春日若宮御祭・雑考
2001.12.23


〈御假宮(行宮)〉

 「御祭」(おんまつり)について、自由に考察してみたい。ただその前に、一つだけお断りをしておく。標題のように、本稿は「雑考」にすぎない。なぜなら、御祭総体を考察したものではないからだ。現形態の御祭の考察には、「お旅所祭」すなわちそこで行なわれる珠玉の芸能を欠かしてはならないであろう。しかし残念ながら、それは現在の筆者の手には余る。ここでは、祭の起源・意義・構造などを主として扱いたい。

 御祭とは、春日大社の摂社とされる若宮社の例大祭である。平安末期1136年、時の関白・藤原忠通が五穀豊穣、国家安寧を願って始めたとされる。爾来、間断なく挙行され続けて、今年で866回目だという。現在の御祭は毎年7月1日の「流鏑馬(やぶさめ)定」に始まり、12月18日の「後宴(ごえん)能」まで約半年間執り行われるが、中心祭事は12月15日から18日までの四日間にあり、特に17日の24時間に集中している。

(一)

 あらゆる起源は隠蔽である(これはごまかしという意味ではなく、人間の精神の構造に基づくものである)。2003年には「若宮御出現一千年祭」が予定されている。つまり、1003(長保五)年に春日若宮の神は出現したのだ(社伝によると、ご「生誕」日は3月3日である)。「若宮」とは何か。御子神のことであり、春日社の場合は本社四祭神のうち、藤原(神家としては中臣)氏の祖神である天児屋根(アマノコヤネ)命の御子神としての、天押雲根(アマノオシクモネ)命のことを言う。

 秘伝によると、本社第四殿(祭神はアマノコヤネ命のヒメ神)に小さき蛇の姿で降臨、顕現された。しかし、本社の一隅に間借りするような不遇をかこつ時代が長らく続き、1042年にはとうとう幼童に託宣され、御自らその不満を洩らされ、このままでは御饌(みけ)も食さずとハンガーストライキまで仰される始末であった。ようやく1135年に若宮社の創建がなり、そこに鎮座され(実にご出現以来132年目のご安堵であった)、翌年9月17日、御祭が始まる。

 ここには何が語られているのか。古代的な秩序から中世的なそれへの移り行きである。日本の「古代」とは、政治的には藤原氏専権体制であり、宗教的には神仏が習合していった時代である。社会制度的には荘園制化が進行し、並行してイデオロギーの変態が生じ、ついに上部政治構造が武士政権化する途上が平安後期である。そのイデオロギーとは、紀記神道を通じてなされる中央王権支配からの脱出思想としての「神仏習合」であった。

 奈良時代の東大寺大仏造立に際して、遠く九州より飛来した八幡菩薩こそ、習合神の典型である。平城京に手向山八幡宮として鎮まった後も、平安京を目指して北上し、石清水にも分霊している。神仏習合には多面性があるが、その一つは租税逃れであり、小領主が大荘園へ自らの支配地を組み込むことを正当性するための論理であった。古代的秩序=律令制とはもう一つの「国家神道」であり、神道の宗教論理による収奪制度だったのである(仔細は義江彰夫著『神仏習合』を参照されよ)。

 春日社は藤原摂関家の氏神であり、興福寺もその氏寺であった。しかし時代の進展はそれぞれを独立荘園領主化し、平安中期には比叡山延暦寺や日吉社と同様、都に神人(じにん)や僧兵が強訴(ごうそ)に乱入するようになっていた(南都北嶺の煩い)。とりわけ興福寺は、全国そして大和に広大な荘園を有するれっきとした土豪領主でもあった。しかしそれにもかかわらず、勅祭の春日祭には僧たちの参与は許されなかった。

 春日社(春日大明神)には、第一殿に常陸・鹿島社から飛来した武甕槌(タケミカヅチ)命、第二殿に下総・香取社からの経津主(フツヌシ)命、そして第三・四殿には河内の枚岡社から勧請した天児屋根命とその比売(ヒメ)神が祀られている。つまりいずれも他地から南都に進駐した外来神であったわけだ。そして、それは藤原氏の政治的=宗教的専権支配を象徴するものであった。独立を志向する土豪たる興福寺は、神仏習合の中から生まれた御子神信仰の神を探索する。

 若宮とは、興福寺大衆(衆徒、僧侶集団のこと)が生み出した神である。ご出現から若宮社鎮座までの132年間とは、あくまで神道を主軸に据えて政治を行なう藤原専権体制との闘争史に他ならない。興福寺はついにこれに勝利し、御祭は興福寺大衆の主催の下、創始されたのである。そして若宮と御祭は、何より地元生え抜きの神であり祭であった。地侍(大和士)もこれを歓迎し、やがて彼らは中世には御祭の「願主役」なぞと自称し、その主催者となっていったのだった。

(二)

 次に、春日山は「日の山」であり、御祭は「日の祭」であることを述べたい。春日社は710年の平城遷都に際して、藤原不比等が整えたものである。白鹿に乗りやって来たともいうタケミカヅチ命とフツヌシ命は武神、軍神であり、またアマノコヤネ命は神祇奉祀の神であり、いずれも太陽信仰との関わりは薄い。あると言えば、タケミカヅチ命の出発地・鹿島社が常陸(日立)の地にあるということくらいだ。

 春日山とは標高283メートルの御蓋(みかさ)山のことである。春日社に接する真東の山がそうである。実はこの山頂には、磐座(いわくら)とともに大和日向社(別名、浮雲社)というものがある。こここそが特定時に特定の神官しか立ち入れない禁足地であり本当の神域なのである。これは山宮と里宮という関係とも取れ、南方の三輪山頂に磐座と神座日向社(高宮社)とがある大神社と同じ構図である。「日向」とは「日立」と同じく、日が昇る方角すなわち東(ひむがし)を指す。

 春日山が「日の山」であったことは、その真西に遥拝所があったことからも明白である。これが率川(いそかわ)社である。おもしろいことにはここは大神社の摂社なのである。春日社は神社としての創建はともあれ、古くからの太陽信仰の聖地だったのである。もちろん、今の祭神たちを祀った地なぞではなかった。「アマテラス」とは名乗らない日神。そういう信仰が三輪山にも春日山にもあったのだ。

 日神は山に棲む神となり、またそこから流れ出す川の神、水の神となっていったと思われる。若宮や大物主などに通じる「蛇」はそういう賜物だろう。神に名があり姿形が現れて来るのは、時代が下っていることを示している。古い神ほど、名はなく形もなく、見えない霊(ヒ・タマ)としてただ感得されるだけのものであった。若宮出現は、仕方なく時代的な夾雑(きようざつ)物をまといながらも、春日の本当の神の復活であった。

 若宮はいくつかの貌を持つがその一側面は間違いなく日神である。それは、民俗の記憶の中からつむぎ出され再生されたはずの御祭儀式の諸処に見出される。まず、いかにも奇妙きてれつな伝承である、関白忠通公が御祭当日急病のため、楽人をその日の自らの代理に立て、以来それが「お渡り式」の大行列の先頭を進む「日使」(ひのつかい)だという話である。これこそ典型的な起源の隠蔽である。それはそのまま「日の使い」で正しいのである。


〈ダ太鼓〉
 また、芸能祭礼が行なわれる御旅所に据えられた一対の太鼓の飾りを見るがいい。ダ太鼓というのは高さ四メートルにも達する大太鼓で、太鼓の縁回りに火焔の装飾が宝珠形に大きく広がり、その中に左方(東方)のダ太鼓には双龍が、右方(西方)には鳳凰が配されている。問題は火焔の上端の飾り物である。左方のダ太鼓には日輪が、右方には月輪があり、それらには放射状の光を表すスポークのようなもの(「ひげこ」である)まで付いている。

 イザナギ命が禊(みそ)ぎして、左目から生まれたのが天照大神で、右目から生まれたのが月読命であった。日月のシンボルを用いるのは「日の祭」の常套なのである。各地に伝承されている「オビシャ」(御日射、御奉射)神事は、日のシンボルを射落とすもので様々なヴァリエーションがあるが、その中には日月の的を用いるものがある。また、日月の幟(のぼり)や鉾(ほこ)を立てて行なう「日の祭」も数多い。

 若宮の神の名は奇しくも「天押雲根(アマノオシクモネ)命」である。雲を押し分け出て来る神とは、すなわち日神に他ならないであろう。神が御祭に12月17日午前零時過ぎ、漆黒の暗闇の中をお出ましになる(遷幸の儀)とき、その神列を先導するのが二本の大松明である。神官たちが参道を平行に曳き摺っていき、その跡には残り火で赤いレールのような神の道が出来上がる。これは道を清めるためと言うが、太陽再生神事で行なわれる「旧い日」を焼き尽くす秘儀とも解せる。

 そうして、神列はその残り火だけで示された道を二の鳥居から一の鳥居の方へと向かい、あの一対のダ太鼓が待ち受ける御旅所に逢着するのだ。そこで神は御假宮(行宮・あんぐう)に遷られ、ようやく明かりが灯される。それが最初の祭事「暁祭」(あかつきさい)の始まりである。「暁」とは「明時」(あかとき)であり、まだ夜に属する未明の時間を言う。いかにも「日の祭」の始まりにふさわしいネーミングではないだろうか。

(三)

 古来より、春日社には「春日鹿曼陀羅」という神道絵画群がある。その名の通り、常に鹿が登場する。前述の鹿に乗る鹿島神もここに描かれている。その最も古いものには、背に簡素な神籬(ひもろぎ:神の宿る所)を載せた鹿が描かれ、後方に春日山がありそこから日が昇ろうとしている。これは前述の率川社からながめた春日山であろう。それはともあれ、一本の榊(さかき)にただ幣(ぬさ)を垂らしただけの神籬に目に見える神はいない。しかしそこに確かに坐(ましま)すものこそ神なのである。

 御祭は実におもしろい。祭礼の創始は確かに12世紀のことなのであろうが、その祭式にははるか以前からの民俗神事が確実に流れ込んでいる。そもそも祭とは時間が勝負(言わば「ウルトラマン」出現と同じ論理)なのである。神は一晩で来たり帰る(夜が「神の時間」)とは何度も言ってきたことだが、御祭もその証明をしてくれている。ただし、その間に日中の芸能祭礼が差し挟まれて二夜に引き延ばされてはいるが。

 御祭創始以前の原形に戻して再構成すると、日暮れ(宵)とともに神は不特定のある場所(それがその都度の「御旅所」)に降臨する。そこを竹と縄などで聖別し、中心に依り代として榊なぞを立て、そこににわかの祭場を作る。これを社(やしろ)と言うのである。そのミニチュアが神籬である。祭の本義は神に御饌を進め、直会(なおらい:共食)することである。現状のような「神饌」ではなく、人が食べるものと同じものを捧げていた。そして神は夜明け前(暁)に天に戻った。

 実際、21世紀となったいまでも祭事で死守されていることの一つは、12月17日一日のうちに神を迎え、送り返すことなのである。ただし、「現代文法」に見事に呑み込まれ、午前零時から次の午前零時までと置き換えられてはいるが(神には時刻自体は無関係なはずだ。しかし日中の祭礼を挟むことは御祭創始の約束事だった)。ふだん鎮座の社からお旅所へのお出ましという発想は、御祭創始の時点では仕方がないものであろう(神は本来、社にはいず、天などに坐す)。

 社に定住の神を行宮にどうお遷しするか、これは初め相当な難問であっただろう(神事とは「コロンブスの卵」である)。結局、榊にお移り頂き、これを護持し、祭場である御旅所まで進むことになった。目には見えない神霊をただひたすら信じての神事である。次に、闇の中を進む、目には見えない神の在り処をどう表すか。音であった。神を護持して進む白装束の神人集団が発する警蹕(みさき)は「ヲー」という表記がなされるが、これは喉を震動させて低く呻る普遍的な聖音「オーム」と同じであろう。


〈御假宮(行宮)〉
 最後に、御假宮(行宮)について述べておきたい。行宮はあくまで祭日のためだけの仮宮であるので、当然ながら毎年新しく造られ、祭の後は壊される。ここには本来の祭の姿がある。神が降りた所がヤシロ(屋代)であり、祭場なのである。現在の行宮は、松の黒木(樹皮のついた木材。「白木」は樹皮を剥いだ一般用材)で組まれ、しかも屋根は松葉葺きという一見いかにも古風な様ながら、三角模様の白土を交えた立派な土壁を持つ堂々たる造りの建て物である。そして建築形式もさすがに「春日造り」である。

 10月1日、「縄棟祭」(なわむねさい)の名のもと、この行宮の起工式が行なわれる。松52本と縄52尋(ひろ)でヤカタ(屋形)を組み上げるのである。おそらく、この化粧前のような粗いヤカタこそ、本来のヤシロの姿であろう。そして祭はこの神の宿ったヤタイ(屋台)を持ち上げ、この神を信奉する地域を経巡ったのだ。それを一定の場所に固定させたものがミヤ(宮)である。春日造りとはそういう構造の建て物である。だから、本来は式年造替(遷宮)などは不要だったのだ。

 行宮は「盛り土」の上に建っている。この「モリ」とは何だろうか。神籬(ひもろぎ)としての「森」である。神は森にこそ降臨する。森はやがて樹木に換喩(かんゆ)され、根こじ(根のついたまま掘り取ること)の自然木が依り代として祭場に持ち込まれる。樹木は縮小され、小松や榊などで代替されるようになる。その代わり、神の家(ヤシロやミヤ)が造られるようになり、初めは黒木で、そして白木造りの社へと変わっていたのだ。

 御祭は始まりから「風流」(ふりゅう)の祭礼であることが定められていた。中世以降、ますます風流祭(見せ物としての行列や芸能を多く含んだ祭)が盛んとなり、いまも続く各地の大祭はすべてこの風流の大波を被っている。神事の構造や一つ一つの意義が不明となっていき、不要な神が闖入(ちんにゅう)していたりもする。「お渡り式」の「馬長児」(ばちょうのちご)は「一つ物」(ひとつもの:神の依り代)だと言われる。では、すでに行宮で待つ神とはいったい何者なのだろうか。


(参考)


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