春日若宮御祭参向記
---ニッポン人の「夜」について(萬遜樹)
2002.01.01

 先日、「春日若宮御祭(おんまつり)・雑考」なる愚考(「ニッポン民俗学」増刊号09=「天神祭とだんじり」に所収)を皆さんにご披露しました。これは私には珍しく「フィールド・ワーク」(現地調査)に基づくものでした。祭の中心日である12月17日の未明(あるいは12月16日深夜と言うべきか)に、春日若宮御祭の「遷幸(せんこう)の儀」と「暁(あかつき)祭」に参向してきました。今年で866回目の祭だと聞きます。

 16日は日曜日で、「よし!行こう」と一週間ほど前に思い立ちました。しかし、華やかな「お渡り式」や、雅楽などが催される「お旅所祭」の月曜日の日中には出社しなければなりません(サラリーマンの辛い定めです)。それでも、午前2時には終わる「暁祭」の後には眠っておくべき(仕事に差し障りがあるといけません)ですので、旅館を素泊まりで予約しました。こうして準備を整えて、出掛けたわけです。

 今年は若宮社がご修繕中であるため、「移殿」(うつしどの:修繕期間中の仮殿)から神列が進発されるという珍しい年でした。見物人にとっては春日本社前で止められて、その奥の若宮社には近づけなかったわけです。ともあれ、私は16日の午後10時30分くらいには森の中の春日本社前に到着しました。すでに数十名の人たちが参道の左右両脇に分かれ並んでいました。

 午後10時半というのは、伶人(れいじん:楽人)による初度(しょど)の「乱声」(らんじょう:神へ出発をご案内する曲)が奏でられる時間です。続いて、11時、11時半に、二度、三度目の乱声があり、ようやく出御(しゅつぎょ)ということになります。闇の向こうからは、神官が伶人に呼びかける大音声が響いてきます。厳冬の深夜にもかかわらず、人々はわずかな明かりを灯しながら、続々と参集してきます。もう、列の後ろ端は見えません。

 11時半ごろには最期の明かりまで消され、あたりは漆黒の闇となり、古代の夜が甦ります。ただ、見上げる星々だけがいつもより輝きを増してキラキラと瞬いています。静粛が命ぜられ、ひらすら神列の登場を待ちます。腕時計の針も見えないのですが、ちょうど17日の午前零時となったころ、社の奥では宮司が神を殿内から神列へお遷しする「深秘の作法」が行なわているのでしょう。

 計れない時間と測れない深い闇の奥から、突如、行列はその姿を現しました。先頭は提灯をさげ、一昔前風の威厳ある制帽・制服・白手袋で身を固めた長身の警邏(明治時代の警官といった雰囲気)でした。そのすぐあとを、四人の神官が二本の大松明を曳き摺っていきます。その跡には平行に伸びるレールのような神道が出来ていきます。松明のあたりだけが明るく、向こう側に立ち並ぶ参向者たちの驚いた、かつ神妙な表情を照らし出していきます。

 その火の道の方に目をやっていると、片方の耳が次に近づいてくる何かを知らせました。神を囲む人垣を作り進む神人たちが、喉を震わせて発っしている低くうなる警蹕(みさき)の声でした。同じく提灯をさげた警邏が先導していますが、手に榊を持った白装束の神人たち十数人の顔々はもう闇にさえぎられてよく伺えません。そこに坐すはずの神と警蹕の音の塊りが赤く聖別された神道の中を宙に浮いているように進んでいく光景はまさに奇跡です。参向者は二拍手一礼し、これを見送ります。

 その次に続くのは、伶人たちが奏する慶雲楽(けいうんらく)という道楽(みちがく)です。十数本の笙(しょう)が合奏して醸し出す清々しくも神々しい音が、神の行幸を参向者ばかりではなく、周囲にひそむ鹿などの動物、さらにあたり一面の山川草木に至るまで触れ回っているようでした。行列はまだまだ続き、御旅所まで付き従う神官、女官、神人たちが目の前を通り過ぎていきました。

 神列すべてが行き過ぎたのち、参向者はその後をぞろぞろと暗闇の参道を歩き、追いかけます。前がつかえては時々立ち止まり、また石段でころばぬように気をつけながら、のろのろと進んでいきます。ようやく森を抜け、あのダ太鼓が待つ御旅所に辿り着いたら、もう午前1時前でした。それまで両側を木立にはさまれた参道を、人波に揺られるように歩いてきたせいでしょう、夜陰に沈んだ御旅所の空間がやけに広々と感じました。

 ゆっくりと断続的に左右のダ太鼓が打ち鳴らされ、その重低音が腹に響いています。宮司が「深秘の作法」を行ない、御假宮(行宮)に神をお遷しします。植松が行なわれ、神の遷座完了が示されます。ダ太鼓を始め奏楽が止み、祭場は一瞬にして静まり返ります。夜空には音もなく煌めく星々が…。「点灯」の一声とともに、闇の春日野の中で四角く切り取られた祭場だけがぽっかりと灯火され、行宮やその前の斎庭に居並ぶ神官たちの姿が明かりに浮かび上がりました。

 午前1時、まるで「星祭り」のような「暁祭」の始まりです。神は人間の賓客と同様にもてなせばよいのです。お出ましご来訪頂いた神にご馳走と歓迎の舞曲を捧げます。再び奏楽が流れる中、三方(さんぼう)に載せた海川山野の御饌や神酒などの御供物がバケツリレーのようにして次々と行宮に運ばれていきます。それが終わると、奉幣、祝詞があり、社伝神楽を巫女が舞います。その後、御供物が下げられ、暁祭は滞りなく無事終了しました。

 私はといえば、午前2時すぎに旅館に入って眠り、翌朝は『千と千尋の神隠し』で異界(ハレ)から戻ってきた千尋のような気分で出社し、日常(ケ)通り勤務したわけです。


 上記のように、厳冬の深夜祭事にもかかわらず、大変な人出でした。しかも、中学生か高校生かと思える、年若い女性ばかり数人のグループが目立ちました(こんなに遅くいいのかな、という感じです)。あとは熟女の方々のグループや若いカップルが幅を利かし、全体的な印象として男性陣は影が薄かったですね。御旅所での暁祭の際、あるカップルの女性が隣の男性につぶやいた言葉が、たまたま耳に入り、深く心に残りました。

 「聞いていたほど、あまり神秘的じゃないわね」。如何ようにも解釈できますが、私の受け取りでは眼前で展開されている暁祭の「バケツリレー」だけを言っているのではなく、先ほど来の遷幸も含めたことについて言っているように思えました。というのも、私自身が参向者たちの態度に辟易としていたからでした。それは、話に聞く昨今の大学や学校でのあり様をほうふつとさせるものでした。

 神列の登場を待つ間、おしゃべりは止むことはなく、灯火禁止にもかかわらず、時折明かりを点ける。また、「必需品」携帯電話での応答や着信メールの確認作業に「神域」はありませんでした。何も若い人たちだけではありません。熟女の方々も同様でした。神列を追っての参道でも興ざめするしかないほどのおしゃべりで、闇の中に潜んでいた鹿たちはこの絶え間ない話し声の洪水をいつまで続くのだろうかと聞いていたと思います。

 「御祭の夜」に限りませんが、現代にもはや「神秘」は存在できないのではないかと思います。例えば、かつて人跡未踏と言われた「秘境」で、いまだにテレビカメラが入っていない所は今後もその価値がない所だけでしょう。時間でも空間でも、立ち入ることが容易ならざるが故にこそ、そこに神秘があるのです。まもなく迎える「元旦」(元日の朝)という時間もかつてはそうでした。昔の子どもにとっては、毎日の夜でさえそうでありました。

 闇や夜には浅さ深さ、つまり「深度」というものがあります。さしづめ、現代において「夜」はどんどん浅くなっているのです。宮沢賢治の描く山野の闇は深く、だからこそ「注文の多い料理店」も存在し得ました。また「銀河鉄道の夜」とは、深い深い夜が生み出した、あるいはそういう神秘な夜の物語です。一般には問題にさえならないことかも知れませんが、時空間の聖(ハレ)と俗(ケ)の喪失や消失(平準化)は、私たち人間、いや日本人の心の変貌です。

 先日、古代漢字学の泰斗・白川静氏の本(『中国の民俗』講談社学術文庫484)を読んでいましたら、「民俗学」についてのすばらしい定義を見つけました。「民俗の本質は、神との関わりにおいて営まれる人間のありかたにほかならない」。また、民俗学とは「神とのかかわりにおける人の生きかたを考えるもの」であると。ニッポンの神は、ご承知の通り、欧米の神とは違います。ここで言う神とは、私たち日本人の「心」(精神)を反映した観念のことです。私たちの神を問うことは、日本人の自問自答なのだと思います。そしてそれが言わば「ニッポン民俗学」なのだと考えます。

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