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田村隆一詩集『新年の手紙』

大陸横断列車内のわが性的経験

午後十時
おれは東京に帰るためにアイオワのマリオンからロサンジェルス行の長距離列車に乗った レインコート一つに小さなボストンバッグ なかには下着とライ麦ウイスキーだけだ 黒ん坊から氷をもらって夜明けまでウイスキーをのみつづける おれの独房の大半は便器と小さなソファだけ 便器に脚を投げ出したまま北米の星の数をかぞえているのもわるくない ジェーン ナンシイ ワンメイ

正午
おれの頭上に陽は高い 眼がさめたらワイオミングのシャイアンだ この町には銃器と皮革の匂いがたちこめている 停車中の一時間 おれは西部の町をぶらついたが若い女にはとうとう会えなかった 犬と老婆と老人だけ

午後三時
ここは荒廃の国ではない 不毛なのだ もし十年後に二日酔のおれがこの空間をまた通り過ぎることがあったとしてもなんの変化もあるまい 時がとまっている 鳥もとばない この凹凸は自然のものではない 五月だというのに死も復活もないのだ ここがロッキーだ だがおれの眼にはロッキーが見えない 性もデカダンスもこの空間では発生しようがない おれの五感は分離しひたすら抽象的になる 耳と眼と鼻とおれの渇いた舌は四方に拡散する おれの心は独房のなかだ 独房は便器のなかだ

午後十一時
ソルト・レイク・シティを過ぎて夜に入った 感覚は闇のなかだ 満天の星 おれはライ麦ウイスキーをのみつづける ユタからネバダヘ 岩から岩へ 岩から沙漠へ 沙漠から沙漠へ おれは車内のバーからバーへ渡り歩く アメリカ語とスペイン語の世界からおれはおれの独房にかえる おれは便器の上にベッドをひきずりだす おれは死の床に入る だれかが おそらく亜麻色の髪の毛の女が唾液に光る舌をたらす 舌は硬直する 舌はおれの肛門から直腸までためらいながら入ってくる 生殖のない性がおれの血管のなかを走りぬける 拡散していたおれの五感がかえってくる 闇の中心に おれであると同時におれでない中心に まるで一篇の詩を読むみたいだ まるで一篇の詩を読むみたいだ

午前九時
「グッモーニング・サー あと一時間でロサンジェルス」ドアの外から黒ん坊がおれに声をかける

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