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田村隆一詩集『四千の日と夜』

冬の音楽

 そのようなことがないとは言えぬ どこか僕の知らない地上の果てで そこはきっと霧の深い都会のなかの地階の部屋で ちょうど僕のように二十五歳の痩せた青年が 髪は灰色 北欧の言葉で語る 革命の行動原理について 狂気か感傷か それがたとえ一九四七年冬の嘔吐であったとしても他人事だといまでは誰が信じよう ひょっとしたらモジリアニの絵のなかの男のように 細い頸をかしげて瞶めているのではなかろうか 眼差しは定かでない もう明らかでないない 定かでない もう明らかでない宇宙のなかで 眼ざめている男のように

 笑ってはならぬ たとえ蛆虫に匹敵する運命に出会ったとしてもいまだけは笑ってはならぬ 拒絶しようと引摺ろうと比類ない無数の運命を愛撫せよ

 君だけだ おそらく最初にして最後の人間は! 僕はドラマを放棄する もっと巨大なドラマのなかで

 歌声は遠ざかる 手を垂らして夥しい足音は消えてゆく 地階の部屋から 僕の沙漠から そして都会の灯は明滅する 憂鬱な時間形式よ 厳粛な金利生活よ さらば!

 それが夏の日の少年時の記憶や雪の夜に喚起する孤独な嗅覚に結びつけられているにしても 観念によって支えられない生のヴィジョンというものを想像することができるだろうか だが僕はピアニストにならって眼と指とによって生のヴィジョンを支え絶えず修正しようと試みる 風が吹きはじめる よろしい 宇宙は徐々に冷却にむかう 石の中に眼を! 指は平衡をたもとうと必死に願う 僕の眼よりもさらに大きな眼を 永遠と呼ぶべきだろうか かかる瞬間を 眼があらわれた 微笑をひそめて彼は問う 自明の超克に関して 虐殺命令! 眼と指との間隙に 文明の墓地に 僕はのめりこむ 冬の音楽

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