★会員制ML[マンソンンジュくらぶ]に不定期連載中

萬遜樹的生活---本のある風景



(1)濫読

 私の生活は、濫読の中にある。読書なのだが、系統だった読書ができた試しがない。だから、濫読となる。
 「ものぐさ本舗」に読書ノートを作っているが、もちろんそれがすべてではない。そこに載せることが憚られるたぐいの読書を省いているわけでもない。うまく読書ノートとしてまとめることができないだけにすぎない。

 そうなのだ。近頃、時間的に断続した読書をすることが多く、一本の心象としてうまく記憶に残らないのだ。そしてそういう本の内容は片っ端から忘却してしまう。私ほど、ほんの少し前に読んだ本の内容をきれいさっぱり忘れてしまう人間も珍しいだろうなと、我ながら思ったりもする。

 私の読書の楽しみは、一つの本が次に読むべき本を指し示す瞬間だ。あ、次にこれを読もう、と思うときだ。いく店か書店を探しめぐりその本を見つけ出したとき、あったあった、と隠し埋蔵金発見のように喜ぶ。

 しかしその本が読まれるのはたいてい数年後だ。ひどいときは十年後であり、そうして仕入れられながらも未だに読まれていない本も相当に残っている。ふと、図書館で見つけられた本は読まれ易い。期限付きだからだ。

 先日、カール・バルトの評伝評論を読んだ。現代のキリスト教神学者なのだが、すごくいい。背景知識のない方には大変申し訳ない書き方だが、バルトという人物は西田幾多郎の弟子・滝沢克己、そのまた弟子であり論敵である八木誠一といった人たちの、言わば「原典」である。

 ここで八木誠一の本を買っている。これを西欧で逆にたどれば、キェルケゴールという19世紀の人物に行き着く。そこでまた、私はキェルケゴールを読むという次第だ。岩波文庫の『現代の批判』を読んで、いま『死にいたる病』の途中である。

 それから、図書館からは『リトル・トリー』という子ども向けの自伝物語を借り出している。これも読書中。こちらはエンデの『モモ』から。と言っても直接ではなく、エンデ好きの方が推薦されていた本で是非とも読みたいと、しばらく書店で探していたのだがなくて、図書館でも「貸出中」であったのだが、先日書架に戻っていたのだ。そこで早速借りたというわけだ。

 「リトル・トリー」とは「小さな木」、チェロキー・インディアンの血をひく著者のインディアン・ネームだ。ここに著者の思い出として描かれている最後のインディアンの生活は、そのまま我がアイヌの生活であり、ニッポン人の世界観である。キリスト教の神(とそこから派生する西欧原理)がいない、「自然」の中の、自分自身も「自然」である生活がある。いや、あったのだ。(こちらからは何か文章が書けそうかな)
2000.09.01


(2)良書の毒

 実は先日「毒」を飲んでしまった。いや、正確には自分では「良薬」を飲んだつもりだったのだが、飲み過ぎて「毒」となってしまったのだ。読書とは、時にこのように恐ろしいものでもある。それを我が身をもって体験した次第である。

 若い頃ならいざ知らず、今ごろになっても書物の毒に侵されるとは我ながら驚いた。素晴らしい書物を三冊も続けさまに読んでしまったのだ。読書は予期せぬ出逢いである。期待に胸膨らませ読み始めた本にがっかりすることはよくある。別に本が悪い訳ではない。合わないのだ。合わないのは、その書物を私がまだ欲していないのか、もう欲していないからだ。

 驚倒させられたり耽読させられる本は、思いがけずやって来るものだ。書物の価値はあくまで主観的なものである。私たちは、書物の中に自分しか読まないし、読めない。それでもそういう本に出逢うことがたまにある。僥倖なのだ。そんな本に出逢った時は、鼻で分かるものだ。二ページで分かる。そういうとき、この書物が、この贈り物がいつまでも終わらないことを祈りながら読み進めるのだ。

 しかし今日述べたいのは、そんな書物に三冊も続けさまに出逢ったらとしたらどうなるか、ということだ。毒になってしまうのだ。現代人は微妙な精神バランスの中に生活を送っている。いわゆる清濁を併せ呑み生きている。希望と失望を代わる代わる経験して、生きているのだ。失望を重ね過ぎては精神に異常を来たすのは言うまでもないが、希望を重ね過ぎてもまた病となるのだ。


 今回の始まりは、M・エンデ作の『モモ』という童話との再会から確か始まった。これはR・シュタイナーの神秘思想を背景にもつ、現代人の生き方についての批判の書であり、現代人に「目覚め」を促す書だ。次に、カール・バルトについての評伝評論を読んだ。バルトの思想も、生き方についての批判の書である(悪いことに?、そこからキェルケゴールも読んでいた)。

 とどめは、『リトル・トリー』という物語だった。インディアン作家の幼年期(1930年代が舞台)の自伝物語だが、アイヌそっくりの生活心性をもつインディアンの生き方が描かれてある。これも、現代人の生き方を批判する書である。私は「打たれて」しまったのだ。あたかも、イエスにむち打たれるパウロのように!(このような事実は無論ない。しかしパウロの心情を思うと、この表現はいささかも間違っていないだろう)。

 これら三冊の書物に立て続けに出逢ったのは偶然である。いや、もちろんこれこそ必然とも言えるが。いずれにせよ、これら三書は私にとってはメガトン級の「毒気」をもつ書物だった。一瞬、自分が「悪」を拒む「善人」であるという気になってしまったのだ。清濁併せ呑むことを拒否し、「生命の水」だけを望んだ。そうすれば、現実の生活はお仕舞いである。しかし「熱狂」は続かない。もしそれを続けられれば「宗教家」である。

 ある「酔い覚まし」があって、気絶した人が頬をたたかれ気がつくように、ようやく私は我に戻ったのだ。それまでは体術で言うところの「落ちている」状態だった。「夢見」の間、私はバランスを失って「天声」を待っていたのだろう。幸いなことに(?)、「天声」は聞こえなかった。
2000.09.016



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