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mansongeの「ものぐさ本舗」第6号
インターネット時代の著作権---デジタル複製技術と「オリジナル」の運命
(一)
ワイマール期のドイツを、ひた寄せるナチス軍靴の音を聞きながらパリへ脱出し、フランクフルト社会研究所の共同研究員となったユダヤ人批評家ヴァルター・ベンヤミンが書き上げた『複製技術時代の芸術作品』(1936年)は秀逸な大衆芸術論ではあるが、残念ながら私たちのインターネット時代の著作権問題には通用しない。
とは言っても、もとより同書は「著作権」に関する書物ではない。それは、近代まで王宮や美術館などに礼拝・展示されるものとして、いまここにしかない「アウラ」(「オーラ」だ!)を発して複製不可能な唯一品だった芸術というものが、19世紀から20世紀になり複製が可能な大衆芸術へと変貌していく意味を探る書物である。実は、私がここで述べたいことはベンヤミンとは直接には関係ない。ただ、その「複製技術時代」という言葉がいやに耳に残り、本稿の書き出しに引いている。
そもそも芸術ということで言えば、古代ギリシャ時代まで遡ると、「芸術」は本物に対するミメーシス(仮象)のことであった。真正品(現実)に対する、それを写し取った模倣・模造品(劇や詩など)こそが芸術作品であった。つまり、芸術とは模写や再現(言わば「複製」だ!)だったのだ。これは光(プラトンのイデア)に対する影の関係である。
そして中世の美はイデアに替わり神よりいずるものとなったが、ルネッサンス以降の近代芸術概念はこれらを承けつつも、ある変換を行なった。すなわち、真実在(イデア)や神の美に対する模倣としての芸術を、天才(独創)という「個人」(人間)が生み出し得る、また生み出し得た真正品とした。ここに芸術作品自体がアウラを発する近代の芸術というものが可能となる。
(注)このあたりの美学についての記述は、多分に文脈に沿うように歪曲していると思う。真正品を求められる方はご注意を。
ベンヤミンが「複製技術」の言葉で述べたのは、とりわけ写真と映画に関するものであった。写真や映画は、実在の人物や風景に対する単なる模倣・再現ではない。とりわけ、それらが芸術作品であると見なされるときには、フィルムがアウラを発する真正品であり、そしてそれらは複製が可能なのである。つまり、芸術はついに模造(影)を越えて、本物(光=アウラを自身で発するもの)を大量に複製することが可能になったのである。
しかしながら、古典貴族主義的とでもいったものの見方をすれば、芸術品は唯一の「太陽」ではなくなり、いつでも誰の前にも(これが「大衆」である)遍在する「電灯」のような普及品に成り下がったのである(これらの価値比べは本稿の主題ではない)。
(二)
さて、ここからが言わば本論である。ベンヤミンが見通したことは、私たちの言葉で言えば「アナログ」複製である。だから、アウラを発し真正品であるはずの写真や映画のフィルムもいつか摩滅するし、実はその複製品(現像フィルム)は厳密には一つ一つ別物である(全く同じ現像を行なうことは不可能である)ことを私たちは知っている。
それはともかくとしても、近代の所有・財産権の一つである「著作権」はこの複製技術を前提としている。「オリジナル」が「本物」として複製され、それが商品となって流通する。その先駆は活版印刷という技術によって複製可能になった「書物」であり、特に芸術ということでは「文学作品」であろう。複製技術によって大量複製が可能となってこそ、著作権という所有概念が有用となる。
私たちの時代は「著作権の時代」であり、書物、音楽、画像などがその代表物である。そこで間歇(かんけつ)泉のように吹き出す「盗作」問題とは、著作権という近代パラダイムの中での出来事であり、複製技術時代以前にはミメーシスという変奏にすぎなかった。そして、時は21世紀を迎え(ベンヤミンからまだ100年も経っていない!)、新たな「複製技術時代」に入ろうとしている。それは言うまでもなく「デジタル」複製の時代である。
ベンヤミンの筆をあえて借りれば、それは芸術作品のアウラが完全に複製可能な時代である。デジタル技術では摩滅や誤差は理論的にはなく、完全なるクローンとしての複製が可能である。「オリジナル」を完全に複製することが可能になり、本物と複製物という区別がなくなったのだ。事実、私たちの時代にこそ「著作権」は動揺している。さらに、そのデジタル・データがインターネットという情報網によって、世界中で複製(コピー)可能となっている。ここに筆者は「オリジナル」や「著作権」概念の消滅点(バニシング・ポイント)を垣間見る。
そもそも、言語がそうであるように「オリジナル」概念は近代的倒錯である。受容なくしてなんぴとも言葉を発し得ないように、「独創」とは「伝統」の再編集・再励起に他ならない。独創を貶めたいのでなく、オリジナルや独創とは決して「無」からの産物ではないということだ。そしてその論理的な帰結を極言すれば、著作権が主張される「オリジナル」とは、実はその「イデア」を特定できない、言わば「盗作」や「剽窃」であり、伝統的に言えばミメーシス(模倣)なのである。
(三)
では、私たちのインターネット時代において、オリジナルや著作権というものはどうなっていくのだろう。すでに述べてきた通り、近代のアウラ論(真贋や盗作問題)とは芸術論ではなく、商品となった「芸術」の財産権・所有権問題である。ここにはルネッサンス以降の常識である、芸術を創造する「個人」というものが前提とされている。しかし、デジタル技術はより直接的な再創造(モンタージュやコラージュという手法なぞ、この典型だ)を可能とし、当の著作権自体をも瀕死寸前に追いやる状況を作り出している。
ナップスターというインターネット企業をご存知だろうか。全世界の各個人が所有しているデジタルの音楽データを相互交換する集中型ネットシステムを作り上げたが、CD会社などから訴訟を起こされた企業だ。結局、敗訴し、今では手のひらを返して著作権付きの音楽データ配信システムを構築している。挫折したとは言え、この企業が試みたことは「オリジナル」複製品の著作権を霧散化することであった。その意図の存否にかかわらず、モダンへの挑戦であり、ポストモダンへの跳躍であったのだ。
判決によって抹殺されたはずの、近代著作権を破壊するデジタル複製システムは生き残っていた。それは、グヌテラ系と呼ばれる、ほぼ追跡不可能な分散型ネット交換システムである。このグヌテラ系のソフト自体が、使用自由(著作権フリー)の脱近代(ポストモダン)的な代物である。巨大なMS(マイクロソフト)のOS(オペレーション・システム)帝国の牙城に、いまや迫ろうとしているLinux-OSには著作権を主張するような「作者」はいない。
時代は再び、ミメーシスに戻ろうとしているのだろうか。繰り返すが、近代著作権は「個人」が創り出した「オリジナル」を前提としている。これに対してLinux-OSなぞは、幾人もの作者たちが相互に模倣・再創造し合って作り上げているものである。それには「完成」すらない。これはあたかも古代芸術である。例えば、我がかぐや姫の『竹取物語』は何人かの作者たちが先行したテキストに次々に加筆・修正して出来上がったものなのである。著作の共同性、これがインターネット時代の常態となろう。
WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)のインターネット世界は、よく「電脳」と訳される通り、私たちを「世界脳」のニューロン(脳細胞)一つ一つとしてつなぎ合わせる装置である。それが「著作物」を創造するのである。「私」なぞという「個人」が主体なのではなく、「共同電脳」が何かを創造しようとしているのだ。そこには、もはや「個人」や「オリジナル」はなく、また「贋作」や「盗作」も存在しない。
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Copyright(c)1997.07.27,"MONOGUSA HOMPO" by mansonge,All rights reserved