☆★天神祭の構造★☆ 鉾流しと船渡御とウルトラマンと
99.01.27

 天神祭には宵宮祭(前日祭で、今は7月24日)と本宮祭(同25日)というものがあるが、これら二日を合わせて一つの祭りである。宵宮祭のメイン・イベントは「鉾(ほこ)流し神事」であり、本宮祭のメイン・イベントは「船渡御」(ふなとぎょ)であるとよく言われる。これらの意味は何なのであろうか。以下、私淑する折口信夫先生の考察を下敷きに、天神祭という祭りの構造を、ひいては日本の祭りの構造を解明したい。(あらかじめお断りしておくが、以下はあくまで筆者の私見であることを十分にご承知おきいただきたい)。

★神は社にはいない★
 まず言うべきは、神は社(やしろ)にはいない、ということだ。神は人の呼びかけなどに応じて、そのつど降臨されるのである。あたかもウルトラマンの如く。いや、この比喩は正確ではない。ウルトラマンはそのつど宇宙からやって来るわけではなかった。しかしながら、地球人ハヤタの姿からウルトラマン(神)の姿に戻って活動している間のエネルギー(気、霊)は、どうも宇宙からやって来ているような気がしてならない。怪獣を退治したあと、空高くへ飛び去るというエンディングも、「やって来る神」であることを示唆する(注:このあたり、別稿も参照願いたい。→こちら)。

 話を戻そう。神が社にいないとなると、ふだんはどこにいるのか。それは、山の彼方に、海の彼方に、空の彼方に、山の彼方の空遠く…。そう、「彼方」にいる。彼方とはすなわち、あの世、常世、高天原の謂(いい)である。山の常世は蓬莱(ほうらい)山、海の常世は竜宮、空の常世はM78星雲(?)…。ともあれ、神は祭りのときに「彼方」からやって来る。そして祭りが終わると去って行く。(ほんとにウルトラマンだ!)。これを主役の神様の方からながめると、神が来て祭りが始まり、神が去ると祭りが終わる、ということになる。これが、祭り本来の始まりと終わりである。

★「鉾」を流す意味とは★
 天神祭は「鉾(ほこ)流し神事」に始まる、と言われる。鉾流しとは、文字通り、大川(旧淀川の一流域)に鉾を流す神事なのであるが、この意味は何か。現在に至っては「天神祭の無事と安全、浪花の街の繁栄を祈願するために流される」なんぞという真っ赤な嘘が語られたりするが、真実はもちろん違う。鉾は「行宮」(あんぐう)の地点を定めるために流された。行宮とは神が降りる場所だ。神は気ままで、いつも同じ所には降りない。だから毎年、鉾を流し、そのときどきの神意をお伺いしたのである。

 この鉾流しは天神祭以前の神事に由来すると言う話もある。ケガレの祓え流しだったというのである。さもありあんである。もっとも、祓え流しには人形(ひとがた)が形代(かたしろ:ケガレを移す身代り)として使われていたが。その人形は、ケガレはどこへと流されていったのか。下流へ、つまり海へだ。そしてその海は常世へと至る。常世はまた、神のいる所である。古式では、鉾流しは旧6月1日に、同25日に船渡御が行われた。

(注:川の流れに任せた「鉾流し」の古式は、水運等の事情で江戸時代初めには雑喉場(ざこば)の地に行宮が設定されるようになり、その本来の意味が失われたため中止になった。その復活は約300年後の昭和5年のことである。行宮の方は、雑喉場から戎島に、その後の明治には松島に移された。いずれにせよ、江戸時代以来、流れに任せた本来のスタイルは失われているわけだ。なお、現在は鉾が「神童」によって流されるだけであるが、この神事の直後、旧行宮の松島に神使が向かうとも聞く。年表も参照→こちら

 では、なぜ鉾なのかである。神が降臨するものを「依り代」(よりしろ)と言うが、この鉾は実は依り代である。依り代の元型の一つが、自然の樹木、特に松や杉や榊(さかき)などの常緑樹であるが、それが変態していろいろなヴァリエーションが生まれている。今でも残っている代表的な依り代としては門松などが周知であるが、何だかわけがわからない丈(たけ)の長い旗指物はまず神の依り代であろう。ちなみに鯉のぼりも依り代である。空の彼方(常世)へのかざしに意味がある。

 で、丈の長い物ということで、鉾も依り代となった。祇園祭の山鉾はもう言うまでもあるまい。(ついでに言うと、ハヤタがウルトラマンになるとき、「フラッシュビーム」を手にしてそれを高く空へかざすが、これも「依り代」的動作と言えよう)。鉾が依り代でよいとして、ではなぜ流すのか。実は、森に降り来る神の場合も、その森のどこかに降りるのは間違いないのだが、どの木に降りるかはわからないのだ。神はそのつど気ままに降りる。これが、水辺を舞台とする天神祭では鉾の方を流して神の降誕(ミアレ:神はその都度お生まれになる)地を知るのである。

★本来の「祭り」の一日★
 鉾流しで神が降りる場所を特定する。そこへ人々がお迎えに行く。これが「宵宮」であり、神迎えの儀式なのである。祭りの始まりだ。では、いつ神をお迎えするのであろうか。それは夜でなければならない。一日は夜から始まるとともに、夜は「神の時間」であるからだ。夕闇の訪れとともに、祭りは始まる。これが「宵」宮の本意である。神は宵に本宮ではなく、鉾が流れ着いた所に降りる。神が降臨する所が「仮宮」と呼ばれた。仮宮こそ、宵宮・夜宮であり、行宮・出宮である。そこは御旅所(おたびしょ)とも呼ばれる。本来、あらかじめ社があったわけではないから、仮宮なのである。

 そう、神は短い旅をするのである。宵宮(御旅所)から本宮(天満宮)への旅である。神が旅することをお渡り・渡御と言う。神を行宮でお迎えし、祭場へとお連れすることこそが本来の「渡御」である。ふつうの祭りでは、地上に降りた神は馬に乗って移動する。それが天神祭では船なのである。これが船渡御である。

(注:天神祭ではなぜ船なのか。これについては、古代の「八十嶋(やそじま)祭」というものが起源だという話がある。大嘗祭のあと、難波の海浜で新帝が島々に平安を祈る祀りが水上で行われていたのである。大坂・難波という地での、古代以来の水利の重要性や良さが船渡御を生んだものと思われるが、それだけではなくさらにその背後には、紀記神話の国生みのイメージから始まるような、海のもつ幸の豊かさ、母性、そして常世のイメージが漂うように思う。)

 それから、神童について述べておこう。神童とは依り代である。子どもは神の国に近くにある存在で、神が依り付きやすいものとされた。現在の天神祭でも、神童は鉾流しから船渡御まで常に祭りの中心にいる。それもそのはずである。実は渡御の間、神は神童という依り代の中にいるのであるから。だから、古式では、行宮への渡御列の中心には神が依るべき神童が座っていなければならない。(現在はこのお迎えの船渡御は失われ、船渡御と言えばもっぱら二度目[後述]の「還御」にのみ用いられている)。なお、人が依り代である伝統は現在にまで連綿と続き、ウルトラマンに受け継がれていると言える。

 ともあれ、祭場である本宮にお連れした神は神童から御神体(鏡などの依り代)へと移される。こうして鎮座ましました神を前に祀りが行われる。神饌(しんせん:神の食べ物や酒)を供え、御幣(ごへい、ぬさ:本来は布)を捧げ、祝詞(のりと)を挙げ、神楽(芸能)を奉納して、神とともに夜を過ごす。まつらう(おそばに仕える)ことこそが「まつり」である。こうして夜通し、神と過ごすことが「通夜」の本義である。

 しかし、時は過ぎ行く。神はウルトラマンのように、ある刻限にはあの世に還らねばならない。その刻限とは「東天紅」(とうてんこう)、すなわち一番鶏の鳴く前、夜明け前の曉、明け切らぬ最後の夜である。現在「船渡御」と呼ばれている還御(かんぎょ)は、本来、夜明け前に行われていたはずである。祭場から御旅所へのお送りが還御である。祀りを終え、再び神童に依った神は渡御列にしたがい、降臨地である行宮へと戻る。そして彼方へと去っていく。こうして祭りは終わりを告げるのである。

★祭りから「祭礼」へ★
 ところがである。祭りも時代とともに変化していく。室町時代くらいからだと思われるが、祭りは「祭礼」とも呼ばれ、俗に言う「お祭り」となり見せ物となっていく。そして、本来の祭りの夜が「宵宮祭」(前日祭、前夜祭)とされ、その翌日が「本宮」と呼ばれるようになる。こうして祭りは二日に分裂し、引き延ばされる。神が来る夜と還る夜、その二つの夜の間には、昼、すなわち神の時間ならぬ「人の時間」が挿入される。

 日本精神史の一大画期は、夜の神秘性が失われたときと思われる。夜も「人の時間」となったとき、祭りも変わらざるを得なかったのである。おそらく、この変化が神の居場所をもしだいに変えていった。すなわち、神は彼方からその都度一時的に来るものではなくなり、社・神社の奥に常在されるようになっていったのだ(そもそもは、祭場=神社ですら固定したものではなかった)。そうであればこそ、天神祭の船渡御も往還は必要ではなくなる(神学は論理的なものである)。

 祭礼と化した祭りに、神輿(みこし)や山車(だんじり)などが登場する。風流(ふりゅう)である。天神祭では大きな「お迎え人形」というものも登場する。これらは基本的にもともと依り代のヴァリエーションである。たとえば、神輿は馬に代わる神の乗り物である。祭礼で神輿や山車が数多く繰り出す場合には、祭りの主役である大神そのものだけではなく、各地域での分霊、地域や職業団体が祀る小神(祭神にしたがう神霊群)を乗せるのだろう。天神祭では、天神様は御鳳輦(ごほうれん)に乗るものとされている。また、お迎え人形は様々な英雄たちの姿であるが、それはその霊そのものだろう。お迎え人形とは、文字通り、天神様の来訪をお迎えする神々たちなのである。

★本宮とは「神遊び」である★
 現在の天神祭の本宮の流れに戻ろう。 (注:現在の天神祭の概要については日程表を参照のこと。→こちら)。
 神官たちと夜を過ごした祭神は…、ではなかった。今はあらかじめ神はここにいらっしゃるのだ。本宮の日の午過ぎ、神社の奥に閉じ込められていた神々たち(どの神社でも祭神は複数だ)は次々に御鳳輦以下、特別な神輿に移される。祭礼の流儀にしたがうと、年に一度、社外に解放される日なのだ。

 催(もよおし)太鼓の先導のもと、神々を乗せた御鳳輩などの神輿や馬(本来はこの馬に神が依った神童を乗せて渡御したものと思われる)、これに仕える人々、それに地車一台から成る大行列が町を練り歩く。陸にあるときは「陸渡御」と呼ばれ、川に繰り出せば「船渡御」と呼ばれる、神々と人々のパレードである。

(注:なお、地車が渡御列に加わったのは、ほんの少し前、1991年のことからだ。本来、地車は神々の渡御とは別行動であった。町々から繰り出され、本宮へ宮入りするというのが地車の本来のコースである。今ではたった一台の山車しか有さない天神祭であるが、江戸中期には最高なんと100台ほどの宮入りの記録が残されている。)

 この練り歩きは、文字通り、神と遊ぶという意味での「神遊び」である。神をもてなす一様式なのである。宵宮のもてなしが静的なものだとしたら、本宮では動的なもてなしである。それは大魔神(もちろん横浜→マリナーズ・佐々木投手のことではなく、往年の大映映画の「大魔神」のこと)の和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)の関係にも似て、神の荒魂と遊ぶ様式なのである。

 たいていの神が慈悲深い面とともに凶暴なまでに恐ろしい一面をもっているが、この天神様ももともとは本邦随一の祟り神である。その本来のエネルギーを一部解放してもらう場が祭礼なのである。それ故に、だんじり囃子をにぎやかにかき鳴らし、太鼓をたたいては大声で叫び、神輿を大きく揺り動かし、地車を勢いよく引き回すようなことが善しとされるのだ。ちなみにウルトラマンという「祭り」で言うと、宇宙怪獣との闘いの場面こそこれに当たる。

 こうして本宮も夜を迎える。渡御列は大川へと向かう。船渡御(実は、船「還御」だ)の始まりである。現在の船渡御は上流へと向かい、Uターンして戻ってくる。地盤沈下で下流へ向かう途中の橋がくぐれなくなり、1953年以来、上流へ向かうコースをとることになったのだ。前述のように、海=常世へ通じる下流へ、行宮へ向かうのは来訪神が彼方へ還るためなのだが、その本義はとうに失われていた。しかし戦前までは、律儀にも下流の松島行宮へと船渡御は向かっていたのだ。また、この渡御を「お迎え」していたのが、お迎え人形たちであった。行きと還りが見事に反転しているのである。

 それにもかかわらず、上流に向かう船渡御の中、御鳳輦船上で挙行される、現在の「水上祭」という神事とはいったい何なのであろう。本来は神との送別の儀礼であろうと思われる。行宮まで神をお送りし、お別れしたときの儀式のなごりがここに残っているのだろう。

 しかし祭礼となった天神祭では、神は彼方へは還らない。そう、天満宮へ戻らなければならないのだ。だから、祭礼の神は「まだまだ遊び足りない!」と駄々をこねる。これが宮入り前の停滞である。人々はいま一度神輿を揺らし、囃子たてる。神はようやく宮入りすることを許し、神輿から神社の奥へと鎮まられる、明年の出座を楽しみにして。

★「ウルトラマン」という物語★
 本来、祭りとは、「彼方」より神が人々の近くに来訪することで始まり、その神を自分たちの祭場までお連れして、歓待した上で、再び来訪地より「彼方」へお還りいただくことで終わるという構造なのである。天神祭で言えば、夕方に行宮で神を迎えて、本宮にお連れし、明け方には行宮に再びお送りすることで終わる。船渡御とは、船による神の歓送迎行列だったのだ。それが、いつしか行宮が固定し、さらに片道の船渡御となった。一方で、神は神社に棲むものとして、年に一度、社の奥よりお出ましいただき、再び社にお戻りいただくのが「お祭り」(祭礼)となったのだ。このようにして、現代の「神遊び」だけの珍妙な天神祭となったのである。何度も脱線するように引いてきたが、「ウルトラマン」とはかくして日本本来の「祭り」の物語だったのである。


(後記)祭り、そして天神祭は予想以上にむずかしい。以上はひとまずの第一稿としたい。

(参考)「日本の祭り(祀り)の古形を求めて
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