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田村隆一詩集・補遺

部屋 或は近代音楽

それは暗い眼をもっている人間のために
彼の形而上学は生きてきたのだ
彼の不眠の魂は存在してきたのだ
この認識の悪魔 戦慄の美学者 早熟な囚人の手の跡が爪の傷口が
彼の青春のたった一つの思い出だった 地球のごとくザラザラして
二十五年 きみの青春の思い出も美しいか 花のごとく 花の傷痕!
彼はほほえむ 彼の全生涯を賭けて彼は微笑の意味を知る   やっぱり美しいと そして苦悩だけが微笑するのだと
倒れかかってくる!
暗い中庭と狭い廊下 日本の秋が
彼の背中に 彼の判断力に 曲りくねって
死んでいった世界の母が後に呼びかける
文明の墓地から 近代の海から
もの憂く だるく セザアルのソナタ 耳のないソノリテ!

  開かれたままのあなたの窓 それでいてこの部屋は閉ざされているのです
  ながいこと置かれたままのあなたの椅子 それでいて事物は定かでないのです
不意に  
歓喜と絶望とが 精神と情熱と 自由と必然と 死と肉欲とが彼の部屋に君臨する
お母さん! 私の文明が襲撃されている!
しかし  
何ものもこの部屋では証明されやしない
俺の無口な経験がバラバラになる
世界は多次元に変貌する
地球は悲しい思い出と夢で覆われてしまう
海は彼方に投げ出される 俺の影の部分から彼女の乳房の下へ!
彼は歩いている コツコツと部屋の中を
コッコッと部屋の中を
いたる処で 手の触れる処で 眼の固くひらかれる処で
彼は断崖を見る 彼は沙漠にいる 指が折れる 音楽が曲ってくる 彼女の
美しい顔から舌が垂れてきて
世界の倦怠から 父の孤独から 母の虚無から
俺は遁れたい! 俺は放棄したい 人間を 人間であることの運命を その誠実を
俺の恋を!

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