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田村隆一詩集『四千の日と夜』

三つの声

その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
あらゆる囁きよりもひくく
あらゆる叫喚よりもたかく
歴史の水深よりさらにふかい
一〇八三〇メートルのエムデン海淵よりはるかにふかい
言葉のなかの海
詩人だけが発見する失われた海を貫通して
世界のもっとも寒冷な空気をひき裂き
世界のもっともデリケートな艦隊を海底に沈め
われわれの王とわれわれの感情の都市を支配する
われわれの死せる水夫とわれわれの倦怠を再創造する
その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
    おお なぜなら
    われわれは罪を犯すことができないから
    われわれは恐怖の統計だ 恐怖の統計
    われわれは肉欲の宣言だ 肉欲の宣言
    われわれは罪を犯すことができない
    おお なぜなら
    われわれは個人ではない
    われわれは群れであり 集団だ
    われわれは集団そのものだ
その声は涙をとおってきた
その声は一滴の涙をとおってきた
あらゆる貧しきものよりも貧しく
あらゆるいとしきものよりもいとおしく
白熱せる心よりさらにはげしい
二千年前にひとりで死んだ男の痛ましさよりはるかにはげしい
言葉のなかの愛
詩人だけが発見する失われた愛を貫通して
世界のもっとも沸騰する瀑布にきらめき
世界のもっとも乾燥した咽喉にながれこみ
われわれのエネルギーとわれわれの皮膚に侵入する
われわれの信仰とわれわれのキスを破壊する
その声は涙をとおってきた
その声は一滴の涙をとおってきた
    おお なぜなら
    われわれは愛によって破滅することができないから
    われわれは情熱の発明だ 情熱の発明
    われわれは危機の情報だ 危機の情報
    われわれは愛によって破滅することができない
    おお なぜなら
    われわれは孤独ではない
    われわれは群れであり 集団だ
    われわれは集団そのものだ
その声は「時」を超えてきた
その声はたったひとつの「時」を超えてきた
あらゆる過去よりも暗黒の未来をもち
あらゆる未来よりも輝ける過去をもち
神の慈悲よりさらにするどい
東京・中央標準時午後八時
二月の子午線を通過する「馭者」の光よりはるかにするどい
言葉のなかの「時」
詩人だけが発見する失われた「時」を貫通して
世界のもっとも青ざめた頬に接吻し
世界のもっとも荒廃した地平線に夕日を落とし
われわれの屍体とわれわれの淋しい停車場を掠奪する
われわれの科学とわれわれの血を偽証する
その声は「時」を超えてきた
その声はたったひとつの「時」を超えてきた
    おお なぜなら
    われわれは死ぬことができないから
    われわれは不死の広告だ 不死の広告
    われわれは消耗の政策だ 消耗の政策
    われわれは死ぬことができない
    おお なぜなら
    われわれは個人ではない
    われわれは群れであり 集団だ
    われわれは集団そのものだ
その声をきいて
ついにわたしは母を産むであろう
その声をきいて
われわれの屍体は禿鷹を襲うであろう
その声をきいて
母は死を産むであろう

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