の中で初めて生成したものと考えられる。

 あまりにも有名な『遠野物語』そのものついてはここでは触れないが、この書には奇妙な献辞がある。「この書を外国に在る人々に呈す」だ。さらに序文には有名な「願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」の言葉がある。特に謎めいて見えるのが献辞で、さすがに柳田も西洋居住の友人に送ったものだと後ちに釈明しているが、とても真実とは思えない。陳勝・呉広とは中国最初の統一帝国秦を崩壊させるきっかけとなった農民大乱を起こした首領二人の名だ。ここから、「外国に在る人々」を「山人」と捉え、日本の植民地帝国への反乱を呼びかける書とする考えもあるが、これも無理があろう。

 この書は「山人」問題に直面する、つまり植民政策に奮闘する日本帝国の政治家や官僚「同志」への警告と助言の書だろう(序文に「目前の出来事」「現在の事実」とくり返される)。「この書のごときは陳勝呉広のみ」は、日本の統治に反抗する「山人」の気持ちを内側からつかんでいることへの自負の表明であり、旧慣の文化・民俗を重視した植民政策の採用を密かに提言するものと推察できる。そしてこの視線が日本政府の政治とも新渡戸の政治や学問とも異なる、柳田独自の学問「民俗学」を形作っていく。

(献辞の解釈について若干補足しておく。柳田を民俗学者とする主流の見方では、「心が外国に在る日本のインテリに呈す」だ。つまり西欧崇拝を止めてわが日本に目を注げ、という意味となる。典型的な後付けの解釈だ。それから、さもあらんかと思わせるのが、「外国に在る人々」を西欧の「民俗・民族」学者とする解釈だ。日本における「民俗・民族」学の研究を誇示するものという見方である。実際、柳田は常にインターナショナルな視点を持っていた。)

 『後狩詞記』については若干述べたので後は『石神問答』だが、この「石神」とは東京の地名「石神井」(しゃくじい)の石神で、路傍の小神を指す。これを巡っての知人数人との往復書簡集をまとめた形式を取る著作が『石神問答』だ。そこで柳田は「シヤグジは道祖神なり」、それは「サヘ(塞)ノカミ」(境界鎮守の神)であり、アイヌ語で「界障」を「サク」と言うと論じている。柳田は正体不明の石神を、当時の「生蕃」と対峙していた古代日本の「隘勇線」の跡だと考えたのだ。

 「三部作」以後、柳田がとる「比較」という方法論も、実は台湾植民政策に由来している(彼の農政学の展開が植民地政策学の予備学としての「民俗学」なのだから当然なのだが)。台湾総督府民政局長の後藤は元々医師であった。彼は内務省時代、地方衛生視察を通じて医事衛生向上のためには、まず地方ごとの「民俗」を把握することが重要であることを学んでいた。この経験を活かし、後藤は台湾でも「土地調査事業」とともに「旧慣調査事業」に執念を燃やした。その方法論が「比較」であり、その成果が柳田も読んだ「旧慣調査報告」だった。なお、新渡戸の「自由主義」的植民地政策学も後藤に学んだ所が大きかった。

 もう1つ。「山人物語」の舞台として「遠野」が選ばれたのは、怪談ブームの中で作家水野葉舟から紹介された佐々木喜善(鏡石)との出会いが確かに機縁となっている。が、柳田と「遠野」とのつながりはそれだけではなかった。明治42(1909)年、柳田は遠野へ出かけている。そこに居たのは佐々木ではなく民族学者伊能嘉矩であった。伊能は台湾の後藤の下で旧慣調査に関わった調査官である。その伊能には台湾統治の参考のために書いたという、大和朝廷の東北における異民族蝦夷の征服・同化政策についての論文さえあったのだ。柳田は古代朝鮮語の教授も伊能に乞うている。

▼「滅びゆく」アイヌと「解放」された沖縄

 柳田は当然アイヌへの関心も深かった。『遠野物語』の初版にはアイヌ語が満ちていると言ってもよい。ところが、彼が「民俗学」をようやく唱え始めた昭和11(1935)年の再版時には「アイヌ」が消去されるのである。柳田にとって後年の「民俗学」とは何であったかの一斑が垣間見えるが、それはひとまず置こう。「山人」の国内モデルであるアイヌはすでに絶滅の危機に瀕していた。明治32(1899)年の「北海道旧‘土民’保護法」制定は国家による「征服」終了の表明である(この法は何と1997年まで存続していた)。

 その「滅びゆく」アイヌ文化を書き留めたのが金田一京助であるが、ここには近代「民族学」の倒錯があった。近代国家は国語によって成立している。国語の自覚は、日本では言文一致運動となった。口語・俗語の重視、口承文学への着目が起こったのだ。言葉が自我・個人の内面の外化・表明と信じられた(この口承文学への着目が『遠野物語』のスタイルの選択でもあったわけだ。その序文冒頭には「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」「感じたるままを書きたり」とある。ただし、言文一致体ではなく文語体が採られ、推敲を重ねた「作品」となっている)。

 金田一はアイヌに語らせることだけが重要と考えた。そこで彼は高齢のアイヌ人長老たちを遠路東京に次々と呼びつけ自宅に「軟禁」して、語らせたのだ。なぜなら「滅びゆく」アイヌ文化を最も効率よく採集する最良の手段が、自宅での「フィールドワーク」だったからだ。彼らは例外なく、語り終えるとまもなく死亡した。こうしてまさに滅びゆくアイヌ文化を、金田一は見事保存することに成功したのだった。民族学は似たようなことを世界中で行っていた。

 一方の沖縄を「日本」に引き入れた伊波普猷についても一言しておこう。伊波こそが現在に至る沖縄像を作り上げた「民俗学」者だ。また、沖縄古謡「おもろさうし」を研究し、琉球語と日本語、つまり琉球人と日本人の同根性を主張した言語学者でもある。彼は日本帝国における沖縄を最大限肯定し、沖縄県となった「琉球処分」を「解放」とさえ喧伝した(敗戦後、アメリカ占領軍を「解放軍」と讃えた輩を連想してしまう)。

 彼の著作『古琉球』(明治44[1911]年刊)では、島津藩・清朝の二重支配を甘受した「近世琉球」を否定し、それ以前の「古琉球」こそが理想の時代であったと説く。だから近世琉球を打倒した近代日本支配を肯定するのだが、当然それは古琉球と同一ではない。ともあれ、伊波の「民俗学」は柳田や折口をやがて沖縄へと誘い、彼らは驚きをもってそこに「日本」の原郷を等しく見出したのである。現在に続く「楽園」イメージはここに発する。

▼明治43年、柳田農政学の敗北

 自身も関係した韓国併合の明治43(1910)年は柳田にとって多産の年で、『石神問答』『遠野物語』の他、農政学論集『時代ト農政』も刊行している。足かけ7年に及ぶ文通を続けることになる南方熊楠を知ったのもこの年だ。新渡戸稲造を会長とする「郷土会」も発足している。新渡戸は明治39年に京都帝大から東京帝大に移り、一高校長も兼任していた(ちなみに元上司・後藤新平は同時期に満鉄初代総裁に就任)。明治42年、帝大に「植民政策講座」が設置され、この43年には植民学会が発足した。

 郷土会は柳田の自宅での「郷土研究会」が発展したもので、会員はやはり柳田の弟子たちが中心であった。そこは新渡戸の「地方(じかた)学」(地域研究)を学ぶ場であった。これは北海道・台湾での研究と実践を踏まえた新渡戸流の農政学=植民地政策学を国内に適用しようとするものとも位置づけることができる。柳田にとっては、政府政策と異なる自身の「農政学」を別角度から考究し、転回させていく場だったと言える。

 同じ年に「帝国農会」(全国農協の前身)が成立している。実はこれは農政学者としての柳田にとって政治的な敗北であった。それまで柳田は、農業の産業化を進めるため、中農層の育成、小作料の金納化、近代的な組合作りなどを提唱していた。しかし、柳田を農商務省から追い出した政府の農業政策は、中央集権での地方行政の展開と相まって、地方地主(不在化も進む)を温存し地方名望家を優遇する保守的なものだった。柳田はそんな農政イデオローグたちと激しく論争してきたのだった。

 政府の地方支配は、明治憲法公布の明治22(1889)年に施行された市制・町村制に始まるが、日露戦後の同44(1911)年には「改正」され、地方行政組織を中央政府の出先機関としていっそう強化した。地方村落への圧迫は、国有林野法(明治32年)、部落有林野統一方針(同42年)などによる林野からの締め出し、また小さな氏神社や雑多な祠の合祀令(同39年)ともなって現われた。南方熊楠だけでなく、柳田もこの合祀令に反対している。

 近代化の荒波の中での農村荒廃(都会への離郷、人口流出もその一つ)は、日露戦争による財政窮迫の地方への波及もあり、政府に「地方改良運動」という名で地方の自力更正を促進させしむることになった。そこで大きな役割を果たすのが二宮尊徳(金次郎)の流れを汲む報徳社や政府の別働隊・報徳会であった。農本主義を掲げるが、実政策的には現状の地主・小作関係を固定した上で、協調や努力ばかりを説く精神主義の「地方改良運動」だ。帝国農会の成立はこの路線の全国的な完成であった。

▼時代閉塞・明治終焉・大正改元

 明治43(1910)年はまだ終わらない。帝国明治日本の最大懸案だった半島問題解決の露払いかの如く、明治天皇暗殺計画があったとして26名が大逆罪で起訴され、翌年、幸徳秋水ら12名が処刑された。大逆事件である。金田一京助の同郷の後輩・石川啄木は評論「時代閉塞の現状」を発表し、息苦しい「戦後」を批判する(1912年、大正改元を迎えず夭折)。人々の怪異ブームへの逃避は続いていた。映画『リング』主人公貞子の母「千里眼」御船千鶴子が公開実験で失敗し自殺したのは明治44年だった。その翌年、明治は終焉する。

 1912年7月30日、時代は大正と改元される。「大いなる正しさ」と訓めるが、果たしてどうであったろうか。乃木希典元帥夫妻の殉死で始まったこの時代は、日本国家が周辺国に「近代大国」として大胆に振る舞う時期でもある。第1次世界大戦勃発までの2年間、柳田は山人系譜の探究を依然続け、また初の「民俗学」月刊誌『郷土研究』を創刊(1913〜17年。高木敏雄と共同編集、14年から単独編集)した。叔父の安東中将は第4代朝鮮軍司令官として現地に赴任し、義兄木越中将は大正後初成立の桂内閣で陸軍大臣となっていた。なお、中国では明治44(1911)年に辛亥革命が成功し、同45年、中華民国が成立した。日中両国が奇しくも同じ年に新時代を迎えたわけだ。

 市制・町村制改正の3年後の大正3(1914)年刊行の『尋常小学校唱歌(六)』には、今も親しまれて歌われる「故郷」が収められている。農村分解と農民の離郷が一定段階に達したことを証するものと理解できる。長い章をこの歌で締め括ろう。

(三)1914〜1931年 第1次大戦から満州事変まで(39〜56歳)

▼第1次大戦による日本と柳田「農政学」の変容

 日露戦争の戦勝国として近代列強の一国となった帝国日本は、遙かヨーロッパで始まった初の世界大戦に日英同盟を口実に一早くドイツに宣戦布告。中国に出兵して山東半島のドイツ軍を駆逐する。そしてそのまま居座り、翌大正4(1915)年、誕生間もない中華民国に対華21ヶ条要求を突きつけた。革命と近代化を支援してきた民間有志(例えば、宮崎滔天、北一輝)とは相反する、中国を非文明国=前近代国家として切り刻む、植民地主義とオリエンタリズムに満ちた政策であった。

 柳田は大正3(1914)年、貴族院書記官長(局長クラスだが、ほとんど閑職)に就任する。翌4年には大正天皇即位式に供奉した。後ちに『山の人生』(1926年刊)で、京都での御大典の際に遠く山手に立ち上るサンカ(柳田が「山人」との関連を追究した山民)の煙について述べるのはこの時の出来事である。大正6年発表の妖怪考「一目小僧」でも、妖怪は零落した異民族の神と論じている。柳田にとり、まだ日本人は「単一民族」ではなく「常民」とも出逢っていない。

 大正6(1917)年、柳田は職務をおろそかにしてまで、海外旅行に出かける。台湾、中国、そして朝鮮の視察であった(旅中、孫文と面会)。ちょうど朝鮮から移った安東大将が台湾第6代総督に就いていた。安東総督は就任早々、「生蕃」高砂族から手痛いテロを受けていた(西来庵事件)。そんな危険な台湾に柳田は行かねばならなかった。翌年にはドイツ保護領ミクロネシアに進駐し海軍大佐で退役した実弟・松岡静雄とともに「日蘭(=オランダ領インドネシア)通交調査会」なるものを設立している。柳田の「農政学」は明らかに変容していた。

▼植民地の反乱と柳田の官吏生活終焉

 ヨーロッパでの戦渦は日本経済に未曾有の好景気をもたらした。大戦特需バブルである。これを背景に「大正デモクラシー」があり、白樺派文学(文芸誌『白樺』は1910〜23年刊)の流行があったのだ。大戦末期にロシア革命(1917年)が起こる。革命思想の南下阻止と満州・シベリアでの利権拡大をもくろむ日本帝国はシベリア出兵を決定する(時の外相は後藤新平)。ところが、これが米価の高騰を招き、日本全国で米騒動が勃発した(初の全国的な民衆運動)。この事態を承けて、大正7(1918)年に成立したのが、無爵位の「平民宰相」原敬内閣であった(原は大正10年、東京駅頭で刺殺される)。

 同年、5年間に及んだ大戦がようやく終結すると、植民地では「民族」の反乱が勃発する。アメリカ大統領ウィルソンが唱えた「民族自決」の波に乗り、翌大正8(1919)年3月1日、朝鮮で独立を求めての反乱が、5月4日には中国で山東利権に抗議する反日運動が始まった。日本の帝国主義者および植民主義者には大きな衝撃であった。符牒を合わすかのように、この年の12月、柳田は貴族院書記官長を辞し、官吏生活にピリオドを打っている。俗説に言う貴族院議長徳川家達との確執だけではとても説明し難い。自身の「農政学」をさらに転回させる必要があったのだ。

 第1次世界大戦によって「植民地獲得競争としての帝国主義時代は終わった(以後の領土拡大は禁物)」と欧米の戦勝国は認識していた。このことが柳田に植民地政策学としての農政学を放棄させたものと思われる。それが国家官吏からの離職の真因でもあろう。もちろん、朝鮮や中国での民衆「反乱」も自身の決意の妥当性を再確信させただろう。柳田は「政治」(=農政学)からのアプローチを諦めたのだ。ここから、農政学であって農政学ではない、「学問」としての「民俗学」が始まる。

 ここで、植民地政策に対する政府や新渡戸との違いについて触れておこう。柳田の主張は「旧慣保存」であった。欧米流の画一的で急激な「同化政策」はかえって大きな抵抗を生じると考えていたと思われる。ただし帝国日本を否定するものではない。これに対して、札幌農学校でアメリカ流の植民学を学んだ新渡戸は「未開人」を近代人に同化していかなければならないと考えていた。これが彼の植民政策でもある。政府政策と大差はない。違いはそのやり方だけであった。

▼国際連盟委任統治委員会委員・柳田国男

 翌大正9(1920)年、それを条件に朝日新聞社客員として入社した柳田は、東北・中部・東海・九州、そして沖縄へと旅立つ(意外にも沖縄旅行は生涯ただこの一度切りだ)。計画では足を伸ばし、インドネシアまで行こうと考えていた(日蘭通交調査会の設立は前年のこと)。ところが、同年成立した国際連盟(日本は常任理事国)の事務次長に就いた新渡戸の推挙で、委任統治委員会委員に急きょ指名され、本部のあるジュネーブに向かうことになったのだった。

 滞欧中の様々な経験は以後の柳田の方向と方法を決定づけたと思われる。まず、彼が属した委員会の「委任統治」とは何かだが、ポスト帝国主義時代の新しい植民地支配方式だ。国際連盟の委任を受けて、各国が代行して統治する。敗戦国の植民地に適用され、戦勝国日本は旧ドイツ領だった太平洋諸島のうち赤道以北のミクロネシアを委任され、領有・統治することになった。委員会では、パレスチナ問題から植民地での現地住民統治の方法まで、委任統治をめぐる諸問題が論議された。

 ここで柳田は「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題した報告(この中に 'common people' の語句:訳せば「常民」)など、これまでの「山人民俗学」研究を活かした活動を行っている。一方、パレスチナ問題にも“中立的”な立場で大いに関心を示している。この国連事務局に、転向マルクス主義者にして日ユ同祖論者・藤沢親雄がいた。「日ユ同祖論」とは日本人とユダヤ人は同民族だとする奇説である。当時、日本人の起源について様々な仮説が飛び交っていた(今も続いているとも言えるが)。柳田はこの藤沢とも親しく付き合っていたのだ。

▼「失地回復」あるいは「特殊民族」としての「同祖論」

 柳田の「山人民俗学」も日本人の起源を探るものと言える。「民族」の起源という問題は、「近代」という時代と帝国主義に複雑に結びついていた。「日ユ同祖論」の他に、「日本アイヌ同祖論」「日琉同祖論」「日韓同祖論」もある。これらは帝国日本の膨張の中で唱えられ、日本の「失地回復」言説として有効に機能し、実際それらが帝国の版図に組み込まれてきた。そしてそこでは近代統一国家の証である「国語」教育を含めた日本への同化が進められたのだ。

 さて、日ユ同祖論は「日本人アーリア起源説」を越えるための言説と理解できる。日露戦勝の結果、ヨーロッパでは「黄禍論」が高まった。かつてのモンゴルやトルコによるもののように、黄色人種によって白色人種は征服されるという妄想であり、かつ言いがかりだった。日本人は東洋人・アジア人でありながら、すでにそうでない「近代人」でもあった。その集合的無意識の発現が「日本人アーリア起源説」となった。日本人は実はヨーロッパ人と同じ民族なのだと日本人自身が捏造したのだ。

 日ユ同祖論は、日本人の起源はアーリア民族ではなくユダヤ民族だと主張する。欧米文明文化の中で特殊・特別な位置づけを持つユダヤ民族に日本人をなぞらえようとする言説である。この「ユダヤ民族」と言った時点で「民族」の仮構性が明らかであるが、要するに日本人は自身の比類なき特殊性を主張し始めたのだ。1970年代の日本人論ブームのとき、『日本人とユダヤ人』という本があった。今も書店には数多く「ユダヤ本」が並んでいる。歴史を学ぶべきであろう。

 もちろん、柳田が日ユ同祖論者であったわけではない。しかし柳田には、ついに語らなかった日本人に関する思索が累々とあったに違いない。日本人起源論に関しては、国内の「山人」しか語らなかったが、列島の周辺の全方位が視野に入っていた。アイヌ、朝鮮、中国、さらに琉球、台湾、インドネシア、太平洋までも。自覚していた方法「比較」の観点からも為さねばならぬ仕事であったはずだ。だが、わずかに「琉球=南島」の線が戦後考究されるに留まったのだ。

▼帝国主義と民族学との深い関係

 帝国主義と民族学との深い関係も一瞥しておきたい。「民族学」(ethnology)はすでに死語で、今は「文化人類学」(cultural anthropology)なぞとご立派な学問名となってはいる。民族学は個々の民族の文化を研究するものだ(それに対して「文化人類学」は普遍的な人間文化を探るものとされる)。その学問は異人種、異文化との出逢いによって誕生した。例えば、アメリカ・インディアン、中南部アフリカ人、太平洋諸島人などである。すなわち、帝国主義が植民地を拡張する中で出逢った、「未開」で「野蛮」な、「文字を持たない」(=)非文明民族の研究を指していた。

 ヨーロッパ中心主義のオリエンタリズムという色メガネをかけた民族学者たちは、帝国主義者・植民地主義者の操る軍艦に同乗して現地に向かい、軍隊とともに移動しながら、フィールドワークを続けたのだ。彼らは金田一と同じことを言った。いま記録しなければ、文化が永久に失われると。「文明人」たちがもたらした、戦争やキリスト教ばかりか病気や労働を含めた「文明文化」が“予言”通り現地住民を次々に死へと追い込み、民族の絶滅あるいは絶滅寸前にまでしていったことは周知の通りだ。

 それにしても、帝国主義は免疫が十分できるまでは決して治らぬ「近代文明国」固有の病なのか。スペインやポルトガル、オランダ、イギリスとフランスなどに比べ、帝国主義形成に遅れたドイツやイタリア、さらに東洋唯一の後発「近代文明国」日本は「帝国」拡張に最期まで固執した。第1次世界大戦後のポスト帝国主義の時代に、ドイツやイタリアは周辺に領土を拡張しようとし、わが日本は満州国を建国・属国化し大陸支配を広げようとしていった。

▼3つの「ミンゾク学」、そして「民族」とは何か

 話を柳田に、民俗学に戻そう。足かけ3年に及ぶ滞欧米の中で、柳田は最新の民族・民俗学理論を学び、またドイツ民俗学を知るに至る。民族学は今も述べたように、植民地を開拓した近代諸国が自国以外の未開の異文化を研究した、言わば外向きの学問であった。民俗学(folklore)とは文明先進国イギリスで起こり、伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問だ。近代化により失われていく、国内に「残存」する「前近代」の文化を書き留めようとする、言わば内向きの学問だった(どちらも無文字文化の探究がミソ)。

 これらに対し、近代化が遅く植民地も持たぬドイツでは、独自の「民族・民俗学」(Volkskunde:フォルクスクンデ:「民衆学」と訳せる)が起こる。それは、外側からの民族学、内側からの民俗学、両方の手法で自国伝統文化を見つめ、「ドイツとは何か」を自問自答する学問だ。民族学や民俗学が近代人から見ればしばしば迷信や愚習と映る事象を研究対象とするのに対して、美しき守るべき民族の伝統や文化がいま失われようとしているという危機感に支えられて展開された(先鞭をつけたグリム兄弟の「童話」はそういう考えでの民話蒐集から生まれたのだ)。これこそ、後ちの「日本民俗学」と同趣意の「民俗学」であった。

 だが、ここにはトートロジー(同語反復)の陥穽がなかっただろうか。そもそも「民族」とは「近代」が生み出したものだ。そこで探究される「伝統」とはいったい何なのだろうか。たとえ継承される諸文化あるいは「伝統」の源泉として断片的不連続にはあり得たとしても、論理的には近代「民族」のアイデンティティーは過去にはなく、現在あるいは未来に求めざるを得ない。事実、やがて「フォルクスクンデ」と「日本民俗学」は空転を始めるだろう。

 また、一つの民族は固有の国土(国境)と一つの国語を持つとされるがこれも事実ではない。近代において初めてそうなったことは、フランス言語や日本国土を見れば明白だろう。それから、「国家」となれなかったアイヌやアメリカ・インディアンとは「民族」ではなかったのか。さらに、帝国主義戦争によって画定され今に続く「国境」とは何なのだ。当時はともかくとしても、今や近代「民族」概念が破綻していることは明白だ。近代国家は決して「民族国家」ではなかったのだ。

▼関東大震災と虐殺された朝鮮人の物語

 大正12(1923)年、ロンドンに居た柳田の眠りを醒ませたのは「帝都壊滅!」の一報であった。柳田は急ぎ帰国している。柳田が離日してから時代は急旋回していた。大戦後、バブルが弾け、一転して不景気の時代が訪れていた。また、列強となった日本はワシントン会議(1921〜22年)で軍縮路線を強いられる一方、共産党がついに日本にも秘密裏に結成(1922年)されていた。関東大震災で首都は壊滅、死者・行方不明14万余名。そして、皇民となったはずの朝鮮人が震災の混乱に乗じて6,433人も殺害された。

 この後、世界恐慌を含めて長期デフレ不況に日本は突入する。バブル崩壊−大震災−長期不況と続けば、1990年以降の現在を連想せざるを得ない。そう、歴史は繰り返す。広島長崎原爆投下(1945年)や阪神淡路大震災(1995年)でもそうであったが、この関東大震災でもこれを「天罰」とする論が起こった。本気でそう信じる人には何とも言いようがないが、いずれも天罰ではなく、自然災害であり、政治であったろう。ともあれ、柳田はこれを契機に国連委員を辞め、過去ではなく現在の日本に向き合うようになる。

 ところで、関東で大量に虐殺された朝鮮人はいつの間に日本に来ていたのだろうか。これには、柳田がこだわったコメが因縁のように関わっている。台湾で実施された「土地調査事業」というのは、先住民のアイヌやアメリカ・インディアンから土地を巻き上げたように、土地を日本本国の植民に用意するためのものだったが、朝鮮でも同じ「事業」が行われた。国内では小作だった日本人が植民した後、柳田が政策提言した中農になることができたのはこういうカラクリであった。

 中農になれた日本人はよいが、そこで農耕を営んでいた台湾人や朝鮮人はどうなったのであろうか。朝鮮では、大正7(1918)年の米騒動を受けて日本国内での需要を満たすため、同10年より「産米増殖計画」というものも実施され、ここでさらに朝鮮人は土地を奪われることになったのである。流民化した朝鮮人は、満州へ日本へと流れていった。それが関東にいた「コメ難民」としての朝鮮人だったのだ。日本人のコメにこだわった柳田は、しかし何も語らない。

▼日本人起源論から「日本民俗学」へ

 大正13(1924)年、柳田は朝日新聞の論説委員となり社説を書き始める。日本社会の「目前の出来事」「現在の事実」に目を向ける。時あたかも普通選挙を求める運動下にあった。社説でも普通選挙を多く採り上げている。「常民」ではなく「公民」がこの時期の柳田のテーマだ。政治的主体としての民衆の自覚を促す。普通選挙法成立後は、公民の義務と権利としての選挙を通しての、社会改善を訴えている。昭和6(1931)年に刊行された『明治大正史 世相篇』はその集大成でもあった。

 一方、柳田はこの時期、渡欧米前の国内旅行をまとめている。その果実が『海南小記』(1925年刊)であり、『雪国の春』(1928年刊)であった。南北日本の紀行文である。柳田は奇妙な民俗学者であった。方法としての「旅」を十分に自覚し、また弟子たちに旅を通じた採集を盛んに促していたが、自身の旅は民俗学として一向に深まらないのである。彼の民俗学は弟子たちが採集した調査報告、民俗誌を通じた思索にこそ真骨頂があった。彼自身の旅は類い希なる美しい紀行文しか生まなかった。

 郷土会をベースにした民俗雑誌『郷土研究』は大正6(1917)年には休刊となっていた。今度は思いを新たに、民俗学と民族学の架橋をめざす雑誌『民族』(1925〜30年。民族学者岡正雄らが編集委員)を創刊する。「民俗学」への自覚は高まっていた。それが講演活動になって表れる。「南島研究の現状」(1925年)や「日本の民俗学」(1926年)など『青年と学問』(1928年刊)に収められた講演が行われている。山人論の総括であり訣別ともなる『山の人生』(1926年刊)もまとめられた。

 柳田は山人論などの日本人起源論から「日本民俗学」へと向かっていた。この時、「民俗学」という言葉がようやく彼の口に上る。大正末年の講演「日本の民俗学」で柳田はこう切り出す。「自分としては今日まで、じつはまだこの名称を使ってはいなかった。(略)かりにこうでも言って置こうかと思案していたところであった」と。ここから「フオクロア」(民俗学)と「エスノロジー」(民族学)の釈義に入り、あたかも訳語の問題であるかのように話は進む。だが、問題は果たしてそうだったのだろうか。

▼「民俗学」の語に躊躇しなければならない意味

 農政学=植民地政策学につながる「民俗」という語への躊躇があったに違いない。「民俗」とは本来、支配者が非支配民の性情を探る政治用語だった。明治初期には明らかにそういう意味で使われていた。山人論とは、かつての日本「帝国」が見事に「植民地」支配を成し遂げた「古代民生」論でもあったのだ。帝国主義国家の官僚であった柳田の立場は微妙である。『遠野物語』あるいはこの後ちの「常民」概念に見られるように、確かに彼の言葉は被征服民や被支配民への同情に満たされている。

 だが、それは決して現実の行動と一致するものとは限らない。例えば、同じ大正15年の講演「眼前の異人種問題」でアイヌの現状を憂え日本人を批判するが、柳田はその時自分の前に報告演説させたアイヌ人を保護観察が必要な者のように扱って「余計な発言」を断じて許さなかった。彼は官僚を辞めて直接政治に関わることは止めたが、学問による「経世済民」を唱えるようになった「政治家」(支配する側の者)であった。「民俗学」は、柳田の化けの皮を剥ぎかねない危険な言葉だったのだ。

 さて、大正デモクラシーは大正14(1925)年、柳田の念願でもあった普通選挙法成立という実を結ぶ。が、同時に治安維持法というあだ花も咲かせた。翌年12月、元号は大正から昭和に変わる。短い元年が明けた昭和2(1927)年、元帥乃木ではなく、文人芥川龍之介が自殺することで大正時代は終わったと言えよう。金融恐慌、さらにニューヨークを震源とする世界恐慌の津波が日本にも押し寄せる。経済の苦境は政治ばかりか学問も追い詰めていき、その中でわが「日本民俗学」は誕生する。

(四)1931〜1945年 満州事変から敗戦まで(56〜70歳)

▼オバケの話をすることが憚れる時代

 昭和6(1931)年、満州事変が勃発する。のべ15年をかけることになる日本の「最終戦争」が始まった。自己矛盾した戦争であった。敵として戦う欧米諸国こそが、明治立国以来、日本の軍事も経済も支えていたのだ。軍事大国であるためには、欧米との友好な経済関係が何より必要であった(この事情は現在もなおそうであろう)。だが、アジアで資源を得られれば「自立」できるかも知れないという保証のない夢想に、日本帝国はずるずると陥ってしまったと言う他ない。

 柳田は昭和5(1930)年、「妖怪談義」を発表している。その中に、「私は生来オバケの話をすることが好きで、またいたって謙虚なる態度をもって、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば相手が悪くなったからである」という文章がある。この「オバケ=妖怪」とは、柳田にとっては「零落した異民族の神」に他ならない。つまり、日本国内の異民族について、引いては多民族国家としての日本を語ることが憚れる時代になったと述べているのだ。

 事実、曲がりなりにも大正デモクラシーを担ってきた政党政治が壊滅する。大正13(1924)年から8年続いた政党内閣は、浜口首相狙撃(1930年。翌年死)、昭和7(1932)年の五・一五事件(軍人テロ)での犬養毅首相射殺で幕を閉じた。日本は急速に自らの道を狭め、隘路に入り込む。翌年、満州問題で国際連盟を脱退、同10年には美濃部達吉の天皇機関説問題から国体明徴声明(日本はアマテラス以来の神の国であり、天皇は絶対君主の旨)を発する。先鋭左翼マルクス主義ばかりか、大本教(非国家神道系)など宗教団体さえが弾圧されていく中で、柳田はようやく本気で日本民俗学に取り組むのである。

▼「母の日」誕生と母子心中の急増

 昭和7(1932)年、柳田は朝日新聞社を退社し、肩書きのない一民間人として日本民俗学樹立に本格的に邁進する。57歳であった。『日本の伝説』(1932年刊)、『桃太郎の誕生』(1933年刊)、『日本の昔話』(1934年刊)などを相次いで出版している(いかにもフォークロアだ)。時あたかも、伝説ブームであった。伝統の復興、愛郷心や愛国心の高揚が民間でも起こっていたのだ。だが、暗い時代でもあった。世界恐慌下、昭和6年に東北・北海道で凶作、東北地方は同9年にも大凶作だった。救いのない貧困が農村を襲い、娘の身売りさえ横行した。政府は「農山村漁村経済更正運動」を推進する(何のことはない、互助主義的な自力更正だ。別働隊として柳田に近い石黒忠篤が活動していた)。

 実は日本での「母の日」は昭和6年に始まる(もともとドイツの花屋のキャンペーン)。そしてこの頃、母子(親子)心中が急増している。興味深いのが対称的に捨て子が明治30年代以降急減し、この頃底を打っていることだ。日本は長らく捨て子社会だった。また、養子社会だった。坪内逍遙、夏目漱石、国木田独歩、斎藤茂吉、室生犀星、芥川龍之介などの文人たち、そして柳田も養子だ(いずれも明治31年以前の生まれ)。この転調には日本の家制度の変化が関係している。

 「封建遺制」の権化とされる家父長的な家制度ができたのは、その封建時代でなく意外にも近代で、明治31(1998)年のことだった。その世代交代が完了したのがこの昭和初期だと言えよう。近代の家は個々に閉鎖的に、また「血」を重視するようになって、自由な捨て子や養子を阻むようになったのだ(近代は「純血」を好む)。そして家が経済的に打撃を蒙った時、「母子心中」という新流行が始まったということだ。近代において家の女は「女性」ではなく「母性」と位置づけられた。「母」も近代概念の一つなのである。柳田は「妹の力」などの論文で、あるいは婚姻史を繙きながら、女性の役割を大いに褒めそやすが、結局は「女性」ではなく「母性」を讃えている。柳田の女性論の射程は存外狭いのである。

▼「日本民俗学」の樹立と方法論

 昭和9(1934)年、柳田は自宅にて民俗学の自主研究会である木曜会を始める。これを基盤に全国山村生活調査を開始。日本民俗学の理論書『民間伝承論』を刊行する。翌年には「日本民俗学講習会」を1週間にわたり開催(全国から126名が参加)して民俗学徒の裾野を広げ、「民間伝承の会」を発足させる。また、日本民俗学の方法論を『郷土生活の研究法』として刊行。さらに、機関誌『民間伝承』を発刊する。昭和11年、全国で昔話の採集を開始。その翌年、今度は全国海村生活調査を開始している。

 山村調査については、柳田は大正7(1918)年、郷土会で実施したことが一度あった。神奈川県のある山村を実地調査したのだ。しかしこれは見事な失敗に終わっている。典型的な「日本の農村」(分かりやすく言えば、テレビの「水戸黄門」が描く世界か)ではなかったのだ。稲作中心ではなく、村民も排他的であった。柳田らの「日本民俗学」が何なのかがわかる。山村調査とは現実を調査し分析するものではなく、あらかじめ想定された事柄をただ確認したり、仮説を「実証」する「事実」を「発掘」することだったのだ。

 今度もそうだったとは言わない。柳田の弟子たち、あるいは会員たちが実際には行ったのだから。しかし柳田は周到であった。何をどう質問し採集するかをこと細かく規定していた。自分の「意見」を交えず、「事実」だけを記録しろと(そのために「郷土生活研究採集手帳」というものが作成され、配付された)。柳田の民俗学は、この膨大な採集記録を前提に成り立っていた。

 柳田の方法論は「重出立証法」と呼ばれるが、厳めしくそう自称しただけで、要は「比較」研究に尽きた。それが最も成功したのが『蝸牛考』(1930年刊)である。かたつむりの呼び名を全国で組織的に採集し、その言葉が文化の発信地・京都からいかに地方へ広がり変貌したか、また残存したかを実証的に解き明かした研究だ。しかしこんなにうまくいったのはこれだけとも言える。それに、「郷土研究」を唱える柳田が、文化の伝播を「都(中心)から鄙(周辺)へ」の一方通交だけで説いたのは薄情であったとも言えよう。

▼「常民」の「日本民俗学」の論理と運命

 柳田の「民俗学」には、やはり何か別目的があったように思えてならない。それは「日本民俗学」と呼ぶより「日本民族学」がふさわしいように思う。“日本民族”がことさら言挙げされる時代に違和感を持ち、もう一つの“日本民族”学をめざしたに違いない。学問を越えて、柳田の「政治」感覚が見え隠れする。だが、その試みは成功したのだろうか。柳田は“日本民族”学と“日本民族”主義との間にいかなる差異を保つことができたであろうか。

 若干、註を入れよう。柳田自身は、外に向かう「民族学」を今は措き、内に向かう「民俗学」を選択する意義を呼びかけている。だが、これはあくまで日本語の問題であって、「民俗学」がそのまま「フォークロア」ではない。筆者が前段で述べたかったことは、柳田がめざしたのは言葉遣いとは裏腹に「フォークロア=民間伝承の学」ではなく、むしろ日本人の「エスノロジー=民族の学」の探究ではなかったか、ということだ。

 さて、『民間伝承論』や『郷土生活の研究法』で民間伝承の三分類が説かれている。外見から採集可能なもの、言葉から採集可能なもの、そして生活意識や心意など同郷人をして初めて採集可能なものである。信仰などに関わるその最後の領域は「同郷人」にしか分からない、「外人」には理解できないと述べている。ここで言う「外人」とは異郷人ではない。文字通り、外国人のことなのだ。つまり、各地方の日本人のことは同じ日本人にしか理解できないということを回りくどく言っているのだ。

 ここから、世界民俗学(民族学)の前にまず「一国民俗学」をという発想もある。確かに当世流行りの無分別の「市民」や「人間」はいかにも安易だ。だが、ここで柳田が述べていることは、「日本人なら日本人のことが分かるはずだ」というトートロジーなのだ。これが果たして「日本人とは何か」という問いへの正しい答え方なのだろうか。

 実際、日本民俗学は山村調査などを通して何を採集したのだろうか。「最終戦争」の最中、何を見ていたのだろうか。普通の農民=「常民」こそが植民地戦争の直接の担い手であったにもかかわらず、「戦争」も「植民地」も見ていなかったことは確かだ。すなわち「現実」は民俗学の対象ではなかった。先ほど郷土会の山村調査を皮肉ったが、やはり柳田たち民俗学者たちは「聖なる農村」「聖なる農民」しか見なかったのだ。理想に描いた「日本」「日本人」(これが戦後、宮本常一によって「忘れられた日本人」として語られる)というあらかじめ用意した答えだけしか見つけない学問、それが「日本民俗学」の核心だったと、ここでは言わざるを得ない。

 柳田は自ら「民俗学」を狭隘な道に追い詰めたように思う。自己は他との関係の中にこそ見出される。山人民俗学というやや変則的な形を取ったが、以前の「植民地政策学」(内部と外部が入り組んだ世界)の観点からは「多様な日本」(例えばイモ文化も持つ日本)こそが日本のありのままの姿であったはずだ。それが時代に重ね合わされ、コメ文化を固守する「単一民族」としての日本人、つまり「常民」が日本人としてあらかじめ規定されるようになる。自制的に「植民地」(外部)について語らないできたことが、ここでかえって裏目となってしまったように思われる。

 それでも柳田は時代に抵抗する。「伝統」ではなく「伝承」を研究しなければならないと講演し(1937年「伝統について」)、国民や日本ではなく、「常民」や「郷土」という言葉遣いに固執する。だが、彼は各「郷土」文化に「日本人」「日本民族」固有の共通要素を見出して、あるいはそれを見出すことが「日本民俗学」であることに満足するのである。そうして愛郷心は愛国心に転化、吸収されていく。空転していると言わざるを得ない。起源問題を語らなくなった柳田は、すでに着地点を見失っていたのだ。日本帝国と同じところに落ちていくしかなかった。

▼アトランティス大陸とムー大陸

 ナチスの時代となったドイツの「フォルクスクンデ」(民族・民俗学)はどうなったであろうか。ナチスはドイツ=ゲルマン民族の起源を世界中に探索する。それが「フォルクスクンデ」の重要な使命でもあった。そして、ついにドイツ民族の原郷として見出された一つがアトランティス大陸だった。ノアの洪水に比すべき大陸水没の危機の後、生き残り混血せずに「純血」を守った唯一の人種がゲルマン人だと主張するものだ。ナチスドイツはオカルト帝国でもあった。「ドイツ民俗学」はこれを担うオカルト政策学として強力に機能する。

 一方、日本帝国が支配するミクロネシアがある太平洋には、オカルティスト(ご都合神秘主義者)たちにより、日本民族の原郷としてムー大陸が見出されていた(ムー大陸のネタ本の翻訳には、ジュネーブのあの藤沢が関わっている)。これに直接賛同するものではないが、柳田の弟子たちも緩やかには帝国日本に協力していたと言ってよい(例えば、岡正雄は参謀本部嘱託、陸軍中野学校教官、大東亜共栄圏の民族調査のための「民族研究所」所長という履歴だ)。

 少なくとも、満州など植民地への移民(麗しき「故郷」を求めての「分村」運動)は「日本民俗学」が促進したという側面は否定できない(郷土会系の石黒忠篤や早川孝太郎らが活躍した)。また、そこ(日本民俗学)は、生き残った左翼主義者や自由主義者たちの「内的亡命」地としても機能した。いや、問題は民俗学だけがということではないだろう。

 日本帝国が幻想した「大東亜共栄圏」とは、戦争ばかりか、日本人の壮大なフィールドワークの場でもあった(柳田の講演「日本の民俗学」の結語を見よ)。日本民族の起源探究、日本文化研究の場としてそれはあった。そこには民族学者ばかりか歴史学者や社会科学者、転向左翼主義者、もちろん民俗学者も加わって、「フィールドワーク」を行っていた。戦後の日本考古学、日本古代史、日本人起源論はもちろん、社会科学さえも、ここでの「研究」の上に成り立っていたのである。

(五)1945〜1962年 敗戦から死去まで(70〜87歳)

▼敗戦・占領を生き延びた日本民俗学

 柳田は敗戦をいかに迎えたのか。興味あるところだが、不詳だ。日記には「八月十五日 水よう 晴。十二時大詔出づ、感激不止。午後感冒、八度二分」とだけある。柳田は、近所に住む貴族院議員の長岡隆一郎から聞き、15日の終戦を知っていたようだ。11日の日記には「時局の迫れる話をきかせられる。(略)いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」とある。

 アメリカ占領軍が進駐したとき、柳田に果たして「不安」はなかったのだろうか。戦時中、「無害」あるいは協力的な学問として日本帝国に公認されていた日本民俗学をアメリカ占領軍はどう裁断するか、心配しなかったであろうか。柳田と帝国との近さは枢密院(天皇の最高諮問機関。1947年廃止)最後の顧問官への任官(1946年)にも表れている。だが、占領軍は日本民俗学・民族学を、天皇と同様に占領政策にむしろ活用することに決めた(GHQの民間情報文化局に、岡正雄、石田英一郎、関敬吾らが勤務した)。

 老年の柳田(70歳)自身は「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」の言葉通り、戦前と変わっていなかった。いやますます意気軒昂としていた。昭和21年、戦争中に書いていた『先祖の話』をそのまま上梓する。すでに「常民」としての日本人像は柳田の頭の中で揺るがぬ姿となっていた。氏神信仰研究を発展させて、その中核として取り出したのが、この著作のテーマである家単位の祖霊信仰だ。柳田は、例えば墓石を採り上げて、古くは家単位の「先祖代々之墓」しかなく、個人単位の墓石出現は明治になってからのことだと述べ、ここに日本人の長い伝統と信仰を読み取っている。

 だが事実は、古いはずの「先祖代々之墓」は柳田の思い込みに過ぎず、それは早くても明治20年代以降に明治人が始めた新しい「伝統」だった。それまでは正反対に個人や夫婦単位の墓石が普通だったのだ。この小論でも先述したように、「家」制度も「母」も私たちが持っている観念は近代の所産である。古代や中世が近代に直結していることはまずない。天皇制の諸儀礼、初詣や成人式が近代の「伝統」であるように、柳田の「日本民俗学」も近代明治の所産であったと言えよう。

▼遺作『海上の道』の意味するもの

 柳田は昭和21〜22年にかけて「新国学談」三部作を刊行している。日本民俗学は新しい国学だと主張するのだ。「国学」とは本居宣長らを復古することではない。国学と言う本旨は「漢意」以前、すなわち中国文化などが流入する以前の原日本を探究することにあった。近代以降の日本においては、同時に「欧米化」以前を追究することでもある(戦後占領の時点ではアメリカの占領政策への牽制を含む)。戦前から続く、柳田の国語への関心もここにある。柳田はやはりナショナリスト(民族主義者)であった。

 ここで指摘しておかなければならない重要なことがある。固有の「日本」という発想だ。「民族」や「国家」概念は近代の所産だが、その祖型が古代に求められる。例えば「縄文人」や「弥生人」、また「邪馬台国」や「大和朝廷」はそういうものとしてある。固有の「日本人」というものがあってこそ初めて、その起源や原郷も探究可能となるのだ。柳田の遺作『海上の道』が意味するものは、単に稲とその信仰を持った日本人の南方からの渡来を説いたということではなく、「日本人は初めから日本人であった」というトートロジーの完成なのである(遡れば、明治時代に始まる邪馬台国論争もこれを共通の前提としていた)。

 『海上の道』を遺して柳田が没し数えて10年目の昭和47(1972)年、敗戦以来アメリカによる占領・統治が続いてきた沖縄が日本政府に返還され(本土復帰)、再び沖縄県に戻る。何度目の「琉球処分」であろうか。語られることは少ないが、「内なる植民地」であるが故にそれがくり返されてきたのだ。柳田は『海上の道』に収められた論考を、昭和25(1950)年以来書き続けていた。その翌年は対日本講和・日米安保の二つの条約調印の年であった。そこには沖縄占領の継続が含まれていたのだ。

 柳田は最後の「政治」を実行していた。沖縄を、固有の「日本」の一部分として国内外に主張していたのだ。柳田ら日本民俗学者は沖縄を「南島」と呼ぶ。これはどこから誰が見ての「南島」か。すでにこの言葉遣いの中に沖縄への視線が定められている。ともあれ、柳田は往年の例の「椰子の実」の逸話も引きながら、「日本人」の中国南部からの移住(移民)、すなわち「海上の道」を指し示す。くり返すが、柳田の「日本人」は南西諸島および日本列島に着いてから「日本人」になったわけではないのだ。

▼小日本主義としての日本「単一民族」説

 戦前と断絶していないのは一人柳田だけではない。根本転換のかわりにただ「戦後」という万能語を冠するだけで、占領軍の軍国主義断罪とレッドパージの両方をくぐり抜け、民族主義思考に染まった「戦前」は復活する。例えば、右翼歴史学者・津田左右吉の学説を継承する左翼「戦後歴史学」がそうだ。皇国史観に異論を唱えたために帝国の指弾を受けたことを「免罪符」に、津田の本意に反する姿で取り出して「津田史学」と持ち上げた。

 津田史学は紀記批判の必要性を説き、神話をそのまま歴史叙述とすることは間違いとした。戦後歴史学はそれを受け継ぐことから出発したが、結局紀記の切り刻み直しを行なったに過ぎず、紀記に依拠する体質は不変だった。そして何よりも、固有の「日本人」が前提になっている。また、戦前に拡張された領土は固有の領土ではなかったから切り捨てられて当然という戦後的な思考は、裏を返せば「日本列島は固有の日本の領土としてある」という思考であった。

 前にも触れたが、「大東亜共栄圏」は日本人が来た道を逆展開してたどる一大フィールドワークであった。北海道・樺太、満州・蒙古は北からのルート、朝鮮半島は日本人が列島へ至る回廊として、そして南西諸島、台湾、中国南部は南方ルート、中国奥地は東南アジアやインド西部からの経由ルートとして、さらに太平洋のミクロネシアは「ムー大陸」水没後の痕跡として見出されていた。

 戦後的思考の代表とされ、その半島ルートを採り上げた江上波夫の「騎馬民族渡来説」(1949年発表)も、そんな戦前「民族学」が行なってきた研究成果の上にある。戦後、「日本民族学」改め「(日本)文化人類学」を立ち上げたのは、岡正雄、石田英一郎らだった。江上はその仲間だ。これはアメリカによる日本占領を古代に転位させると同時に、ほんの4年前までは日本帝国が「征服していた」半島の位置づけを逆転させ、固有の日本が半島から「征服された」国だったことへ認識置換させる、言わば戦後的トリックでもあった。

 「騎馬民族渡来説」の翌年、柳田の『海上の道』収録の第一論考「宝貝のこと」が発表されている。これで南北両ルートからの日本人起源説が出揃った。固有の日本人は征服されたか、平和的に移民したのだ。どちらにも日本人からの戦争も侵略もない。そして列島こそ日本固有の領土だったのだ。さらには、近年の「縄文文化論」こそ、究極の民族主義言説と言わざるを得ない。なぜなら列島は約1万年前から日本人のものだとするものなのだから(断じて縄文人は「日本人」ではない)。これが、戦前から戦後、そして今も続く「永遠の日本人」という「近代の神話」だ。日本人はかくして、列島に住む「単一民族」として構築されてきたのである。

▼「帝国の遺産」と柳田の晩年

 戦後左翼理論の金字塔として丸山真男の政治学と並び称される、大塚久雄の経済史学も、戦前の植民地政策学の上に成立している。その系譜は植民地経済学者・福田徳三および新渡戸稲造から矢内原忠雄へのラインでつながる。大塚の記念碑的著作『共同体の基礎理論』(1955年刊)には、植民地の後進経済状態を分析した福田の影響が色濃い。そこでは「アジア的共同体」を近代化に向かう最も原始的な形態として叙述してある。「脱亜入欧」の日本近代化プロジェクトはここにも貫徹していたのだ。

 それから、満州建国とその経営は「近代国家・社会はいかに創られるか」という壮大な実験であった。そこには戦後日本を領導した国家官僚(例えば、首相となった岸信介)、社会科学者や科学技術者たちが蝟集していた。戦後日本は彼らおよび彼らの遺産によって復興したのだった。戦後経済計画もそういったものの一つだ。NHKテレビの「プロジェクトX」は主に高度成長期のヒーローたちの物語に仕立てられているが、新幹線開発が零戦飛行機技術者の戦後の仕事であったように、戦後日本とは「帝国の遺産」によって成り立っていたのだ。

 柳田は昭和22(1947)年、自宅の一部を提供して「民俗学研究所」を発足させる(翌年に法人化)。昭和24年には「民間伝承の会」を改称して「日本民俗学会」とした。ここで柳田はようやく名実ともに「民俗学」を名乗ることを自らに許したのだ。昭和26年、文化勲章を受章。77歳であった。翌27年、米軍による占領は終了する。だが、晩年は満足とは言えなかったようだ。昭和31年、その活動を不満として民俗学研究所を解散させている。『故郷七十年』を綴り、遺言として『海上の道』を刊行。『定本柳田国男集』が刊行される中、昭和37(1962)年8月、前半生を見事に消し去り、稀代の学者として柳田国男は満87歳の生涯を閉じた。

(エピローグ)柳田国男とは誰か

 その後のこと、それから語り残した想いを断片的になるが述べてみたい。

▼柳田国男、南島、そして日本人論ブーム

 昭和35(1960)年、旅する民俗学者・宮本常一が『忘れられた日本人』を刊行する。ここに「常民=日本人」は完成されたと言える。それはすでに忘れられ、失われたのだ。こうして「アイヌ」が金田一京助らを介してしか出逢えないように、「日本人」は柳田国男ら日本民俗学者たちを通して発見されるものになっていく。そしてその「起源」は忘れられ、近代日本で創始された「伝統」が固有の日本の伝統として解釈し直されていくのだ。

 戦後、新世代によるニッポン発見が起こる。文学者・島尾敏雄は昭和36(1961)年の「ヤポネシアの根っこ」から同45(1970)年の「ヤポネシアと琉球弧」まで、柳田らに刺激を受けながら南島論を展開する。独自の論考を繰り出し戦後思想界を震撼させた吉本隆明も、柳田論を綴りながら昭和45年に「南島論」を発表している。柳田国男は没後ほどなく、「南島」とともにブームとなっていたのだ。

 「南島」の言葉遣いは、すでに指摘したように日本の「内なる外国」として見る視線だ。沖縄は原日本文化の残存地域とされる一方で、対ベトナム作戦で戦う現実の米軍の存在は「内なる外国」として日常的には遮蔽されていた。こうした柳田・南島ブームに続いて、1970年代の日本人論ブームが始まっていることは大変興味深い。そこでは日本人の特殊性が大いに論じられた。これはもう一つの「日本民俗学」ではなかったのか。

▼逆立する柳田像:何が語られ何が語られていないか

 柳田国男はこうして逆立して語られるようになる。民俗学者として死んだ柳田は初めから民俗学者であった。彼の生涯はすべて日本民俗学のために最初からあった。そのために彼自身による自伝的記述『故郷七十年』その他が書かれていた。出生、幼年時代の想い出はすべて後年の民俗学に結びつけられる。そこには日露戦争を近親は軍人として自らは国家官僚として戦い、日韓併合で勲章を受章し、叔父が総督を務める台湾など植民地各地を怪しく経巡った柳田はいない。もとより、戦争協力した日本民俗学は語られることはない。

 柳田自身は何を語り何を語っていないのか。「聖なる常民」や「聖なる農民」の言葉から分かるように、農民(日本人)の持つもう一つの側面、つまり独善主義や排外主義、偏狭さや愚かさが語られていないことは夙に指摘されてきた。また、性が排除されているとも。確かに、例えば『遠野物語』を、同じ佐々木喜善から取材した水野葉舟の「遠野物語」と比較すれば明らかだし、南方熊楠との論争でも性にまつわる記述の忌避は見て取れる。

 だが、これらは真に重要なことなのだろうか。あるいはそれらの隠蔽とは結局何を意味するのだろうか。つまり柳田によって本当に隠されたこととは一体何なのだろうかと問うべきだろう。それは、戦争や植民地を含めた、時代を丸ごと生きた日本人の現実の生活だ。そこにこそ、醜い農民の姿も日常の性という営みもある。柳田そして彼の日本民俗学は「政治」を隠蔽、あるいは忌避したのだ(それが彼の「政治」だ)。現実を見ないから、理想的な日本を描くしかなかったとも言える。柳田の民俗学自体が孕み持つ理論的矛盾もそこに起因している。

▼帝国抵抗者の「帰順」先としての日本民俗学

 明治以降の近代は日本人にとり初めての「政治」の時代であった。帝国が進める政治、その展開として幾多の戦争や植民地政策があり、これに抵抗する自由民権、社会主義、マルクス主義など行動的な左翼運動が起こっては弾圧されてきた。一方、もの言わぬ多くの国民は農耕などに労働し、時には戦争に従軍し、貧しい暮らしの中、幽霊や妖怪、怪談や伝説、超能力やオカルトなどに逃避してきた。

 柳田はもともと国内が分裂するような政治的対立を好まなかったように思われる。資質的なものもあるだろうが、やはり国家のトップエリートとして出発したことが大きいだろう。植民地での「旧慣保存」の主張、「山人」やアイヌや沖縄の擁護は、決して弱き彼らの側に立つものではない。そうではなく、保護者、言わば「親権者」としての「救済」姿勢なのである。国内についても同じだ。

 日本民俗学は、帝国への抵抗者が「帰順」する場所、「転向者」の受容先としてあったのだ。すべての「日本人」が共有できる場所としてそれはあった。だから、政治的対立なぞあり得ないのだ。事実、「日本民俗学」は1930年代、マルクス主義と同時代の「運動」として組織・構築された。そして、転向者や左翼主義者たちが「内的亡命」する場所として実際にそれは機能し、彼らも「帰順」して帝国の戦争に協力したのだった。

▼アジアに残された「民族」の課題

 日本人単一民族説を分かりやすく批判しておこう。日本人の顔の多様さが何よりそれを証明している。その多様さは、よく言う「縄文系」「弥生系」だけではとても説明できない。朝鮮人、中国人、モンゴル人に似た顔立ちのほか、東南アジア系かと思う顔もある。これは多様な混淆を物語るものだろう。日本人には単一の原郷なぞなく、長い時間をかけていくつもの民族が列島で出逢い、徐々に「日本人」が形成されてきたのだろう。

 また、「民族」の内容は同一性を保持し得ず、変化し消長する。「ユダヤ民族」がその代表例だろう。ユダヤ教を信仰するということ以外、歴史的に彼らの同一性は何ら担保されていない。「アラブ民族」もイスラム教によって形成されたものだ。このことはアジアの中国人や朝鮮人にも言える。今も「中国民族」は存在しないし、その中核を成す「漢民族」も歴史的に見れば同一ではない。「高句麗人」と今の朝鮮人は果たして同一だと言えるであろうか。

 歴史的な国境もそうだ。近代欧米列強によって画定された中近東やアフリカ大陸、南北アメリカ、アジア内陸部の国境はもちろんのこと、さらに言えばヨーロッパ大陸内の国境すら、「民族」の居住領域とずれがある。筆者は、近代国家や民族を否定するものではない。ただ「永遠の民族」という概念が近代的な「神話」であり、それを振り回すことは危険なことだと述べているのだ。近現代においては、近現代の「民族」と「国境」しか存在しないのだ。

 「純血」は近代的な嗜好であるが、自己矛盾的に表現される「在日韓国人・朝鮮人」「中国残留孤児」もその鬼子である。民族と、近代国家や国民は本来矛盾しない。「民族国家」であることが矛盾するのだ。現実には自民族の国家に住まない人々はごまんといる。国家を持たぬ民族も多くある。「日本人の子どもは日本人である」「韓国人の子どもは韓国人である」というトートロジーは、実は何も語っていない。日本の原郷探しと同様に、循環論法に過ぎないのだ。近代とは、自分の尾を呑み込もうとするウロボロス的世界だと言えよう。

▼万華鏡としての柳田国男

 長々と柳田国男とその周辺を論じてきた。筆者が述べたかったことの一つは、柳田は「民俗学者」ではないということだった。彼が規定したものが、日本人に許された唯一の「民俗学」ではないのだ。こうして柳田と民俗学を解放しておいて、柳田を別の角度からながめるとき、柳田の膨大な著作は近代日本の尽くせぬ宝庫として再び輝き出すだろう。あたかも万華鏡のように、のぞき込む度に少しずつ違う柳田が浮かび上がる。筆者ももう一度のぞけば、また別の柳田像を描くに違いないのである。本論はそんな柳田万華鏡の一つに過ぎない。

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