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田村隆一詩集『新年の手紙』

水銀が沈んだ日

追いつめられた鹿は断崖から落ちる
だが 人間が断崖から落ちるためには
一篇の詩が必要だ

寒暖計の水銀が沈んだ日
ニューヨークのイースト・ヴィレッジにある
安アパートをぼくは訪ねて行った

階下は小さな印刷屋と法律事務所
詩人の部屋はその二階だが
タイプライターと楽譜が散らぼっているだけさ

むろん 詩人の仕事部屋なんか
昔から相場がきまっている 画家や
彫刻家のアトリエなら 形の生成と消滅の

秘密をすこしは嗅ぐこともできるけれど
ここにあるのは濃いコーヒーとドライ・マルチニ それにラッキー・ストライク
ぼくには詩人の英語が聞きとれなかったから

部屋の壁をながめていたのだ E・M・フォースターの肖像画と
オーストリアの山荘の水彩画 この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ ヴィクトリア朝文化の遺児を自認する「個人」とオーストリアの森と
ニューヨークの裏街と

 「日本には一九三八年に行った それも羽田に一時間だけね
 まっすぐ戦争の中国へ行ったのだ
 イシャウッドといっしょにね」

寒暖計の水銀が沈んだ日
「戦いの時」のなかにぼくはいた
詩人の大きな手がぼくに別れの握手をした

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