▲
mansongeの「ニッポン民俗学」についての自註
- 筆者は一好事家です。うそ・いつわりを申すつもりは毛頭ありませんが、結果としてそうなる可能性もあります。その節には皆さまのご厚情をもって、ご指摘・ご指南いただければ幸いです。
- すでにご明察のことと存じますが、筆者の「民俗学」とはごく手前勝手な言い回しであり、学問としての民俗学とは似ても似つかぬ代物であります。したがいまして、ふつう民俗学という場合の範囲や角度とは異なることがしばしばあります。
- テーマは「ニッポン」です。ニッポンとは「日本」というものの定義を一時保留する意味で用いています。主として、社会的な精神文化を中心に論を展開します。哲学や思想といったインテリレベルに留まった文化ではなく、宗教信仰や民俗文化といった民衆レベルや生活レベルにまで浸透・拡散した状態の精神文化をメイン・フィールドとします。
- 題して、ニッポンの「深層民俗学」を標榜します。
- 以上のようなものなのですが、「それがいい」とか「それでもいい」とかお思いの方に最適化された内容となっておりますので、あらかじめご承知おき願います。
萬遜樹識す
- メルマガ「ニッポン民俗学」(No.049)の前書きより
今号から新たにご購読の方々もいらっしゃいますので、改めてお断りしておきますが、私の「ニッポン民俗学」は学問として期待される「民俗学」では必ずしもありません。それどころか、たいていはそこからはずれていることでしょう。では何故に「ニッポン民俗学」と称しているのか。
歴史学のように文献などの「物証」によるでもない、思想史のように一部突出した先覚者によるでもない、日本人だれもが基底的に共有していながら語り得ぬもの、あるいは語らずとも当然のこととして前提としている何かを自覚的にたぐり寄せようという試みを、私は「ニッポン民俗学」と称しているのだと思います。
ありていに言えば、約束事にしばられずに、縦横に「日本人とは何だろうか」を問うてみたいのです。そしてそれは自分自身への問いでもあります。そういうごく個人的な探索ノートが、実はこの「ニッポン民俗学」に他なりません。あらかじめ、あるいは改めましてご承知おき願います。
(2000.10.29記)
- メルマガ「ニッポン民俗学」(No.052)の前書きより
浅学非才のため勉強の度に私の見解は、毎号毎号、揺れております。あらかじめ、ある一つの考えに基づいて書いている
わけではありません。すでに発表しました論とは、一つ一つ別論としてご理解頂きますようお願い申し上げます。
(2001.01.16記)
- 「典拠文献」という言葉について
一般的には「参考文献」という言い方があります。しかし板倉聖宣氏によれば、これは〈読者のための参考リスト〉という意味で、決して〈筆者が述作のために参考にした文献〉という意味ではありません。後者の場合は、正しく「典拠文献」というべきだ、と述べられています。
そこで、私に霊感を与えたくれた書物たち(早い話が大胆にもネタ本)を[主な典拠文献]として掲げています。それぞれの著作への「典拠度」は様々です。しかし萬遜樹風にイイ所取りだけして、あるいは勝手読みをして、本旨をたいへんねじ曲げて「典拠」しているような気がしており、たいへん申し訳なく感じております。
それなのに、ただの「参考文献」だと言うのはまことにおこがましい限りで、よって「典拠文献」とさせて頂いております。
(2001.01.30記)
- 「主な典拠文献」から「主なネタ本」へ
これまで「典拠文献」として表記してきた言葉を、本日より「ネタ本」というより直截的なものへ改めます。「ものぐさ本舗・第9号」では著作権について述べましたが、そこで次のように自ら発言しました。
そもそも、言語がそうであるように「オリジナル」概念は近代的倒錯である。受容なくしてなんぴとも言葉を発し得ないように、「独創」とは「伝統」の再編集・再励起に他ならない。独創を貶めたいのでなく、オリジナルや独創とは決して「無」からの産物ではないということだ。そしてその論理的な帰結を極言すれば、著作権が主張される「オリジナル」とは、実はその「イデア」を特定できない、言わば「盗作」や「剽窃」であり、伝統的に言えばミメーシス(模倣)なのである。
私は自身の文章を少なくとも「創作」なぞと思っておりません。「オリジナル」を意味する場合の「著作権」はあらかじめ放棄しております。あえて申さば「ミメーシス権」を主張します。まさにそこに列挙する「ネタ本」によって、私の文章はあります。
(2001.07.20記)
Copyright(c)1996.09.20,TK Institute of Anthropology,All rights reserved